公爵家嫡子の戦慄
フローラ嬢は、フェリア嬢の2つ下。16歳。
「力を貸せ」
端的で、冷淡。
だというのに、底なし沼のような深く暗い声。
「お、おう」
思わず頷いたのは仕方のないことだと思う。
こいつの、ジリルのこんな激おこな状態は初めてのことだった。
話を聞けば、まぁ、よくあるような話だ。
見目もよく、地位も金もある。その上、士官学校では優秀な成績を修めた将来有望な男だ。
獰猛類かと思うような女どもに人気なのは言うまでもない。
ただし、ジリルにはすでに伯爵令嬢というそれなりの身分の婚約者がいるし、かなり近づきがたい奴でもある。
実際に粉をかけられる女は案外と少なかったが、皆無ではなかった。
その筆頭であるフローラ・ダンバールが家の権力を使って、無理矢理に自身の婚約者の座を射止めてきた、と。
外から見れば婚約者との仲は良くも悪くもない、程度にしか見えないだろうからなぁ。
ジリルがフェリア嬢にベタ惚れってのは俺たちの中では常識だが、他の連中ではそうはいかないということだろう。ただなぁ……
よっけいなことしやがって!!
てのが俺の本音なわけ。
ジリルは怒らせると怖いんだ。慣れていない奴らはジリルが怒ってるのかそうでないのかわからなかったりするらしいが、俺らは冷気を発するジリルが怖い。
士官学校時代でもそうだった。
そんな簡単に怒る奴ではないが、怒ったら空気が変わるんだよ。
士官学校時代にジリルを怒らせたやつの末路は酷かった。地味にすごいダメージを与えるのだ。心が折られるのだ。
何が原因だったっけ。たしか、ジリルを女扱いしたんだ。男でもお前なら金を払って相手をしてもいい、みたいなことを言った奴がいたんだったな。あぁ、うん。ジリルは容姿のことについては今更なので、そんなことでいちいち怒りはしない。
不快だと相手を見下したあとは無視しただけだ。
ただ、その男が見下されたことに腹を立ててこう言いやがった。
「お前みたいな奴と結婚する女はさぞ美しい女なんだろうなぁ。違うなら、自分より美人の旦那ってわけだ。ぎゃは、かっわいそー。俺がもらってやろうか? いっそ、お前男と結婚すれば?」
「は?」
その瞬間、天変地異でも起きたのかと思った。
真冬よりもずっと冷たい、吐く息すら凍るような冷気と体の体重が倍増したようなプレッシャー。
一瞬、息をすることを忘れた。
「お前こそ、男と結婚したいのならば協力してやる」
言った、瞬間。
男が地面に投げ落とされる。その鮮やかな手並みに感動する暇もなく。
見ている方がきゅっと心臓を掴まれるような、一切の躊躇いなく倒れた男の急所に思い切り踵を振り落とした。
「ぎゃあああっあああああ」
「安心しろ、治療すればまだ使える程度だ。いい医者を紹介しよう」
確かにまだ、ジリルは全力ではなかったからこれくらいなら潰れてはいないだろう。
だが、俺はジリルの言う医者という言葉に寒気を感じた。
こいつは、アノ医者を紹介するつもりだ、と。
医療班に抱えられて連れられていく男に、俺はただ同情した。
しかし、ジリルの地雷を踏んだのはあの男だ。いわば、自業自得だ。
ジリルの言う医者が美人の女医……に見える男だとしても。
その男が男色家だとしても。
男色家の医者に急所を治療されることの恐怖は言い知れないものがある。俺は絶対にジリルを怒らせてはならないと誓った。
そんな恐怖の象徴であるジリルがお怒りである。かつてないほどの。
フローラ・ダンバールは白薔薇姫とあだ名される程度には、まぁ、綺麗な顔をしている。
