猿と僕
『猿に決してエサを与えないでください』と看板には書いてあった。“決して”という部分が極太の字で強調されている。よほどのことなのだろう、と僕は思った。
当の猿山にはサルが一匹しかいない。
広い猿山にはサルが一匹しかいない。
よほどのことなのだろう、と僕は思った。
しかも、動物園のメインはその猿らしかった。
よほどのことなのだろう、と僕は何度も思ったんだ。
「――なあ、なんかくれよ」
そのサルは柵に寄りかかりながら僕にそう言ってきたんだ。丁寧に毛繕いしながら言ってきたんだ。それは推測だけれど、照れ隠しのような気がした。
「なんか腹減ってさ。バナナかなんか持ってない? バナナシェーキでもリンゴジュースでもなんでもいいからさ」
そういったものは持っていない、と僕は首を振った。
「マジで? あー、アレじゃない? そこの看板にエサやるなって書いてあるからテキトーにウソついてんじゃないの? あのさ、そんなの守ってるヤツなんかいないよ。オタクだって車の制限速度とか破ったことあるでしょ? シートベルトとかしないまま運転したことあるでしょ? まあ、そんなもんなんだよ」
本当になにも持ってないんだ、と僕は辛抱強く言った。
「あそう……。まー良いけどね。オタクにゃ悪いけどさ、腹減ってる猿はなにもしないよ。サービス精神とか皆無だから。ワザと背中向けて寝ころんだりして、 冷たい態度を取ったりするよ。まー、食いモンでもくれれば、バク転くらいするけどね。別に媚びてるわけじゃないんだよ。なんつーか、世の中ギブアンドテイクでしょ。ロハで芸するほど余裕ないんだわ、こちとら」
別になにもしなくても良い、と僕は答えた。
サルは目に見えて落ち込んだ。がっくりと肩を落としたんだ。
「あそう……。オタク、意外と冷たいんだね。目の前でサルが困ってるのに見て見ぬフリするんだ。日本人ってさ、そういうところがダメだと思うよ。どっかよ そよそしいっていうかさ、お前ら何様? って感じなワケ。サルからしたらさ。それに比べて、サルは仁義とか熱いよ、ホント。オタクは知らないと思うけどさ、階級差とか激しいんだよ。ボスザルとかいるしさ。だから当然、下克上とかもあるワケ。日頃のほほんと生きてるオタクらとはちがうの。わかる?」
なんとなく、と僕は曖昧に頷いた。
サルは露骨に顔をしかめた。そう見えたんだ。
「あそう……。ま、ココにはそういうサル社会とかないけどね。どうしてかわかる? あのね、ぶっちゃけた話、この動物園、金ないんだわ。ちょっと前まではさ、他にもサルいたワケ。ちゃんとサル社会も機能してたのね。でも、ほら、サルが多いとそれだけエサ代とかかかるじゃない? すぐ汚れるから掃除とかも多くしなきゃなんないし。維持費っていうの? そういうので負担かかるからさ、一つの手段としてさ、サルの数を減らしていったワケ。オタクらで言う、いわばリストラだよ。そうしてたらさ、一匹一匹減っていって、最終的にはこのオイラだけ残ったって寸法。なあ、これって切ないっしょ? 切ないっしょ? だから、なんかちょーだいよ」
食べ物は持っていないんだ、と僕は言った。
サルはキーッと歯を剥いた。
「あそう……。あんまり客にこんな話したくもないんだけど、もうそろそろサル、全滅しそうなんだわ。日に日にエサが減っていくのわかるんだ。腹の鳴る回数 が増えていくのがわかるんだ。オタクにゃわかんないでしょ? この状況。ひたひたとね、死が迫ってるんだわ。そう思ってみると、この猿山が墓場のように見 えてくるワケ。オイラの墓場。でもまあ、なんつーの? それも奴等の思惑通りな気がするのね。あ、奴等っていうのは、ココのお偉いさん連中のことね。あの ね、例えばここでオイラが死ぬとするじゃん。そうなったら、この動物園はこう宣伝する。『動物園のサルが死んでしまいました。みなさん、可哀相なサルを供 養してあげてください』。そうやって客を呼び込もうとしてるんだよ。もちろん死因は、餓死なんかじゃなくて、なんかややこしい病気が原因だって、変えられ てね……。ああ、悪い。なんかしらねーけど、涙が……」
そう言ってサルは目元を拭った。
僕はずっと観ていたけれど、サルの目に涙なんか浮かんでいなかったんだ。
「気にすんなよ。ただ腹が減っただけさ。空腹だと涙が出てくるんだ。そういう体質なんだ。だから、気にすんなよ。腹が減ってるから泣いてるだけなんだ……」
特に気にしていない、と僕は言った。
サルは泣いてなんかいないんだ。それは確かなんだ。
「あそう……。気にしないんだ。うん……。なんていうか、オイラ、もう寝るわ。眠れば腹減らないじゃん。腹減らなければ楽じゃん。だから寝るの。もう最近、ずっと寝っぱなしなんだけど、それでも寝るよ。だって、夢の中のサルは幸せなんだ。なんつーか、酒池肉林のハーレムなんだ。もう二度と起きられないかもしれないけど、それでもオイラは夢の中の幸せを選ぶよ。サルだからさ。難しいこととかよくわかんないし、正直、もうどうでも良いんだ。猿山が墓場になっても、ハデな宣伝文句になっても、どうでも良いんだ。サルだからさ。オタクらの社会とは交わらないワケ。わかる? オタクらの社会は、サル社会に関係ないでしょ? サルは投票しなくても税金払わなくても許されるでしょ? サルも人間もなにかを食べなきゃ生きていられないのに、サルに教育の義務はないでしょ? それは結局、社会が違うからなんだわ。サルも人間も眠らなきゃいけないのに、人間は毛繕いしないでしょ? それは結局、習慣が違うからなんだわ。わかる? わかるっしょ? オイラは腹が減ってるから眠るけど、それはサルの社会であり、習慣だから。オタクらの事情とは関係ないワケ。それでも、サルも人間も生きものだから、なにかを口にすれば空腹は満たされるし、眠れば睡眠不足は解消される。わかるっしょ? だからオイラ、寝るよ。芸も会話もなしだよ。眠ってるんだから。オタク暇になっちゃうけど、それでも良い?」
僕はゆっくりと頷いた。
正直、話を最後まで聞いてなかったんだ。
「あそう……」
サルは寂しそうに顔を伏せ、とぼとぼと猿山へ戻っていった。
僕はその小さな背中をずっと見つめていたんだ。
よく見ると、サルは赤いの首輪をしていた。どうして動物園のサルが首輪をする必要があるのか、僕にはぜんぜんわからなかった。
おかしいと思いながら、振り向くと、飼育員らしき男が遠くの方にいた。
彼は僕を見ながら、にやっと笑った。
その手には、なぜだかマイクが握られていたんだ。