HNABI 〜記憶3〜
ハルが通勤の乗換えで利用する駅と、俺が住み慣れた街の最寄り駅が
同じことが判明して、じゃぁ知らずにすれ違っているかもよ・・・
なんていつか話していた。
ハルはそれを覚えていたんだろうか・・・・そんな事もうどうでもいいや。
とにかく輪を抜けて走り続け、西口が見えかけたところで終電利用の
乗客の波に飲まれそうになった。その波を必死にかき分ける。
「いた・・・」
帰路に着く酔っ払いのサラリーマンや疲れた表情のキャリアウーマン。
はしゃぎっぱなしのガキ。その全てとは違い、波に漂う感じでシャッターに
もたれ掛かっている女性がひとり。
見たこともないのに、それがハルだと確信していた。
ゆっくりと彼女に近付く。彼女はずっと空を見上げている。
夕方に突然降った雨のせいで濡れた路面に、月明かりが反射している。
足早に通り過ぎた乗客はもういない。
取り残されたふたり。また心臓の音が耳元でする・・・・
やっと彼女にたどり着いた。
「ハル・・・」
彼女はゆっくりと俺の方を向く。
想像よりも少し小柄で、でも華奢な感じはせずかといって豊満でもない。
ノースリーブから伸びた腕にはいい感じの筋肉。
俺を見上げるその眼は少し潤んでいる。やっぱり泣いてた・・・
ハルは何も言わずに俯き、そのまま俺の腰に手を回す。
・・・オンナに抱きしめられるのって、変な感じ。
俺の心臓のすぐ下にハルの髪の毛髪の毛が触れる。まるで心音を
聞かれているようでリズムが狂いそうだ。
ハルの背中にそっと手を回す。かすかに漂う柑橘系の香り。
今まで感じたことのないくらいの、柔らかい感触。
「・・・逢わないほうがいいと、思ってたんだけどな」
しばらくして聞きなれた声でそう呟く。
「あ〜俺もそう思ってた」
「想像以上にオトコなんだね。イズミ」
「何だよソレ。心外だなぁ」
胸元でハルがクスクス笑う。
「ありがとう。ちょっと落ち着いた」
そう言うとハルはゆっくりと俺から離れる。
「何かあった?」
「ん?まぁね。ないとは言わない。でも大丈夫、ごめんね心配かけて」
嘘つきなハル。
話してる相手に背を向けて、うっすら震えている声でそう言っても
誰も信用しないよ。両肩震えてるじゃん。
俺は背中越しにハルを抱きしめた。今度は強くしっかりと。
「イズミ・・・離して」
「やだ」
力なく拒否するハルに俺はきっぱりと言い放つ。
もう悩まない。というかここに来る時点でもう分かっていたことだ。
ハルが好きだ。
どうにもならないくらいにハルが好きだ。
俺はハルの手を取り歩き始めた。
誰かと手を繋ぎ、家路に着く。そんな時間がこんなにもドキドキした
のは初めてだ。
ハルは何も言わず、俺も何も言わない。
ただ手の平から伝わるハルの温かさがとてもいとおしかった。
家に着く頃ハルは少しだけ躊躇した。でも俺はその手を離さなかった。
リビングに通しソファに座らせる。冷蔵庫からビールを取り出しかけて
手を止める。カウンターに並べられた洋酒の瓶を見つめる。
俺はビールを戻し、炭酸水を取り出した。
15歳。紙切れ一枚を置いてオヤジがキョウコと夫婦であることを解消
した日の夜。キョウコはこうやって洋酒と炭酸水をひとつのグラスに
入れて飲んでいた。
「こうやって炭酸水がお腹の中で弾けて、嫌なコト消してくれるのよ」
とか言いながら俺のグラスにもソーダを注いだ。アルコールを割るため
だけの甘さも何もないその炭酸水は唇に辛くて自分が一気に大人になる
気がした。暗示なのかどうか分からないけど、翌日キョウコはすっきりと
した表情で出社していった。
ハルと俺の前に二つのグラスを並べる。
暗い紅色の中で小さな気泡が揺れている。
カシス・スーダ。あの日のキョウコと同じ。
「これ飲むと腹ん中で炭酸が弾けて、嫌なこと消してくれるんだって」
「?」
「俺の母親の迷信」
ハルは微笑むと、グラスに口をつける。
一口二口試すかのようにゆっくりと飲み込む。そうやって飲み干すと
ふぅっと大きく息を吐き出した。
「おかわりは?」
グラスに手を伸ばすと、ハルはグラスの口を手で塞ぎ首を横に振った。
その手にそっと触れる。ハルは俺が触れた手をぼんやりとみつめている。
やがて酔いに任すように話し出した。
「・・・泥棒ネコだって。仕方ないよね、知ってて付き合ってたんだから。
でもちょっと悔しい。奥さんと子供いるの内緒にして口説いたの向こう
なのになぁ。別れるって何度も言ってるのに聞いてくれないのも彼の
方なのに・・・」
小さくなっていくハルを抱き寄せる。
大粒の涙が頬を伝っている彼女のこめかみの辺りに唇で触れる。
こめかみから頬へ、涙の後を伝うように口づけしていく。
そうやって唇に触れそうになった時、ハルが俯く。
「そんなに優しいキスされたら、誤解しちゃうじゃない」
震える声で自嘲気味にそう言ったハルの頬に唇で触れる。
「俺、ハルが好きだよ」
「うん。私も好きよ」
「そういう簡単な好きじゃなくて。こうやっていっぱい色んなところに
キスして、触れ合って、ベッドの中で朝迎えたりしたいって思うような、
そういう好きって事だよ」
ハルはちょっと戸惑って俺の顔を見つめる。俺はハルをちゃんと正面から
見つめた後、もう一度額に口づけする。
額から鼻筋へ頬へ順番に唇で触れていき最後に唇に触れる。
今度は拒まれなかった。
俺はハルを抱き上げて寝室へ向かった。
ベッドの上でもう一度唇に触れた。ハルの唇は柔らかくて温かい。
そのまま、ハルの温かさに芯まで触れた。
*****
まどろみかけた頭の片隅で、微かにドォーンと響くような音がして
眼が覚める。
時計を見ると午前3時を少し回っていた。
さっきの音が気になって、眠い目をこすりながらベッドを抜け出し
窓に向かう。
ブラインドを閉め忘れた窓に顔が映る。寝ぼけた表情の料頬に光の筋
が付いている。指で頬に触れる。涙の感触・・・・
ハルの夢を見るといつもそうだ。
あの日の翌朝、目が覚めると彼女はもういなかった。
キッチンのカウンターにはグラスが二つ。飲み残してあった俺のカシス・
ソーダは綺麗になくなっていて、替わりに淡いピンクの携帯が入っていた。
そして、ハルは存在ごと俺の現実から消えた。
それから今まで俺の携帯に分からない着信が3回。最初は三ヵ月後、
次がほぼ1年後、どっちも公衆電話。最後が三年前の非通知。
どれも俺の声で流れる伝言を残す旨を告げるメッセージの後で切れている。
(要する留守電にあのカチャって切れる音が残されてた)
ハルじゃないのかもしれない。ハルであって欲しい・・・・
そんな気持ちが交差して、忘れられないでいる。
また、遠くの方でドォーンと音がする。まるで打ち上げ花火の弾けたような感じ。
花火・・・・
暗闇を鮮やかに染め上げて街を照らし、人を魅了して消えていく。
そんな一瞬の打ち上げ花火のようにハルは俺の生活を照らし消えていった。
でも
花火はまだ俺の中で燻っている。