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それは恐怖をもたらすもの

 遠い場所で咆哮が聞こえる。

それも、『金鴨鹿ゴールドアンテロープ』の咆哮ではない。


遠くに聞くだけでも高音と低音が入り混じり、頭の奥がグラグラとする音だ。


「こいつは……『恐慌熊テラーベア』だ。間違いねえよ……」


耳を押さえながら唸ったのはジェイクだ。

彼は酒場で一緒に飲んだ冒険者に、その話を聞いたという。


「妖精の国の山奥へ入ると遭遇することもあると聞くが……なんでこんな場所で遭遇すんだよ、おかしいだろ……」


 ぶつぶつと呟くジェイクの様子も平素とは違う。

顔が土気色になり、視線もキョロキョロと定まらない。


「ジェイク先輩、はい、息吐いて〜、ゆっくり吸って〜」


 ルーカスが手に乗せて出してきたのは『安息香』と呼ばれる薬草を利用した魔導具だ。

その甘い香りを嗅ぐと、ジェイクも次第に落ち着きを取り戻したようだった。


大きく息をつき、ようやく自分が恐慌状態に片足を突っ込んでいたことに気付いたらしく、愕然とした顔で口元を覆った。


「軽度の恐慌テラーならこれでも気つけになります。持ってってください。……でも、俺、敵は恐慌熊じゃないと思うっす」


 持ち帰るべき荷物をぎゅっと背負い直したルーカスは、やや青い顔でウェインとジェイクを見比べた。


「俺、皆の実力は知ってます。恐慌熊なら苦戦はしても、倒せないなんてことは思わないと思うっす。でも、あいつは……あの気配は、もっとヤバいです。二人とも、倒そうと思わず救助と逃走を優先して欲しいっす」


 ルーカスは言動こそ軽いが、このような勘を外すことは滅多に無い。


 ウェインとジェイクは静かに、しかし重々しく頷いた。


✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎


「いた!」


 轟音と咆哮を聴きながら少しずつ進むと、剣を持ったテッドの姿が木の影から見えた。

よく見るとその額からは血が流れている。


ウェインはすぐにでも駆け出したい衝動を抑えて、木の影から彼の対峙する相手を探った。

同時にアーヴィンとイアンの姿も探したが、現在のウェインの位置からでは見えないようだった。


「まて、待て待て……」


 今にも飛び出しそうなジェイクの服の裾をグッと掴んで声をかける。気持ちは完全に暴れ犬を押さえるブリーダーの気持ちだ。


「敵影を確認しないで飛び出そうとするな、馬鹿犬」

「馬鹿犬って……だって隊長が、そこによぉ……」

「だから馬鹿だってんだ。状況確認してからだ、馬鹿」

「……あんまり馬鹿馬鹿言うなよ……」


 くぅん、と声が聞こえそうなほど眉を下げて悲しげな顔をするジェイクを放っておいて、ウェインは慎重に場所を移動する。


草の影からそっと覗くと、ようやくテッドの対峙する敵が見えた。


「……毛皮が……赤い……」


 『恐慌熊テラーベア』といえば黒地に紫の毛色の熊のはずだ。

ところが、今目の前にいるその熊は、全身が赤く胸にV字に白い毛が見える。

少なくとも恐慌熊のはずは無い。


「あれ、なんだか分かるか?」


 ジェイクの袖を引いて確認するが、ジェイクも分からぬようで首を振る。


「もしかしたら、もしかしたらだけどな。昔聞いた、『恐怖熊フィアーベア』かも知れない」

「……なんだそれ。語感はやや可愛くなってるが」

「これを見てて可愛いとか言えるあんたの神経疑うぜ。……遭遇して帰った奴が居ないから、見た目を知ってる奴が居ないって話だ」


 冒険者の間にはその手の、名前と要素だけ語られる詳細の分からない魔獣が多く存在する。

理由のわからないまま立ち入り禁止になって長い区域もある。

 

