前編
平和と平等の女神たる聖ベネデッタ。彼女を主神として崇めるベネディアンナ王国には、三つの大きな組織が存在する。
一つは評議会。一つは騎士団。残る一つは聖ベネデッタ教会である。
聖ベネデッタ教会の中でも「天秤の従僕」と呼ばれる組織は、王族及び貴族に対する審議処断権を持っている。
彼らの正体は謎に包まれており、その実態を掴めた者はいない。確かに公式記録に残っているのにもかかわらず。
それは「天秤の従僕」が有する秘術により、事件に関わった者の記憶が局所的に消されているためである。
関係者が覚えているのは、「天秤の従僕」のシンボルマークのみ。傾いた上の皿に生首が乗った天秤。下の皿には命よりも重い、けれど見えない何かが乗せられているのだ。
先日聖ベネデッタ学園で起こった、第三王子ウィルフレット殿下とローズベリー侯爵令嬢の婚約破棄騒動も「天秤の従僕」によって治められたという。
人気の多い昼休みのテラスで起こった事件だったが、秘術によって「天秤の従僕」の正体はわからずじまいだった。
ただ一人を除いて。
*
「ご機嫌よう、ベイリー様」
聖ベネデッタ学園に通う「天秤の従僕」のベイリー。彼はいつも通り、昼休みのテラスで平和を満喫しながらコーヒーを飲んでいた。
聞いた者が感動するほど美しい音色で、声を掛けられるまでは。
コーヒーカップに落としていた視線を上げると、そこに佇んでいたのは金髪碧眼の美少女。いや、淑女と言い換えた方がいいかもしれない。
凛とした、という表現が似合いすぎる彼女は、優雅に微笑みながらベイリーの返事を待っている。
「……こんにちは、マリアベーラ嬢。ご機嫌麗しゅう」
「ええ、ベイリー様も。お探ししましたわ。どこにもいらっしゃらないんですもの」
その言葉に少しばかりの棘を感じたベイリーは、サッと視線を下に落とす。
例の婚約破棄騒動の後、お礼を言うためにとマリアベーラがベイリーを探しているのは風の噂に聞いていた。
聞いていたからこそ、今の今まで逃げ隠れていたのである。捕まると面倒なことになりそうだと思ったから。
魔術的な技法により個人認識能力を極限まで低下させる、「天秤の従僕」の秘術。これには一つの弱点がある。
ごく稀に、この手の魔術が一切効かない人間がいるのだ。目の前のマリアベーラのように。
そのとき、まさかな、と思ったものである。数十年に一人と言われる特異体質が、まさか彼女であるはずがない、と。
この状況を見る限り、マリアベーラがその特異体質者であることは間違いない。
楽観視していたのは事実だが、現実となると困ったものだ。ほぼ思考停止状態に陥りかけながらも、ベイリーはとりあえず言葉を発する。
「あの……その呼び方、やめてもらえませんか」
「まあ。どうして? あなたはわたくしの恩人ですのに」
おもむろに渋い顔をするベイリーを見ても、マリアベーラは特に気分を害した様子は見せない。
それどころか、座っても? とベイリーの前の席を所望する始末。
仕方なく、まったくもっていたしかたなく、といった様子で、ベイリーは彼女に席を勧めた。
「それでは、ベイリーさん、とお呼びしてもよろしいでしょうか」
優雅に腰掛けながらそう言われては、断る言葉も浮かばない。
様付けよりはマシだ、と無理矢理自分を納得させておいて、ベイリーはこくりと頷く。
「まずは、お礼を。先日はわたくしの身の潔白を示してくださって、ありがとうございました」
「そんな改まらずとも。職務ですし」
「それでも、わたくしが救われたことは事実ですわ」
普段面と向かって礼を言われることがないため、何だか居心地が悪くなってしまう。
気恥ずかしさを誤魔化すようにコーヒーに口をつけた。味なんてわかったものでもないが。
「それで。……また何か、事件でもありましたか? 今度は王弟殿下が誘惑されているとか」
「それはいつものことですけれど」
現王の弟君、シルヴェスター・アレク・ベンフィールド殿下は偉丈夫として有名だ。
先王と身分の低いメイドの許されない恋の末、城下町でひっそりと生まれたその出自とか。先王の最期の望みとして探し出されたものの、兄弟間の争い事を避けるため自ら継承権を放棄したとか。出自を隠し叩き上げで騎士団長になったとか。
逸話だらけの人気者である。市井からの人気はぶっちぎりだ。
