老執事のため息
少しずつ、周りも変わっていけばいい
私は生まれてから今まで、この60年近いの年月をレオンハット伯爵家の使用人として過ごしてきた。
父も母も使用人で、その祖父母も使用人だった。
今の奥様が赤ん坊の頃には、一人前の執事としてこの家に仕えていた。
その頃は当時のご当主様御夫婦は仲睦まじく、お嬢様に弟か妹が生まれる可能性もあったが、結局お生まれになったのはお嬢様ただお一人だけであった。お嬢様が3歳になる頃には徐々にご夫婦仲も微妙なものとなり、以降はあまり仲の良いご夫婦とは言えなくなってしまった。
旦那様は外に女性を作ってしまわれ、滅多に本邸にはお戻りにならず、お嬢様はお母上の厳しい教育とお父上の愚痴を聞かされてお育ちになってしまった。
それ故か、お嬢様は男性に偏見を持ってしまわれ、少女の頃から美しいお方でありながら恋をすることもなくいつも男性を避けられるようなお方だった。私は生まれついた時からの使用人としての立場から、そのことに多少の歯がゆさがあろうとも何も力になることはできず見守るしかなかった。
そんなお嬢様のご結婚相手となったのが、今のご当主様であらせられるゼノン様だ。
当時、ファルコルト公爵家の次男として身分も高く、その美しい容貌は男でさえ見惚れるほどであり、社交界では引く手数多のゼノン様だった。そのゼノン様が何故お嬢様とご結婚されたのか、詳細は一使用人である私には知らされることはなかったが、そのゼノン様にさえお嬢様は冷たい。
一緒に夫婦として過ごしていけば変わるのではないかという使用人一同の期待も見事に蹴散らされ、お嬢様とゼノン様の関係はどこまでもドライだ。だが、お嬢様のご両親のように、外に恋人を作るようなことはお互いなく、夫婦としては冷めてはいたが同じレオンハット家の支える者としては悪くない関係でいらっしゃった。
そして、お二人の間に後継となられるジリル様がお生まれになられたことで、私たち使用人は満足してしまったのだ。
異変には早々に気づいた。
母親であるお嬢様……今の奥方様が、ご自分の息子であるジリル様にあまり関心を持たなかった。様子は見にいらっしゃるが、泣いてもあやすわけでもなく、抱き上げたりするわけでもない。健康かどうか、ちゃんと育っているか、それらは気になされるがそれだけであった。
旦那様であるゼノン様も、どこか一歩引いた場所でジリル様と接されているように見える。
旦那様も奥方様も大変お美しい容貌で、その二人の子供であるジリル様も当然のように美しい顔立ちの子供であった。
女性の使用人は当初、大変ジリル様を可愛がられたが、ジリル様の反応は芳しくはなかった。
それは生まれつきのものなのか、ご両親に距離を置かれ育ったゆえのことはか定かではない。あまり笑うこともなく、徐々に使用人に気味悪がられていった。
正直に申し上げるのならば、私も同様にジリル様が怖かった。
赤ん坊の頃からおとなしい子であったが、成長するにつれて子供らしからぬ冷めた目をするのが怖かったのを覚えている。
だから正直申し上げるのならば、ジリル様が12歳の頃に士官学校へ行くのに屋敷をでられた時はほっとした。
奥様が御領地へお戻りに、旦那様は一日のほとんどを王城にて過ごされる。
ジリル様がお戻りになる5年間が私の使用人人生で一番安らいだ日々だったかもしれないとすら思う。
お戻りになられたジリル様はやはり変わることなく恐ろしい存在であり、屋敷内はひっそりと息を殺して働くものばかりの有様。
そんな折に、ジリル様のご婚約者が変わるという事件が起きた。
旦那様と奥様同様、ジリル様もご自分のご結婚にはさほどご興味なくご婚約者のフェリア様とお付き合いをされていらっしゃった。しかし、ここにきてフェリア様ではなく、ダンバール侯爵のご息女のフローラ様とご結婚されるという話になった。
フローラ様もお美しい人だと聞いている。
使用人一同、美しい人は見慣れてはいたが、フローラ様にはそれなりに興味津々であった。噂によると、ジリル様をお慕いしているとか。
それが本当であれば、ジリル様も多少なりともお変りになるやもしれない、レオンハット家も変わるかもしれないという期待が膨らんだのは嘘ではない。
私も期待していた。
だが、当家を来訪してくださったフローラ様にジリル様は冷たかった。
傍にいることはなかったが、表面上だけの歓迎の挨拶のあとは相手にすることもなく、無関心であられた。あれは別に照れているわけでも、どうすればいいか分からずに戸惑っているというわけでもないことは長年お仕えしてきたせいなのか気づいてしまったのだ。
正直なところ、落胆した。
やはりジリル様には感情がないのではないかと使用人たちは口にし、ますます遠ざかったように思う。
私も何を考えているのか掴めない若君が恐ろしく、滅多に近寄ることもしないでいた。
レオンハット家は呪われているのではないかと真剣に思う人間までおり、それを、そんなわけがあるものかと一笑に付すことさえ出来ない。