「そんなもんに、今、遭遇してるってのかよ……大した冗談だぜ」


ウェインは引きつった笑いを浮かべたが、ジェイクは笑うことすらできないようだった。


「悪い冗談はそれだけじゃねえ……その熊と戦ってたやつは……『味方同士で殺し合いをしてた』って話だ」

「……精神感応系か……」

「それも、恐慌程度じゃねえ。幻覚か、混乱か……」

「まずいな。……テッド連れて、イアンとアーヴィン探して逃げたところで、俺達が背後からザックリやられる可能性があるってことだぞ」


青い顔で唸るウェインにジェイクも頷く。


「だが、助けねえ選択肢はねえだろ?」

「当たり前だ」


 ウェインがカバンから護符を取り出す。

木の板に銀と魔石の粉で呪文を書いた、解呪アンチスペルの魔導具だ。


「それから、お前もこれをつけてけ」

「……なるほど?」

「効くかどうかは、怪しいがな」


そうして互いに『それ』を持って、作戦の詳細を詰めて散開することにした。


「もし俺があんたに剣を向けたら、躊躇ためらわず切ってくれ」

「当たり前だ馬鹿。お前相手に手加減なんかしたら、全滅確実だ」


縁起でもない事を言うジェイクの胸を、ウェインの拳がドンと叩く。


「だからな。……俺にお前を切らせるなよ、大馬鹿野郎」


下から睨むようにして言われたその言葉に、ジェイクはくくくっと喉を鳴らして笑った。


「あんた本当、最高だよ」

「うるせぇ、馬鹿」


 もう一発胸元に拳を食らい、ジェイクは軽く咳き込みながら大人しく目的地点へ向かった。

これは、どうしたって気合を入れて臨まなければなるまい。


✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎


 ジェイクは走った。

 体格も良く体重も重いジェイクだが、スピードに乗った彼の最高速度は馬と競えるほどだ。

全身を魔力の波が強化して、脚も腕も疲れる事なく動かし続けられる。


 眼前に迫った真っ赤な熊が、大きく息を吸い込んだ。

咆哮の前兆だ。


「ーーっうぉらああっ!!」


 咆哮を打ち消すつもりで大音声だいおんじょうを上げ、ルーカスから預かっていた炸裂弾を熊の顔面に向けて投げつけた。


「ーーオ゛ぉっ……!」


吠え声を上げようとした顔のそばでニ発、口の中で一発の弾が炸裂して衝撃音と火花を上げる。


「いくぞ!『強化斬撃パワースラッシュ』!!」


 魔力を込めた一撃を叩き込もうとしたが、その剣が大きな剣激音を立てて止められた。


「ーーっ、隊長……!!」


見ればテッドの目は焦点が定まらず、顔は土気色で、手足も奇妙にガクガクと揺れている。

しかしジェイクが攻撃の予備動作を取ると即座に反撃の動作を返してくる。


「ぐっ、……目ぇ覚ましやがれ!ちくしょう!」


 ジェイクは叫び、魔導具の護符を懐から取り出した。

テッドの状態がどうなっているかは分からないが、これで正気に戻せるはずだった。


しかし、その護符を出した途端、痛みに呻いていた筈の恐怖熊フィアーベアがジェイクに向かって突進してきた。


「うおっ……」


巨大な黒い爪のついた手が、ジェイクの居た場所をなぎ払う。


「あっ、」


 それは、一瞬の事だった。

咄嗟に爪を避けたジェイクの腕に熊の爪がかかり、それも避けようとしたものの護符だけが弾かれて宙へ舞う。


そしてその、ほんの一瞬で、恐怖熊フィアーベアは護符を叩き割ってしまったのだった。


「……こいつ、護符を狙ってやがる……!!」


この魔導具が自分を不利にする事を、既にこの熊は学習しているのだ。


 考えてみれば先ほどから咆哮を上げようとせずテッドに向かわせてくるのもおかしな話だ。


「炸裂弾も学習しちまったってことかね……」


この熊はなるほど、手強い相手だと気を引き締め直す。


「くそぉ、隊長相手じゃ本気も出せねえ……」


彼にこれ以上怪我をさせるわけにはいかないが、かと言って手を抜いているとこちらがやられてしまう。


ふらふらと揺れて普段よりも剣筋を読みにくいテッドと切り結びながら、ジェイクは隙が生じるのを待っていた。


「ーーそうだ!」


 ジェイクは胸ポケットから予備の護符を取り出して、できるだけ遠くへ投げた。

恐怖熊は予想通り、それを即座に破壊しようと横へ飛んだ。


そしてジェイクの手元にはもう一つ。

胸から下げていた自分用の護符。


「おらよっ!!」


その自分用の護符を正面に立ち尽くしていたテッドの胸に押し付け呪文を紡ぐ。


「『平穏を取り戻せ!解呪アンチスペル』!!」


 銀の紋様のようなものが解けるように広がり、魔導具が青く光り、広がった紋様が砂糖菓子のように砕けて溶けて消える。


「……ジェ、イク……?」


地面へ引き倒す形となっていたテッドが、まだいくらか茫然ぼうぜんとしたまま、それでも目の焦点をジェイクに合わせた。


「お目覚めですか?馬鹿隊長」

「……刺激的な朝の挨拶のおかげだ……」


いくらか疲れた顔で、しかし薄く笑って返答を返され、ようやく押さえつけていた身体を解放してのしかかっていた脚をどける。


「よぅし、ようやく反撃……」


言いながら恐怖熊を振り返ったジェイクの目の前で、赤い熊が大きく立ち上がって息を吸い込んだ。


「ーーやべぇっ!」


 咄嗟とっさにジェイクはテッドに飛びつき彼をかばう事を選んだ。

その頭を抱え込んで身体を被せる。


ーーオ゛ォオ゛オ゛ぉ……っ!!


頭の芯がビリっとしびれてぐらぐらする。

視界が揺れる。


「う、ぐ……」


ふらつく足で、立ち上がり、剣を構える。


「……ジェイク……?」


対峙する男の唇が確かにそう動いた。

しかしジェイクは、構えた剣をおろさなかった。

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