そんな王弟殿下を新しい婚約者として迎えることとなったマリアベーラは、思いのほか幸せな婚約生活を送っているようだった。
軽い嫌味を言った自覚はあったが、まさかこう面と向かってのろけられるとは思わなかった。苦虫を噛み潰したような心地で、ご馳走様ですと心の中だけで返答しておく。
マリアベーラはこほんと一つ咳払いすると、居住まいを正して真っ直ぐにベイリーを見つめた。
「……実は相談したいことがありまして。今、お時間よろしいでしょうか」
ないです、と言うにはベイリーは暇人であったし、昼休みの時間は有り余っていた。ついでに言うなら、いやです、と断れるほどの勇者ではない。
彼に残されたのは、「とりあえず聞くだけなら」という問題の先送りだけである。
マリアベーラは嬉しそうに両手を合わせ、ベイリーに容易く礼を言う。
それから、王弟殿下から聞いた話だが、という前置きで相談事とやらを放し始めた。
「最近、妙に辞めていく若い騎士が多いらしいのです」
「若い騎士? 自己退職ですかね」
「ええ。けれど、辞めたいと言い出したのがあまりにも急だったそうで」
ベネディアンナ王国法典上、最低でも半月前に退職願、もしくは退職届を人事担当に提出すれば、自己都合による退職は認められており、それは騎士団にも適用される。
基本的には辞める前に上司に相談するのが普通だ。騎士団なら隊長に相談し、そこから大隊長などに話が伝わり、最終的には騎士団長が判を押して受理される。
しかし、今回の若い騎士たちはそういった手続きを踏まえず、騎士団長である王弟殿下の元へ直接退職届を提出したのだとか。
「若いからこそ知らなかった、とかでは」
「最初はそうかとも思ったのですけれど、人数が多かったようでして。わたくしも調査のお手伝いができればと思っておりますの」
「調査するんですか? 失礼ですが、あなた自ら?」
「ええ。未来の騎士団長の妻たるもの、ここで黙っているわけにはいきませんもの」
確かに妙な事件ではあるが、マリアベーラが動く必要はあるだろうか。そう思いながら、ベイリーは思考を巡らせる。
貴族の子息令嬢が多いこの学園にベイリーが入学しているように、上層部に貴族が多い騎士団にも、勿論「天秤の従僕」は潜入している。そもそも「天秤の従僕」に所属する前から騎士だった者もいるので、潜入というか兼任と表現した方がいいのかもしれないが。
同僚たちが職務を放棄しているとは思えない。では、何故動かないのか。
動かないのではないかもしれない。動けない、のだとしたら。
ふと、ベイリーはマリアベーラに視線を向ける。
金髪碧眼の淑女は、真っ直ぐに背筋を伸ばしベイリーに微笑みかけていた。
何の曇りもない微笑みに、何の意味も込められていないのだと思うほど、ベイリーは甘くもないし馬鹿でもない。
騎士団内の「天秤の従僕」が動けないのを知った上で、ベイリーに接触してきたのだろうか。はたまた、動きがないから妙だと思ってカマを掛けにきたのだろうか。
相手は才媛と名高いマリアベーラ・ローズベリーである。その微笑みにどんな意図が隠されているかなど、所詮平民のベイリーには皆目見当もつきやしない。
一学生であるベイリーが騎士団に行くためにはかなりの手続きを要する。
教会の権力で視察に行ってもいいのだが、それだと裏の動きは探りにくい。
その点、彼女は騎士団長の婚約者だ。その協力者としてならベイリーも動きやすい。
「……お上手ですね」
「あら。何がでしょう?」
怖い話だ。ひやりと背筋を嫌な汗が伝うのを感じながら、ベイリーは三秒ほどかけて息を吸い、同じ時間をかけて息を吐き出す。
深呼吸のおかげで思考はクリーンだ。メリットとデメリットを考えて、ベイリーはマリアベーラに恩を売ることを選ぶ。
「僕も個人的に気になりますので、お手伝いさせていただきたいんですが」
「まあ、同行していただけるので?」
「ええ。どうかお力を貸していただけますか? ベンフィールド夫人」
王弟殿下に与えられた家名で呼んでみるという、少しばかりの意趣返し。
素直に言うことを聞くのも癪だと思ってやったことだったが、ベイリーはすぐさま後悔した。
「まあっ。いやですわ、そんな。まだシルヴェスター様とは婚約だけでして。夫人だなんて! あっ、本当に嫌というわけではないのです、そうではなくて……」
