新天地
六月の終わりになって、香苗は新しい町へ引っ越すことを決意した。これまで彼女は市内のアパートに一人暮らしをしていたが、住人との折り合いが悪く、いつも居心地の悪い思いをしていた。結局、月の初めに仕事を辞めさせられたのが後押しとなったのだ。仕事を辞める原因となったのは、上司との確執だった。目隠しをされた猪のように衝突ばかりの毎日だった。
嫌気がさした。自分の周りが薄黒い膜で覆われているようで、その中に篭もっているだけで鬱々とした気分になるのだった。
だから香苗は抜け出した。日々繁忙な世界から逃れ、落ち着いた場所へ腰を下ろそうと決意した。
とりあえず必要なものだけを詰め込んだ大きなボストンバッグを片手に辿り着いたのは、海沿いの辺境な町だった。貯金は充分にある。ゆっくりとマイペースで生活を整えればいい。そう気楽に考えていたのだが、出だしから躓いてしまった。
不動産屋が見つからないのだ。電車を降りた時間がすでに遅かったのだが、道を尋ねる通り人すら目につかないのだ。このまま路頭に迷うわけにもいかない。ホテルでも探そうと国道をさまよった挙げ句、小一時間ほど行くと小さな海岸が眼前に広がっていた。
黄昏時の海岸は何となく淋しげだった。
香苗は打ち寄せる波に誘われるように、海岸沿いを歩いた。お気に入りの靴に砂が入っていくのにもお構いなく、夢遊病者のように歩みを進めていると、ふと前方から同じように誰かが近づいてくる。
背の高い女だった。淡い綿のシャツに洗いざらしのカットジーンズを膝までまくりあげている。素足で、片手にビーチサンダルをぶら下げていた。
「あら。お宅、新しいひと?」くわえ煙草のまま女は言った。「まあ……その、新しいってのは、新しく外から来たって意味なんだけど」
「そう、ですけど……」香苗は眉を顰めた。出会い頭に訊かれる質問としては妙だと思ったからだ。
しかし女は構わず話し続けた。
「ほら、ここってド田舎でしょ? こういうカラッポな場所を求めて都会から逃げてくる若者が多いわけ。古き良き時代のアメリカみたいにね。たいていは、そんな風に大きなカバン持ってゾンビみたいにふらついてるから、こっちもすぐピンとくるのよ。ま、そういうわたしも移住組のひとりなんだけどね」
「そうなんですか」
「三年ほど前の話。何人か同類を見てきたけど、砂浜を歩いてるのは初めてだわ。お宅、新種だねえ」
香苗は急に恥ずかしくなって俯いた。
「良いところだよ。住みやすいし、それほど汚れていない。町も人間も」
そう言って女は水平線に目を遣った。波の音が繰り返し流れる。
「……何をされてるんですか」香苗は押しつぶされた声をひねり出す。
「散歩」女は飄々と答えた。「お宅は? 散歩? それとも迷子?」
「両方、ですね」
「ふうん。それも楽しそう」
「あのっ、とても困ってます」香苗は顔をあげる。この人物には率直な物言いが有効だと判断した。「足が痛くて、歩きにくて、靴の中は砂だらけで気持ち悪くて、周りも暗くなって途方に暮れています。とても困ってるんです」
「わかったわかった」女は参ったという風に肩を竦めた。「大きな偏見だったね。見た目だけじゃ意外に何にもわかんないもんだ。あたしでよければ案内でも何でもしよう。ついていらっしゃい」
泊まる場所を探しているのだと細長い背中に告げると、「この辺にゃロクなとこがないよ。ひとつだけお薦めがあるけど、どうする? そのつまり、あたしのとこに来るかって意味なんだけど」
「え? 良いんですか?」
「あたしは構わないよ。どうせヒトリモノだし。たまには新種の話し相手が欲しいしね」
それで話は決まったらしい。女は素足のまま、往く先をずんずんと歩き出した。
しかし海岸線へ至る段丘へさしかかったところで、不意に彼女は振り返った。遠目で暮色蒼然とした海の中に何かを探しているようだった。香苗がその彫りの深い顔立ちを仔細に眺めていると、女はつと呟いた。
「今頃の夜の海でさ、たまに小さな光が見えることがあるの。波でもないし、生き物でもない、空にある二等星みたいな弱い光がぷかんと浮いてるように見えるんだ。ありゃあ一体何なんだろうね」
香苗も倣って振り返ってみたが、薄闇に覆われた絶海の景色が映るばかりである。波にもまれて生成される小さな泡の集合が、生きていた者の名残のようで気味が悪い。吹きつけてくる潮風は肌に冷たかった。