だが、ジリルの美貌を見慣れている俺らにとっては所詮はただちょっと綺麗な顔をしているだけの世間知らずのお嬢様である。きゃっきゃ騒いでんのは取り巻きと若い調子のいい男どもばかりだ。ダンバールの実績は大したもので、ダンバール侯爵へのお世辞でちょっと大げさに褒められているわけなんだが、本人は絶対わかってないな。
フローラ・ダンバールは驚異ではない。
問題は、娘を溺愛してか事の次第に見境がなくなっているダンバール侯爵と、そんなダンバール侯爵と経済の面で利益を得るために繋がりを持ちたいジリルの両親だ。
普段は仲が悪いくせに、こういう時だけ仲良く意見一致させるとかやっぱジリルの親として好きになれんわ。
婚約を白紙に戻すには婚約によって得られる利益を別の方法で得ればいい。
そんな簡単に利益が得られないからこその婚約という手段なわけだが、そこは俺たちの権力の出番ということね。
「西のワーゼナット侯爵を知っているか? あの女を、その侯爵に嫁がせようと思ってな」
「……は?」
ワーゼナット侯爵。
確か40歳になったかならないかくらいの、それなりに格好いいオジサマって感じの侯爵。表向きは。
「ダンバール領の特産に織物があるだろう? あれに使われる糸の一部がワーゼナット領のものらしい。ただし、ワーゼナットも特産が織物だ。その辺りで二家はあまり仲が良くはない」
「足の引っ張り合い、だったか」
「そうだ。そこでフローラ嬢をワーゼナットに嫁がせる代わりにワーゼナットの糸を安くダンバールに卸させると約束させる。それと、ワーゼナットはワインを好む。ダンバール産のワインもかなり好んでいるようだから、まぁまぁの値段で買わせるつもりだ。それがダンバールの利だ。ワーゼナットの方は昨年、奥方が亡くなって今は喪に服している。従って、今は表だってフローラ嬢と婚約できないから一時俺という身代わりを仮初の婚約者に仕立てた、という筋書きにしてフェリアの評判を戻す」
西の侯爵家であるワーゼナットに頼まれれば領地の近いレオンハット伯爵家は無碍にできない、と。
おまけに一応フローラ嬢は美しいと評判の娘だ。並みの婚約者なら横取りもないとは言えないが、ジリル相手にそんな真似をする男はそうそういないか。その上、婚約者は家格が下の伯爵家。少々の無理は聞く。
「あー……ワーゼナットの利は?」
「奥方の実家男爵家とはかなり関係が悪化している。跡取りの息子も男爵家側に居る状態だ。フローラ嬢と男爵家への口利き、それがワーゼナットの利だ」
ふむ。
ワーゼナット侯爵の奥方は男爵家出身。婚姻当初の男爵家は金も権力もなく売るようにして娘を嫁がせるしかなかった。
夫婦仲は決して良いとは言えないものの奥方が侯爵に逆らえるはずもなく、男児を一人出産したあとは家に引きこもっているとも聞いていた。
それが数年前、病気にて実家に帰省。
表向きはそうなっているが、本当のところは心の病で実家が無理矢理に連れ帰ったと聞く。
男爵家には未だ金も権力もないが、今回のことにジリルが加わってくるとなれば話が違う。
ワーゼナットの本当の利は、男爵家への口利きではなくジリル・レオンハットとの取引だ。ここでジリルの提案に乗れば今後も懇意に付き合いができる可能性こそがワーゼナットの利となる。
しかも男爵側にはジリルとの繋がりを見せて息子への余計な口出しを出来ないようにも出来る。
だが。
「いいのか? ワーゼナットは正直、お前にとって嫌いな人種だと思っていたが」
「当たり前だ、あんな下衆を好きな訳無いだろう」
げ、ゲスってはっきり言いやがった。
まぁさ。わざわざワーゼナット侯爵なんて奴の名前が挙がった時点で、奴の所業を知っているのはわかってたけど。
一応、かなり限られた連中しか知らないはずなんだけどな?