思ったよりも熱々なのろけ話で、カウンターを食らい続けることになったからだ。
ちなみにこのスーパーのろけタイムは、ベイリーが「もう勘弁」と頭を抱え、可及的速やかに調査しましょうという言質を取られるまで続いた。
なお、マリアベーラが話しかけてきたあたりで例の秘術は既に構築済み。
そのため、婚約者の格好良さに身悶えるローズベリー侯爵令嬢という世にも珍しい光景は、他の誰にも見られていないことだけは補足しておこう。
*
数日後、休日の朝からベイリーはローズベリー侯爵家の馬車に乗せられていた。さながら出荷される子牛の気分で。
向かう先は騎士団だ。マリアベーラが目の前に座っているのも気にせずに、はあ、とベイリーは大きな溜め息をつく。
「よく考えなくても、僕がやる必要はなかったんじゃ……」
「縁だとお思いになって諦めてくださいまし」
ほほ、と優雅に笑うマリアベーラにじっとりとした恨みの目を向けつつ、ベイリーはこの人本当にいい性格してるよなあ、と考える。
十年もの間、第三王子の妻になるべくして育てられた令嬢だ。簡単に御せるとは確かに思ってはいなかったが、まさかここまでとは思わなかった。
婚約破棄騒動の後。ベイリーを探していた彼女は、周囲の全てと自らの印象が異なっていることに気が付いた。
周囲は「天秤の従僕」については覚えているのに、ベイリーという一生徒については欠片も覚えていないというのだ。
まさかこれが「天秤の従僕」の実態が掴めない理由なのではないかと考えたマリアベーラは、すぐに教会へと赴いた。彼女自身に「天秤の従僕」の邪魔をする意思はないことを明らかにするために。
教会上層部や「天秤の従僕」の幹部などは、彼女に定期的な協力を求める代わりにこれを受け入れた。協力といっても、二カ月に一回程度礼拝に参加するだけでいい話だ。主に秘術の精度向上のためである。
ちなみにこの件は当然ベイリーも知っている。
マリアベーラがベイリーを探しているという噂をすぐに本部へ連絡したおかげで、本部も彼女への対処法をいくつか考えられた、というわけだ。
マリアベーラはその後、第三学年のベイリーという僅かな手掛かりを元に、超マンモス校からベイリーを探し出してみせた。
その理由は勿論、お礼を言うためだけではない。「天秤の従僕」の秘術さえ使えれば、相手はベイリーではなくても良かった。
彼女は話を聞いてほしかったのだ。新しい婚約者がいかに恰好いいか、素晴らしいか、というのろけ話を。ただし誰にもバレないように。
この数日間、昼休みになるとマリアベーラはご友人たちと別れてテラスにやってきた。
テラスの一番端の席。緩い秘術を展開しながら歴史小説を読み、コーヒーをすするベイリーの席に。
以前は秘術など使わずに周囲を観察していたベイリーだったが、今となっては周りの目など気にせずにコーヒーをすすってみせる。勿論、マリアベーラの前でも。
マリアベーラは普段から抑圧されている所為で誰にも溜まった感情を発露できなかったし、ベイリーもベイリーで王族関係の話が聞けるのは職務的にもありがたい話だ。
奇妙な関係だとは思いながらも、二人はお互いにそれを指摘しようとは思っていない。
思ってはいないが、本当にいい性格をしている、とベイリーは思わずにはいられないのだ。
現に、今だって。
「ああ、どうしましょうベイリーさん。変なところはありませんか?」
「……今日も見目麗しく最高の美少女ですよマリアベーラ嬢」
「感情がこもっていませんわ! 髪も服も、家のメイドが完璧に仕立ててくれたとはわかっているのですけれど……もし変なところがあってシルヴェスター様に嫌われたらと思うと……」
「いや、それはないんじゃないですかねえ」
何せ、十年以上もマリアベーラに恋い焦がれた男だ。ちょっとやそっとじゃ嫌わないどころか、そんな君も素敵だとか言いそうな気がする。
糖分過多な想像に辟易しながら返した言葉に温度はない。当然だ、今日はできる限り感情を殺しておかなければ、砂糖でも吐き出しそうな勢いなのだから。
何度も何度も髪形や服装、薄くほどこされた化粧などを確認するマリアベーラ。
それを死んだ目で見ながら、無味乾燥で適当な返事をし続けるベイリー。
奇妙な空気の馬車が騎士団の王都本部へ辿り着いたのは、それから十分ほど後のことだった。
