Perfume of love
人の気配が感じられない駅裏の通りに、携帯の着信音が鳴り響く。
俺は慌ててジーンズのポケットから携帯を取り出す。
手の中で小刻みに震えている携帯の液晶画面には見慣れた三文字「ヒトミ」
最後に逢ったのって二ヶ月前だっけか?
「なに?」
唐突な出方にヒトミはかなり驚いた様子で言葉に詰まっている。
『あ・・・出てくれないかと思った』
「なんで? 一方的に振られて疎遠にされたの俺の方なんですけど」
『そうだけど・・・』
「で? 用件は?」
『用って程じゃ・・・ただ、どうしてるのかなって―」
かなり思い切りのいい感じで振っておいて、こうやって電話してくるオンナの
神経が良くわからない。
角を曲がりマンションのエントランスに向かうとオートロックシステムにキィを
差し込む。
その後にも続いていく他愛のない会話。ま、たまにならこういうのも悪くない。
エレベータに乗り込み居住フロアに着く頃ヒトミの口調が変わった。
『聞いてみたかったことがあって・・・』
ずっと気になっていたとヒトミは言う。だったらその場で言えばいいのに。
これも良くわからないオンナの心理ってやつ?
「へぇ。何?」
『携帯』
「あぁ?」
『部屋にある・・・携帯』
「・・・・・・」
『ごめん。見ちゃったんだ、淡いピンク色の。絶対ケースケのじゃないよね。
誰のなんだろうってホントはずっと気になってたの。だってケースケもらった物って
別れるとためらいなく処分しちゃうでしょ。なのに大事な書類がある場所に
入ってるから』
「・・・あったっけ? てかお前の縫いぐるみも置いてあるけど?」
『マジ? 取りに行った方がいい?』
「いや、いいよ。結構抱き心地いいから」
『・・・・・なんか嬉しいなその台詞』
心なしかヒトミの声が明るくなった。まぁそんなものか。
『あ、そういえばこの前ねぇ―』
再び他愛のない話が続き、リビングのドアを開ける頃「じゃぁまた」の言葉と共に
通話が途切れる。(本当に「また」なんてあるんだろうか)
俺は携帯をソファに投げ出すと、テレビのスイッチを入れる。
ぼんやりと明るくなる画面に天気図が浮かびだす。明日の天気予報は曇りのち雨。
午前中の降水確率は70パーセント。憂鬱な朝を迎えるのは正直、ちょっと
勘弁してほしい。
冷えたビールのプルトップを空ける。プシュッという炭酸の抜ける小気味いい音が
暗い部屋に響く。半分くらい一気に飲み干し、ゆったりとソファに身体を投げ出すと
疲労気味の全身に緩やかに酔いが回りだす。
のろのろとソファを泳ぐ手に携帯が触れた。そのまま引き寄せると指先で当てもなく
スクロールを弄ぶ。
キョウコ、麻子、職場、連れ・・・いくつかの羅列の中にヒトミの名前。
そしてヒトミの上の名前には鍵のマーク。ロックされた電話番号。
俺は身体を起こすと、サイドボードの引き出しを開ける。パスポートや保険証書
なんかの上に無造作に置かれた淡いピンクの携帯電話。持ち上げると筒状の飾りが
ついたストラップが揺れる。その筒状の中に気に入りの香水を入れることが
できると持ち主が教えてくれた。
もう匂うことはないけれど、記憶の中にある柑橘系の香り。
Portugal 4711
俺はヒトミにウソを吐いた。多分、ヒトミも気付いている。
番号を消去されただの箱と化したものなんて、ガラクタと同じ。
忘れたのなら簡単に捨てられる。
携帯を引き出しに戻すと、酔い醒ましにベランダに出る。
薄い雲の隙間から月明かりがうっすらと漏れている。
消せない番号。箱になった電話。Portugal。
俺に残された、記憶の中にいる彼女との接点。
湿気を帯びた空気が身体中に纏わりつく。そうだ・・・こんな夜だった。
― 同じような空気の中、俺はハルの寝息を隣で聞いた ―