ひたすらオチもなくラーメン画像付きでラーメンを語るだけの小説。
当小説内の写真は、84gがママチャリ日本一周中に遭遇した美味いラーメン屋のラーメンである!
毎日八時間自転車を漕いでいたのに太るくらい美味しい! でも仕方ない! 美味いから! 皆! ラーメン! 食おう!
もし美味しさが通じなくても、それは全面的に84gの撮影技術の不備で有り、ラーメンには一切の責任が無いことを付け加えておきます。
ラーメンに貴賎なし。ただ美味いラーメンと残念なラーメンがあるだけである。
ラーメンに正解なし。ただ完成されたラーメンと途上のラーメンがあるだけである。
――ミツィノクの哲学者:ハッチズウ・ヨンズィ
美しい君はいつも汚れる。私の手によって。私の体液が丸みを帯び艶のある君の白に伝う。
割れそうな繊細で陶器のようなに君のくびれに絡めるとき、私の指は火傷しそうなまでの熱を感じる。痛みのような君の温もりは私の誉れ。君に口付けする。ああ、自分を抑えられない、君の全てに舌を這わせて私のものにしたい。君を愛してる!
しょっつるラーメン(秋田)
ラーメン食べたい。とにかく食べたい。美味いのが食べたい。
嗚呼、ラーメン食べたい。一生涯ラーメンだけを食べ続けるか、ラーメンを許されない生涯か、どちらかしかないのならばあなたならどちらを選ぶだろう。
どちらも生命は担保される。しかし生命が有れば生きていると言えるのだろうか。人間は人間としての尊厳を守ってこその生命ではないのか。ラーメンとは生命である。
替えの利かない命、替え玉のできない店の大盛のように、強く生きていけるだろうか。
いつからだろう? 厚切りメンマが目立ちだし、ナルトの乗った店が減っていく。今となっては当たり前の光景。ラーメンは移り変わる。さながら時代のよう。
スローなモーフィング映像。時は徐々に刻まれていく。時はネギのように人によっては細かったり、あるいは大きかったりするが必ず刻まれていく世界は移り変わる。世界は止まることはないがラーメンはきっとそこに有る。
鍋焼きラーメン(高知)
麺のようにコシを持ち、スープのように熱く生きよう。厚く切ろう。チャーシューのように。
チャーシューはトロトロだけが正しいのではない、固くしっかりした物も正しいのだ。最初にチャーシューに噛みついても良い。最後に残しても良い。その度に気が付くのだ。チャーシューは大事だが麺があってこそのチャーシューだと。
麺よりもチャーシューが主役であると思うときもあるだろう。でも、最後は思い出して欲しい。必ず主役は麺とスープなのだ。乗っているものがなんであろうと、どんな看板が大きくても、主役はいつでも麺とスープ。チャーシューはチャーシューの、麺は麺の誇りを持って食べていこう。
そんな当たり前。チャーシューより大きい肉でも変わらない。
何を求めるのか、自分が何を欲しいのか、分からなくても良い。分からなくてもラーメンはそこにあり続ける。
未来が輝いているとは限らない。ラーメンが澄んでいるとは限らない。でも未来は必ず訪れる。細い未来か太い未来かはわからなくても、その未来に背かず、箸で捉えて行って欲しい。ラーメン食べたい。
徳島ラーメン(徳島)
コッテリしたラーメンに惹かれることもあるかもしれない。コッテリも良いだろう。自分の持ってないものを羨ましく思うときもあるだろう。今の気分は背油系。
コッテリ系の重厚な味付けは最高である。替え玉したい。深い重さの中にナトリウム系のしょっぱさが舌からするりと喉を経由して脳を支配するような破壊力を一口で発揮することが多い。それがコッテリ系。
だが、アッサリは非力なのだろうか。アッサリとはコッテリのできそこないなのだろうか。そうではない。
……全然関係ないけど大盛が麺二玉と一玉半のところあるじゃん。あれは統一して欲しい。出てきてあれってなるのだ……。
確かにアッサリは一口ごとの破壊力は足りないかもしれない、しかしレンゲを置きドンブリを傾けてゴクゴクと飲み進めるとき、脳だけでなく身体全身を香りが駆け巡り、緩やかにいつの間にか全身を包んでいるときがある。
アッサリとはコッテリのできそこないではない。人それぞれのスープがある。自分の無いものを求めても良い。アッサリとコッテリを選べる店も有る。
だが、それが必ずしも片方しかない店に勝るわけではない。自分の味を磨き続けた先に必ず自分が居るはずだ。他者を認め、そして自分を磨くということをラーメンは我々に訴え続けている。
