子息の我慢
今しがた入ってきたばかりのフローラとワーゼナットの目がこちらを向く。
フェリアに口づけを落としたのをワーゼナットは興味なさそうに、フローラはぎょっとしたようにして見ていた。
僅かに目を細めた俺にはきっと気づかないだろう。
「ねぇ、ちょっとあれ……」
「ダンバール候の? どうしてワーゼナット候と一緒に?」
「え、あれ? さっきジリル様って違う女性と一緒じゃなかった?」
ざわざわとそんな声が漏れ聴こえてくる。
今、ここで話しかけるのはいただけない。まずは、主催者への挨拶が基本だからな。
そのまま見送る俺たちに、周りの視線は集中する。
それでも声を掛けるのは躊躇うようで、話しかけてくる猛者はいないが。
もっとも、それを見越してマーシャルやヒャルト様が話を広めてくれることになる。
俺たちは適当に会場をうろつき、適当に帰ればそれでいい。
ワーゼナット候たちが話しかけてくるかどうかは流石にわからないしな。
「それにしても二人にとっては災難だったね」
「え……と」
少し声を上げての発言はヒャルト様だ。
これはわざとであるが、状況を把握しきれていないフェリアは戸惑いに瞳を揺らす。それを安心させるように背中を二回叩いてから、ヒャルト様に応えた。
「無事、事が成ったのであればどうということもありません」
我ながら心にもないセリフだと思う。
それはヒャルト様も感じたのか、一瞬苦笑を漏らした。
「それにしても、これは醜聞に近いものだよ。いくらフローラ嬢を安全に確保しておくためとは言え、婚約者のいる君にお目付け役を頼むだなんて」
「婚約者のいる身なればこそ、安全と捉えたのでしょうしね」
そんな風にして近場にいるものにフローラとの婚約と現状の詳細を零して聞かせていく。
噂などその場限りに近く、数年も経てば風化する。
こそこそと俺たちの話に聞き耳を立てては誰かに話していく物好きを眺めつつ、ほどほどのところで帰ることにした。
俺たちの耳に入ることはなかったが、あっちはあっちで正式に婚約したことなどを話して回っているだろう。
時折、フローラからのちらちらとした視線を感じはしたが無視をした。
ワーゼナットとの婚姻の申し込みは快諾に近く、本人も納得してのことだと聞いている。現状、それに大きな不満を抱いているようには見えない。
彼女も前妻のように不幸になるのか、それともワーゼナットが改心して彼女を幸せにするかまでは分からないが、こうやってフェリアとの関係が戻った今は別段不幸になればいいとまでは思わない。必要であれば多少の助けをしてやってもいいと思うくらいには、今は余裕が有る。
それでも、俺の怒りは全て収まったわけではない。
わざわざと手を貸すつもりも、気を使ってやるつもりもないのだ。
案外、あの女ならワーゼナットを上手く利用して幸せになりそうな気もするがな。
馬車に乗り込むと、ほぅっと深く息を吐き出すフェリアに今日の疲れを感じる。
相変わらずああいう場は苦手なのだろう。
疲れたかどうかを聞くのは愚問だった。
「フェリア、疲れているところ悪いけどこのままうちに帰るつもりでいるから」
「うち、と言うと……レオンハット家のお屋敷ですか?」
「そう」
頷くと、ひどく顔を引きつらせたフェリアが「ど、どどどど」などと謎の音を口から出した。かなりの動揺ぶりである。
気が抜けたところに悪いことをしたかもしれない。
「久しぶりに両親が揃ってるし、今回の騒動の謝罪もあるし。疲れてるのはわかるけど、日を改めるよりもちょっと話すだけの方がフェリアにとっては負担が少ないだろう」
「あ、で、でも……うぅ、それは、そうです、けれど…………」
「…………」
じわり、と涙目になってきたフェリアに伸ばしかけた手をなんとか力を入れて抑える。
ここで下手なことをして苦労がふいになっては困る。
大人しく外堀を埋めていく作業に集中しようと、動揺するフェリアから一度目線をずらした。
「先日、両親と話をしてから二人共態度が軟化している。怖がらなくていい」
「そ、そうなのですか?」
「あぁ。それに、フェリアとはもう少し一緒にいたい。ダメか?」
目線を戻し、フェリアを正面から見つめる。
また動揺するかと思ったが、予想に反して今度はふわり、と頬を緩めて笑った。
「私も、まだもう少し、ジリル様と一緒にいたいです」
ここが馬車の中で、まだ婚約の段階で、今すぐに腕の中に閉じ込めて独り占めしたいのにそれが出来ないこの現状が恨めしい。
ほわほわと微笑む彼女が憎らしいほどに愛しかった。
こんなにも家路が遠いと感じたのは初めてかも知れない。
どうやって気を紛らわせようか。
「ジリル様。子供の頃からずっと、ジリル様だけをお慕いしております。こうしてまた一緒にいられることが、本当に嬉しいです」
「……っ……フェリア」
このタイミングでそんなことを言われて。
平静を保てるはずもなく。
噛み付くような、きっと荒々しくて優しくもないだろう口づけを彼女に送る。
抵抗もなく、むしろ縋り付くような反応にすぐに理性は戻らず、気づいたときには彼女はくたりと力を完全に抜いて寄りかかってきていた。
荒い息遣いと馬車のカラカラという音に、必死に理性を手繰り寄せて際どい場所に置かれていた自身の手のひらをさりげなくどかす。
力が全然入らなさそうなフェリアを緩く抱きしめ、今は全く関係のない自領地の収税報告書を思い出すことにした。
当然、思い出したところで何も考えられなかったが。