「ふん、とりあえずあの煩い勘違い女を引き取ってもらえるなら文句はない」
よほどフローラ嬢が嫌なんだな、お前。
「マーシャル、お前からワーゼナットに接触してくれ。俺が今動けば、両親あたりが何か手を打つ可能性がある。グルトにはワーゼナットの息子、マルセルに接触してもらい早急に後継としての教育をしてもらい、さっさと爵位を継がせるつもりだからお前も手伝ってやれ」
「ちょ……今、話飛んだな? 飛んだよな? つまりなんだ、ワーゼナット侯爵にフローラ嬢を嫁がせたあと、隠居させて息子に跡を継がせる、と?」
「そうだ」
おぅふ。
ここでニヤリと悪役っぽく笑ってくれればまだ心臓に優しいのに、こんな時もジリルはただ真顔で頷いた。
あんな変態に権力を持たせちゃダメ、フローラ嬢にも持たせちゃダメ、てことだね。
表向きはワーゼナット侯爵は妻に先立たれたばかりのオジサマだ。
そこで年の差をものともせず、フローラ嬢は落ち込む侯爵を慰め、次第に二人は愛し合う。だが、まだ喪も明けていない侯爵は大々的に少女に愛を捧げることができない。
少女は美しく、いつ誰の手に落ちるか気が気ではなかった侯爵はある人物に相談する。
そしてその者は仮初の婚約者を仕立てればいいと提案した。
その仮初の婚約者こそ、ジリル・レオンハット。
彼は侯爵の喪があけるまでフローラ嬢を守った。
喪が明けて少女を迎えに来る侯爵、こうやってやっとふたりは結婚することができた。
いつも仕事が忙しくて妻のそばにいることが出来なかった侯爵は、今度こそ妻にさみしい思いをさせないために跡を年若い息子に任せ隠居し、妻と領地で静かに暮らしました。
めでたしめでたし。
社交界で語られる表向きにはこんなストーリーだろうかねぇ……
実態を知っているだけになんとも。うん。俺は知らない。
ワーゼナット侯爵が、とんでもない変態だなんて俺は知らない。
少年愛好家であったり、自分がムチ打ちされたり縛られたり男らに犯されるのを見られて悦ぶとんでもない変態だなんて俺は知らない。
まぁ、ダンバール家を敵にまわすのは流石にまずいとフローラ嬢に何かをするのは自粛するだろう。
権力を失えば娼婦とか買うお金もないし、それなりの年で落ち着きも出てくるだろうしな。
ダンバール侯爵は娘を溺愛しているから、フローラ嬢に人を見る目が合ってどうしても結婚するのが嫌だと訴えれば避けられる道だと思うし。
このままワーゼナット侯爵を野放しにするのも怖いし、いい加減権力も削いでおきたいから隠居させることは賛成だけどな。
ジリルと結婚して一度も見てもらえない虚しい人生よりも、もしかしたらとんでもない変態で結構な年上で権力も微々たるものになるかもしれないけれど、それでも愛してはくれるかも知れないワーゼナット侯爵との結婚の方がフローラ嬢にとっては幸せかもしれない。
表向きは紳士だし。フローラ嬢も見栄っ張りそうな感じだから、少なくとも表向きは仲の良い夫婦になるかもしれないし。
どうでもいいけど、ジリルのあの無駄な変人の詳しさはどこから来ているのか不安でたまらない。
いや、情報源はいろいろ持ってるのを知っているんだけれども!!
でも友人としては心配だ。
ジリルは変態に好かれやすい。
あの美しく無表情で冷徹な様が最高にイイのだと恍惚として語っていた、ジリルの手駒であるマゾな下っ端諜報員にドン引いた俺はマトモな感覚の持ち主だ。
それをうまく利用するジリルにも引いたわー、そういえば士官学校時代、友人は俺らしかいないけど子分はそれなりにいたわー……
「マーシャル、頼りにしてる」
「……うぃっす。まあ、任せろ」
とんでもねー無茶振りだけれども。
大事な友達のためなら俺は鬼にもなりましょうとも。
そうと決まれば、さてはて。
ワーゼナット侯爵にどう話をしようかね。親父から知恵でも借りましょうかねぇ。
ジリルは面白いこと好きな親父のお気に入りだからな、フェリア嬢とのことも基本全面協力体制だし、今回も協力してくれるだろ。
なんせ、うまくいけばワーゼナット侯爵を大人しくできるわけだし、息子のマルセルと懇意にできるわけだし。
一肌ぬぎますかぁー