窓辺にて
扉の向こうで、騒々しい気配が生じる。老人は僅かに頭を下げて廊下を覗く。ドアの隙間から、物々しい様子が伺えた。
「魔獣でしょうか」
「法都からは遠い。安心なさい」
不安げな女性を宥めるように老人は囁く。そして少女に向き直り、再び予言書を示した。
「この写本は貴女に差し上げます」
「わ、わかりました。ありがとうございます」
「この予言書に記されていることは、我々の理解を超えたものばかりです。貴女方イジンならあるいは」
幾らかページを捲る。抽象的な表現が目につく。その中に数式のようなものもあって、それは少女の手には負えないだろう。
「なにとぞ……」
老人は深々と一礼をする。つられて少女も会釈をするのを見届け、老人と女性は部屋を出た。
かちり、と微かな金属音がして扉は閉まる。鍵を確認しようとして、やめた。もし施錠されていても、どうしようもない。
相変わらず廊下は騒がしい。
予言書を布団の上に置いて、傍に腰掛ける。
いきなりものすごい事を任されてしまった。老人の言葉を反復しつつ横たわる。この街、いや、世界にやって来たイジン全員の使命だとしても、「世界を救う」というのは荷が重すぎる。何を勝手に、という思いも存在しないわけではない。
「なんでかね」
海産物しか居ないのをいい事に、無責任な呟きをこぼす。
それでも、他に道は見えていない。
予言書を開く。いきなり数式だらけのページを引いて、少女は目を細めた。
少なくとも、受験で出るような計算式ではない。
胸の上に本を伏せ、目を閉じる。顔の側で布団が沈んだ。海産物が徘徊しているのだろう。薄らと海の匂いがして力を抜く。瞼の裏で光がフラクタルを描き、外界の膜が体に纏わりつく。
波が押し寄せて来た。
「!」
ベッドから弾き飛ばされる。
なんだ、今の。
床でへたり込んだまま、混乱して辺りを見回す。確かに衝撃を受けた。潮流のような暴風の中のような、為されるがままの力を感じた。だというのに、部屋の調度品は何事も無かったかのようにその場にある。ただ海産物だけが、何かを察知したように微動だにせず沈んでいた。
ふらつきながら立ち上がる。
再び世界が波立った。
おかしい。おかしい。
何かが近づいてくる。
周囲をかき回されながら膝をつく。回る白亜の床をただただ眺めていると、首筋に冷たいものが這い上がった。
視界の隅に海産物が垂れ下がる。平静を取り戻して少女は息を整えた。
扉が開く。
「イジンサマ」
見知らぬ衛士が部屋に立ち入る。項垂れる少女を見て目を見開き、その場で立ちすくんだ。
「……魔獣が法都近辺に出現しました」
駆け寄るでもなく、衛士は告げる。
「法都の南端で被害が出ています。全てのイジンを動員せよと、神託が降りました」
「シンタク?」
反復する少女の視線の先で、衛士達が廊下を右往左往する。先程の喧騒とはまるで違う、物々しい空気。
さっきのは地響きか何かだったのか。そう思い至った途端足元が揺れる。今度は幻覚のような波ではない、本当の揺れだった。衛士がふらつきサイドテーブルの水差しが倒れる。
客間の一辺に走り寄る。薄く削った貝のような材質の窓越しでは、外の様子もわからない。力任せに開け放した。
眼下に街並みが広がる。これが法都か、などという感慨があるはずもなく、少女は抜けるような青空に立ち昇る煙を見つける。
家が崩れている。出火もあるようだ。しかし、「元凶」が見当たらない。渦中に目をこらしても逃げ惑う人々と衛士達ばかりだ。
「イジンサマ」
痺れを切らしたように、背後の衛士が少女を呼ぶ。
加護も無いまま彼処に行くのか。
何が出来るのか。
返事も出来ずに窓枠に手をかける。焦りが体を硬らせた。
ぬるりと海産物が顔に這い上がる。息が詰まりそうになって、覆い被さる襞を捲り上げた。
再び世界が揺れる。
窓の向こうの空がたわんだような気がして、目をこらした。鰯雲が砕けて一方向に青い筋を作る。泳ぐ魚が水面の花弁を割るような動きだった。
その筋から、「棘」が降りてくる。
声も出ないうちに、棘は街門の向こうの丘陵を掠めた。土埃を目視して少女は叫ぶ。
「今の!」
丘陵を指し、衛士に告げる。
「見た?なんか、棘!」
騒ぎ立てる少女の側で、衛士は尻込みをするように廊下へと出た。
「さ、さあ早く!貴女のお力を」
遠巻きに告げる衛士。加護があろうが無かろうが、あれを相手に戦えるとは思えない。何か戦略はあるのだろうか。
「加護、とかまだわからないけど、皆さんはあれとどうやって戦ってるんですか?」
追い払うことは出来ると老人は言っていた。成功した事例はあるのだろう。
しかし、質問を受けた衛士は浮かない顔で沈黙する。
「イジンの加護を持ってすれば、二日程で消え失せます」
「二日?」
二日も暴れるのか、あれが。
そんな問答の間にも、棘は遠くの丘陵を引っ掻く。そのまま、竜巻のように地をなぞり街門へ近づいて来た。その奥から二本目、三本目の棘が降りる。
棘?
上空を見上げる。無数の節が連なった棘の先は一つだった。「それ」はゆらりと棘をそよがせ、水を掻くように雲を混ぜる。
棘ではない。脚だ。
雲の裂け目から青天が現れる。その空に浮かぶ魔獣の姿を見て、少女は固まる。
学校の授業で見たことがある。
もっともその生き物は、決して雲をつき地を割るような大きさでは無かった。
空の彼方に蜃気楼のように浮かび上がる魔獣は、少女の世界でミジンコと呼ばれている生物によく似ていた。




