少年
机と書類に埋もれた人影のない夕暮れの部屋に、サインペンが紙を擦る音が響く。
左側に解答を置き、それを元に右側のテスト用紙に丸をつける。
左右の違いにのみ気を使う以外は何を考えていようが構わないこの時間が
俺は気に入っている。
小中学校対象の進学塾。
一人の教師が五人から十人を教えていく。この少人数制が功を奏したのか、
地域の塾の中でかなり高い評価を受けていた。
就職して六年。我ながらよく続いているほうだと思う。
継続ということの大切さを知ったのはいつの頃だったか・・・
俺は口元で笑いながら首を横に振った。
やめておこう、悪い癖だ。
― 貴方は過去に縛られている ―
いつかのオンナに言われた台詞。
「縛られてる? 忘れられない思い出ってないのかよ。オマエには」
「忘れられない? そんな甘いものじゃないケースケのは! 私は貴方の何なの?
その思い出よりも軽いの?」
溢れんばかりの涙を浮かべてそう聞かれ、俺は何も答えられなかった。
その時確かに俺は目の前に立つカノジョを愛していた。現実のカノジョを。
思い出に嫉妬されることに困惑した俺は、結局抱きしめることでしかその場を
ごまかせなかったけ。子供だな・・・
窓から吹き抜ける風にテスト用紙が揺れる。
俺は席を立つと窓に向かい、サッシに手を掛けたその時。
強めの風が机上のテスト用紙を舞い上げて、床中を埋め尽くした。
「あ・・・」
とりあえず窓を閉めると散らばったテスト用紙を拾い集め、席に戻る。
枚数と汚れを確認するうちに採点ミスを発見。
返却前に気付いてよかった・・・ほっと胸をなでおろす。
念のため氏名を確認しながら丸を付け直し、点数を訂正する。
加納瑞希、佐藤泉水、望月泉里
六年生にしてはしっかりした字体で書かれた氏名。
確か・・・こいつら母子家庭とか言ってたな。
どんな場所でも噂好きな奴はいるもので、そういうことは嫌でも耳に入ってくる。
俺が来た道をずっと早くから歩いている少年たち。母親はどういう人だろう。
そんな思いがふとよぎる。
キョウコはいつも強かった。強くて聡明で優しかった。
彼の母親もそうであって欲しい。
全ての採点を終えると、俺は軽く伸びをする。
茜色に染まっていたはずの空は既に宵闇に近付いている。
帰り支度をして、部屋の明かりを消した。
「?」
もう明かりのないはずの部屋が、ぼんやりと明るい。
誰かが消し忘れたパソコンのモニターが部屋を青く染めている。
「海・・みてぇだな」
不意についたその言葉に胸が高鳴る。
『海に行きたいなぁ・・・澄んだ青い海に』
白いシーツの中でそう呟いたハル。
それが俺の聞いた彼女の最後の言葉。
モニターの電源を落とす。
部屋は静かに漆黒の闇に包まれた。
ゆっくりとドアを閉めて、家路についた。
― 貴方は青い海に逢えたのだろうか ―