市街地にて
込み上げる吐き気は、揺れのせいだけでは無い。ふらふらと立ち上がり周囲を見渡す。
お仕着せの衛士が駆けずり回る中、見覚えのある猫背が現れる。思わず縋るように声を出した。
「あ、あの!」
猫背の男は辺りを見回し、少女の姿を目に留める。自身の脱色した髪を片手で混ぜながら、こちらへと歩いてきた。
「なんで外にいんの」
男の一声と共に、何度目かの地響きが轟く。土埃を見据え、男は何処かを指差す。
「とりあえず、本部いこう」
「はい……」
小走りに男に着いて行く。怒号が飛び交う中、通りの一角に設営された幕屋に男はするりと入った。続いて少女も分厚い布を捲る。
「戻りましたか」
出迎えの言葉は、少女に対してのものではない。壮年の衛士に男は会釈をして、簡素なテーブルの上の地図を眺める。
「門崩れたよね」
「土嚢を置いています」
「門の人員はそのまま、他の部隊は避難できてない人探してやって。攻撃は効いてんの?」
「当初のルートからは逸れています。神殿を狙ってはいないようです」
「いい調子じゃん。じゃあ、避難場所はあそこのままで」
そうして男は何かを思い出したように辺りを見回す。
「さっきの子は何処いったの」
「取り残された住人を救助すると言って、外へ」
「ふーん」
すぐに興味を失ったのか男は生返事をする。「さっきの子」が誰か、少女はそれとなく察した。
「攻撃に行って欲しかったんだけど」
言葉を切った後、男は天幕の隅を捲り上げて空を眺める。当初の何処かどんよりとした印象の目も、今は真剣そのものの眼差しに変わっていた。
「おつかい、行こっか」
首を引っ込め、男はそう告げる。
「三人でさ、攻撃してる人達に物資持っていこ。まだ水とか残ってるでしょ」
「は、はい!」
横で返事をする衛士の隣で、少女は固まる。少女の心中を思ったのか、男は頭を掻いた。
「いる?ここ」
地響きが轟く。
「……い、行きます」
「ん」
少女の言葉に頷いて、ひらひらと手を振る。天幕の入り口を開ける衛士に続いて外に出る。その後を、男もついて来た。
「指揮、取ってるんですか」
気になって尋ねる。血の気の無い顔が神殿を向いた。
「指揮官ぽい人いたんだけど、あの中に籠ってる」
かける言葉もないまま、天幕の外に積まれていた紙包を渡される。どこかで嗅いだ油脂の匂いが漂った。物資とは即ち食料のことなのだろう。
城壁のような門を見る。青空に飛行機雲のような白い軌跡が走った。よくよく眼を凝らすと門の一角から放たれている。軌跡は雲を貫きはしたが、ミジンコまでは届かなかったようだ。
「水はさ、出せる人いるんだよ。その人に任せてる」
「それも加護なんですか」
「ん」
少女は二つ、男と衛士は四つ。包みを抱えて門へと向かう。
二人を見失わないようにしつつ、空を仰ぐ。上空から突き立つ鰓脚と本体たるミジンコの姿は健在だった。
男の目には、「あれ」は見えているのだろうか。
「あの」
「何?」
「ミジンコ、見えますか」
「ミジンコって何?」
男とのやり取りの最中、ミジンコが大きく動いた。鳥にも似た横顔が向きを変える。
単眼と目が合う。
足がすくんだ。ミジンコと正面から向き合う機会が、人生で訪れるとは思ってもみなかった。
見つかった。何故かそう直感する。
「なんか攻撃止まった?」
男がぼやく。
そんなはずはない。彼方からすれば、少女達なんて豆粒よりも小さいはずだ。それでも注視しつつ、少し先を駆ける男と衛士の後を追いかける。
波が来る。
「わ」
少女の足がもつれるのとほぼ同時に、鰓脚が動き出した。ゆるりと旋回する「微生物」は、両手を挙げるように棘を引き上げる。天に昇るソレを衛士は見上げながら、喜色を浮かべた。
「消えていきます!」
違う。
消えてなんかいない。本体はまだ宙にいて、確かに世界を見下ろしている。虚ろな単眼が何かを見定めたように揺らぎ、ほんの僅かな間活動を止める。
心なしか、風も波も止まったような気がした。
世界が静まり返る。
「また来る!」
少女は叫ぶ。
鞭のようにしなった鰓脚が、天を割った。
不思議なことに、時間が異様に遅く流れているような感覚があった。隣の衛士は茫然と空を見上げているし、男も眼を見開きながらも身動き一つ出来ずにいる。かく言う少女自身も、緩慢に周囲を見渡すことしか出来なかった。
振り下ろされる鰓脚は、おそらく広範囲に影響を及ぼすだろう。この街も、神殿も、人々も、ひとたまりもない。
当然少女も無事では済まない。そんな言葉すら生温い結末が、あと僅かに迫っている。
遠い遠い場所で死ぬ。
そう思い至って、少女はどうにもならない焦りを覚えた。
いや、まだ何か出来るはずだ。走って逃げることも、周りに逃走を促すことも、まだ何もやっていない。だから口を開いて、足を動かして。動け、動け、動け。
ここで死ぬわけにはいかない。
首筋でぬるりと海産物が蠢いた。馴染んだ感触が分離するのに気を取られ、大気や雲を巻き込むように迫る棘から目を逸らす。
途端、空が遠ざかった。