重く長いため息が漏れてしまうのは致し方ないと自身に言い訳までした。
滑稽な話ではあるが、私たちはジリル様が恐ろしく遠巻きに見るだけで、ジリル様を理解しようとはしていなかった。
フローラ様とご婚約後しばらく、何かと忙しくされていらっしゃった理由も知らずにいた。
あれよこれよという間に、フローラ様との婚約は白紙に戻り、再び婚約者はフェリア様に戻った。
どうなっているのか分かっていない私たちは大いに困惑したものだが、黙っているしかない。久方ぶりにフェリア様とお会いになり、ランダーン公爵家の夜会に趣むくジリル様をお見送りするまでは誰もがジリル様のことをわかっていなかった。
夜会からお帰りになられたジリル様は、フェリア様を伴っていらっしゃった。
今回の婚約騒動で奥方様もこちらにいらっしゃるからであるのだろう。
とはいえ、事前のご報告もないのは使用人としては非常に困るわけだが、日頃は手のかからぬ若君故にたまにはこういうのも悪くないと思ってしまう。
当屋敷を訪れるのは久方ぶりとなるフェリア様。
レオンハット家の皆様と違い、平凡とも言えるご容姿ではあられるが、穏やかな気性で人格には優れていらっしゃる。我々使用人一同にとって歓迎すべき方だ。
実を言えば、婚約が一度解消された折には、不謹慎ながら喜ぶものが多かった。
それはフェリア様のようなお方が、ジリル様のような無関心なお方に嫁がれて悲しい思いをするのではないかという心配からだ。幼少の頃から出入りしていらしたフェリア様を我が子のように思う使用人は少なくはない。
旦那様と奥方様とお話をされたあと、ジリル様に私を含む使用人を数人呼ばれたので部屋へと向かう。
呼ばれたのは指導の立場を取る者ばかりだ。
部屋に入ると、ジリル様がフェリア様と正式に結婚することになったとおっしゃられた。
まぁ、婚約しているのでおかしな話ではない。
ご結婚がお済みになられてからでも使用人の紹介は遅くはないのになぜ今なのか、と内心で首をかしげていると、近く結婚することになるであろうフェリア様の不便がないようフェリア様のご実家の侍女と部屋の準備をしておくようにとのお言葉であった。
恭しく頷く私ではあったが、なぜそんなことを、というのが本音だ。
今回、婚約を破棄し、再び婚約を取り付けるのに下手に出る必要でもあるのかとすら思った。
しかし、次の瞬間に私は目を見張ることになった。
ジリル様が、嬉しそうに目を細め、口角を上げて甘い声でフェリア様に言ったのだ。
「フェリアと結婚できる日が待ち遠しい」
言われたフェリア様は顔を真っ赤になされて、それでも大変幸せそうに笑って頷かれた。
そっと繋がれた手が、なんだか暖かいと思った。
衝撃だった。
そのあとのことはあまりよく覚えていない。
旦那様と奥方様とも話し、ジリル様とフェリア様の結婚の段取りをつけていった点に関して失敗はないので仕事のミスはなかったのだろう。
その日から、私の中でジリル様への恐れは小さくなっていった。
もしかしたら、ジリル様はフェリア様のことを好ましく思っていらっしゃるのかと。
注意深くジリル様を見るようになって、そんな思いはあっという間に消えていった。
なぜ、ジリル様が結婚に、フェリア様にご興味がないと思うことができていたのだろうかと思うくらいに、ジリル様は分かりやすくフェリア様を愛していらっしゃった。
なぜ、感情がないのではないかと思えたのだろう。ジリル様はとても分かりやすかった。
それは実家だからなのか、私が執事という職業のおかげなのかは分からないが、ジリル様は決して感情を隠すようなことはなさっていらっしゃらなかった。
確かに表情に変化は乏しい。
だが、言葉遣いであったりちょっとした態度であったりと非常にわかりやすい場所に感情の機微が現れる。
そして、フェリア様と一緒の時には、変化の乏しい表情さえよく変わる。
私は一体、何を見ていたのだろう。
今まで見ていたものは、もしかしたら間違っていたのではないだろうか。
奥方様は、旦那様は、本当に自分の思っていた方なのだろうか。
冷たい人だと思っていた。
本当にそうだろうか。規則などには厳しいが、理不尽なことを言われたことはない。優しい言葉をかけられることはあまりないが、厳しい言葉も言われたことはない。仕事はきっちり評価してくださるし、家族への補償なども他家に比べて待遇はいい。
生まれた時から奥方様を見てきた。
なんでも知っている気でいた。しかし、本当にそうだろうか。ジリル様とて、生まれていらっしゃっ時から見てきたはずだった。
ふっとか細いため息がこぼれる。
老い先も短いだろうが、悔いを残さぬよう。もう一度、ちゃんとお仕えする方々と接していこうと思う。
ジリル母とジリル父はわりと似た者同士かもしれない。
どうでもいいけど、ジリル父の名前が初登場(笑)
実は母の方もちゃんと名前を考えてるんだよ。いつか出るといいね←