濃いスープに沈んだもやしのように正しさが見えなくなることもあるだろう。でももやしは無くならない。他のラーメンを羨んでも良い。良い所を取り入れても良い。でも自分の誇りだけは失くさないで。スタンプ十個で一杯無料・九個まで集めたスタンプカードのように大事にして欲しいのだ。
大概は途中で味玉とかに替えちゃうような気がしても頑張って。なんか十個で一杯無料のとき、三個か五個くらいで味玉だよね――。
世界でただひとつのラーメンであるという誇りを。
佐野ラーメン(栃木)
地域密着、地域に愛されて、地域が生んだ数々のラーメン。
過去が有るからこそ、今無形の文化として人々の愛を集めることがある。一口ごとに未来を噛みしめる。土地から出ていき他の土地で開く店も有る。とにかくラーメンは花が開くように輝き、愛される。
花はどこで咲いても花、ラーメンはどこで食べてもラーメン、人生はどこでも人生。
のびたラーメンは戻らない、その一瞬にノリはスープを吸っている。逃してはならないそのときを。濡れたノリは戻らない。食べたいタイミングを逃さずに、口の皮が火傷してベロっと剝がれることが有ってもラーメンを恐れないで。醤油に塩に味噌、鳥ガラ、トンコツ、煮干し。その香りは一期一会。命のこもった一杯に一生懸命。一所懸命。
節系ラーメン食べたいなー、骨系ラーメン食べたいなー。しっかりしたの、香りが良いヤツ、食べたいなー。
場所を選ばず、人は腹が減る。腹が減ればラーメンは美味い。どこで咲いても腹が減る。だから行け。
牛骨ラーメン(鳥取)
どんなときにでも想っている。寒い夜、あの愛する人もまた震えているのだろうか。冷めているのだろうか。
ラーメンはそれだけでは冷めるだけである。人はラーメンを食べなければ凍えるだけである。人はひとりで生きることができるかもしれない。しかしひとりだけでは凍えてしまう。
――たまにレンゲじゃなくてなんか漆塗りっぽいスプーンみたいなのでスープ飲むところあるじゃん、あれ、名前なんかあるのかな――
凍えてしまうとき、ラーメンを思い出して。あなたの好きな一杯を。口の中に唾液が満ち、温もりを思い出して欲しい。人が一人だとしても一人でないとしても、ラーメンはそこに有る。
尾道ラーメン(広島)
ラーメンとはなんだろうか。
かん水の入った麺をアツアツのスープで食べるあの小金だろうか。
しかしながら、同じようなスープにコンニャク麺などを入れるものをラーメンと呼ぶことは正確さを損なうとしても、それは罪ではない。
麺や汁、あるいは両方を冷やしたものもラーメンと呼んで差し支えはなく、最大にして唯一の否定条件である『マズいこと』に比べれば、なんともないただの記号である。
真っ直ぐでも、曲がっても捩じれても、ちじれていても、ラーメンはラーメン、白くても黒くても赤くても、自分は自分であり、熱くても冷たくても自分の好きなものを好きだと信じて欲しい。ラーメン食べたい。
冷やしラーメン(山形)
ラーメンの唯一絶対の条件とは、『美味さ』であると呼べるのではないだろうか。三段論法である。麺・スープ・具の三段仕掛けが如き三段論法である。
身体を温められないラーメンも構わない。しかしながら心を温められないものをラーメンとは呼ばない。
人の心を温めるものをラーメンと呼ぶならば、このテキストはあなたのラーメンであれただろうか。一時の幸せをあなたに贈れただろうか? 私の何かはあなたのラーメンであれただろうか?
私は私の描いたテキストがあなたのラーメンで有れば、それこそが私のラーメンで有る。
――ぶっちゃけると、これの誤字チェック中も腹減って来てるのでラーメン食べたい。小説が有ればラーメンが無くて良いとは思いませんし、ラーメンはラーメンでしかなく、他のラーメンはラーメンの代わりにはならないわけですが、ここで云うラーメンはラーメンでなくて、そう、つまり……えーっと、まあ、とにかく。
らっきょうラーメン(福井)
【ラ】
サンマーメン(神奈川)
【-】
カレーチーズラーメン(北海道)
【メ】
インスタントラーメン(自宅)
【ン】
博多ラーメン(福岡)
【食】
パイクーメン(熊本)
【べ】
和歌山ラーメン(和歌山)
【た】
ガウラーメン(千葉)
【い】
味噌カレー牛乳ラーメン(青森)
【!】
富山ブラックラーメン(富山)
店名は大分怪しいです。レシートが無いお店や、貰っても失くしている場所も多いので。
なので、『これどこですか?』とか訊かれても回答できません。旅に出て下さい、としか……。
ラーメン食えよ! アバヨ!