誰も説明してくれない(2回目)
全身びしょ濡れの上泥だらけになったままで、三葉は木の根元に集まった落ち葉の上にちんまりと座って、熊改め獅子のような男の様子を眺めていた。
すぐにでも森を出たいだとか着替えたいだとか思わなかったのは、未だに現実感が乏しかったからかも知れない。
男は何処から取ってきたのやら、細長い木の枝を湖の前の地面に刺すと、その枝の前で片膝を折り、両手を組んで何やら熱心に祈っているようだった。
ポツポツと漏れ聞こえる言葉の雰囲気からするに、古語のような祈り特有の言葉があるのかも知れない。
(そういえば、明らかに日本語ではない雰囲気なのに、意味が分かる上に僕も話せるんですよね)
相手の見た目を何度見直しても、やはり日本人には見えない。
場所も日本ではなく相手も日本人ではないのに何故か言葉が理解できる。
なお、三葉は英語は日常会話程度なら理解できるが、彼の話す言葉は英語でもないようである。
なにしろやる事も無い三葉は、立てた膝に頬杖をついてぼんやりと思考を巡らせる。
もしこれが神隠しだとして、普通は神隠しというのは日本の神様の領域に踏み込んでしまうことや妖怪にさらわれるような事を言うのではないのか。
「いや、神隠しに遭ったことありませんけど」
思わず声に出してしまい、青年が不思議そうな顔でちらりと振り向いたので、気にしないでくれと手を振った。
はて、西洋風だとは思ったが、この獅子のような青年が実は妖怪だとか鬼だとか……そういえば書物の天狗や鬼というのは昔の日本人が海外の人と遭遇して誇張たっぷりに描写した産物だと聞いたこともあるけれど……。
ポカポカとした木漏れ日を浴びながら、ぼんやりと青年の姿を眺める。
どうやらひととおり祈りを終えたらしい彼は、皮の鞘の金具をパチリと外して大刀を抜き出した。
鉈のようだと思っていたが、三葉の知る鉈よりも長さも厚みも重量もありそうで、白く光るように砥がれた刃は湾曲して牙のように研がれていた。
あれは、三葉には想像もできないような大きな生き物を両断する為に作られた武器に違いない。
武器の事など何も分からない三葉だが、そうでなければ不自然なほど、その武器は大きかった。
そして、それはつまり、そのような大きさの生き物がこの辺りには棲息しているという事に他ならない。
三葉はぞわりと鳥肌の立つ腕を思わずさすった。
そうして小さくなりながら眺めていると、男が湖から清水を掬ってその刀身にかけるのが見えた。
すると、まるで熱した鉄を冷水に浸けたかのように、ジュッ、ジュジュッ、と音をたてて蒸気が上がった。
まさか熱した大剣を腰に提げて来たはずもあるまいし、湖の水が強い酸性などという事もあるまい。
なにしろ昨夜水に落ちて溺れた三葉が無事生還しているのだから、冷たいだけのただの水のはずである。
持ち前の知識では説明しようのない不思議な現象に目をぱちぱちさせていると、何度かそれを繰り返された刀身が薄っすら青白く光っていくのが見えた。
(なんでしょう、綺麗ですね)
じっと眺めているうちに、深く青く輝くようになった大剣を、男はまた鞘に収めた。
「よし、行くか」
三葉は好奇心に駆られ、戻ってきた彼のもとへ足早に寄っていった。
「今のはなんですか?水をかけただけで刀が青く光りましたが」
「……、…………なんだって?」
しかし、言った途端に男の顔色が変わった。
何か失言をしただろうかとヒヤリとする。
男がギュッと眉を寄せて真剣な顔で三葉の眼を覗き込んできたので、焦った三葉は思わずピシャッと背筋を伸ばしてわずかに顎を引いた。
その様子に何か察したらしい男は大きく左右に首を振ると自分の指で眉間の皺をぐいっと伸ばした。
「すまん、怒ってない。だが、もう一回言ってくれないか」
少し距離を取り直して、「もう一回」と出された人差し指にコクコクと頷く。
「ええと、あの刀に水をかけたら、煙……蒸気?何か、白いモヤモヤが出ましたよね」
「ああ」
「それで、そのあと、こう、刀全体がふわっと、青白く光って……」
「っち、」
「えっ」
怒ってないと言ったくせに、目の前で盛大に舌打ちをされ、そんな嘘をつく人だとは思わなかったと心の中で叫んでしまった。
「いや、待て、違う。あんたに怒ってない。……怒ってないんだが……」
「どう見ても怒ってるんですが」
慌てたように手を振られたが、二度目となると三葉も容易には信じられない。
何故だか、ひどく裏切られたような気分でジロリと睨んでしまうのがやめられなかった。
そうして睨んでしまってから、普段の自分らしくない感情の揺らぎにはたと気付いた。
こんな事で裏切られたと思ってしまうほど、初対面のこの男を全面的に信頼してしまっていた。
(参りましたね、こんな若い子に甘えてしまって。これは恥ずかしい)
自戒する三葉に気付いたわけではなさそうだったが、責められた男はうぐっと言葉に詰まって困ったように額を押さえて頭を掻きながら必死に弁解した。
「いや違う。つまり、なんだ、あー、……あんたが土に埋まってたのが納得と言うか……いや、この森を出るのを急がないとまずい事が分かったというか……面倒が増えたと言うか……」
その話が全て、どこで繋がるのか、三葉には全く理解できなかった。
しかし、大きくため息をついた男はどうやら言葉で説明する事を諦めたらしかった。
突然三葉の腰に腕を回し、そのまま肩の上へひっ担いで森の中を駆け出し始めた。
「ちょっ、……おおお!?なんですか!いきなりなんですか!?」
「じっとしてろよ!あとできるだけ口閉じとけ!舌噛んでも知らねえし、『奴ら』が寄ってきても知らねえぞ!」
「や、やつら?」
かけられる忠告が不穏当過ぎて不安が増す三葉である。
「その話は後だ後!森抜けたら聞いてやる!」
「ええぇぇぇ……」
森の中を駆け抜ける男は狼か、あるいはカモシカのようだった。
木の枝や根など無いかのようにスルスルと木々の間を駆け、岩場や崖を軽々と駆け登りあるいは駆け降り、道無き獣道をまるで迷い無く進んでゆく。
しかし一方で、肩に担がれた三葉は彼が走るたびに頑健な肩で腹の辺りを突き上げられるので、なけなしの腹筋に必死に力を入れて巨躯にしがみつく以外にどうしようもなかった。
途中で何故か、蛇の大群のように蠢くツタに追いかけられたり、巨大な猪らしきものの群れに囲まれたり、突然前方の何も無い空間に火の手が上がって焼けそうになったりした。
わけが分からない事だらけだが、質問をする余裕など三葉にも無く、勇ましく頼もしく、今は何故かどこかに対して怒り散らしている青年が自分を放り投げていかないことだけを祈って縋るしかなかった。