*
事前に連絡を入れてあったのか、馬車は門前の騎士に呼び止められることもなく騎士団本部内に入った。
正面入り口扉から少し離れた位置でベイリーとマリアベーラは馬車を降りる。
今日のベイリーは、マリアベーラの協力者という体でここにいる。
騎士団長である王弟殿下にはマリアベーラから伝えてあるらしいが、他の騎士たちには知らされていないのだろう。妙な視線が突き刺さっているのを肌で感じる。
すぐにやってきた案内役の騎士にすら変な顔で見られたものだから、ベイリーは思わずへらりとひきつった笑みを漏らした。
生来向いていないのである、こういった場は。「天秤の従僕」のくせに情けない話だが、だからこそ記憶に残らず記録にしか存在しない組織は向いていると言えなくもない。
応接室に通され、とりあえずソファーに腰掛けたマリアベーラの視界の端で、ベイリーは立ち尽くすばかりだった。
応接室とは名ばかりの貴賓室。室内に飾られている調度品は全てが一級品ばかり。
生半可に知識があるものだから、あれはいくら、こっちはいくら、と値段ばかり気にして呆然としてしまうのも無理はない。
「ベイリーさん。お掛けになってはいかがですか?」
「無茶を仰る……。そのソファーはロンディスブランドの一級品。テーブルなんてクローウィリ社のレベルⅤ相応でしょう。こっちもクローウィリで、そちらはアルチェアルドのお抱えデザイナー、ゼーロ氏の一点物!」
最高級家具のオンパレードに興奮するベイリーと、逆に少し引いた様子で顔を引きつらせるマリアベーラ。
お詳しいんですのね、とマリアベーラがようやく言葉をひねり出すと、ベイリーは何に対してか謎の憤りを感じながら、職務柄必要なので、と叫ぶように返した。
「いや、でもこれは異様ですよ。騎士団にこんなお金回ってるなんて知らなかったんですが」
「……シルヴェスター様への、贈り物らしいのです」
「へ?」
ふう、とアンニュイな溜め息をつくマリアベーラ。彼女が語るには、社交界でも人気のある王弟殿下へ、淑女の皆様からのプレゼントがこの高級品の群れなのだとか。
付け焼刃の知識しかないベイリーにもわかるような高級品だ。武の頂点たる騎士団としては持て余すだろうし、下手に売り払って足がついても面倒臭い。
律儀な王弟殿下は、折角頂いたのだからと騎士団の設備としてあちこちに配置したがったのだが、彼の右腕である副団長が必死で止めてこの貴賓室に押し込めたのだとか。
「なるほど……それで」
微妙に機嫌が悪そうなのか、とは言わないでおいた。
男の嫉妬は醜いが、乙女の嫉妬は可愛いものだ。馬車の中でも散々のろけ話を聞かされたのだから、放っておくのが吉である。
ふんふんと頷くベイリーが、過ぎる程にお高いソファーに腰掛けたのはこの五分後。
騎士団長シルヴェスター・アレク・ベンフィールド王弟殿下がこの部屋にやってきたからである。
誰しもが想像する王子様、ないし理想の男性。なお三十路越え。
そういった文言を用意すれば、必ず脳内に想起されるであろう偉丈夫。それこそが王弟殿下その人である。
人気があるのも頷ける、それこそ老若男女問わずして。三つ目の選択肢は考えたくもないが、そういう層に需要があるのも事実ではある。
またもや、なるほどなあ、などと考えながらベイリーが彼と交わした言葉は数少ない。
マリアベーラには「天秤の従僕」の秘術が効きにくいこと。その体質の所為で教会から無茶な要求は今後一切追加されないということ。それから、今回の件についての協力体制について。
ほぼマリアベーラとシルヴェスターが喋っていたのに対して、ベイリーは頷くばかりだったのは言うまでもない。
やがて多忙な騎士団長が去っていくのを見送り、あれほど固辞していたソファーに深々と体重を預けながら、疲れ切った様子でベイリーは一言こう言った。
「カリスマって、ああいうお方のことを言うんですね」
「でしょう?」
ふふん、と何故か胸を張るマリアベーラに突っ込む余裕もない。
ひたすらにキラキラした何かに圧されてしまったベイリーは、それからのろのろと動き出した。さっさと調査を終えて、寮の自室へ戻るために。
これ以上厄介事に巻き込まれたくない、という気持ちが誰に伝わっているかは、わからないことではあるが。