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cigar smoke

 父が亡くなった。後に母から聞いたところ、死因は肺ガンが悪化したものだったらしい。娘のわたしを加えた父を知る者はみな、やはり――と心の中で思ったことだろう。ヘビィスモーカーというのが父を形容するのに最も適した言葉だというくらい、彼はよく煙草を吸う人だった。

 わたしにとって、煙草の香りは父を想起させる媒体に他ならない。色褪せた記憶に残っているのは、映像を主とした思い出よりも、むせ返るようなような煙草の芳香である。父はどんなときでもところ構わず煙をまき散らすので、周囲の人たちからは文字通り煙たがられていた。実家の壁は昔年のヤニでいつしか茶色く汚れ、綺麗好きな母をほとほと困らせたものだった。

 そのうち、さすがに躰に良くないと思った母やわたしは、父に何度か禁煙を迫ったことがある。本人の中でいくらか体裁の悪さを痛感していた部分があったのか、忠言を素直に受け取り、市販の禁煙パイプをくわえていた時機もあったが、それも長続きはしなかった。せめて一日に吸う本数を減らしたりと小さな決意をするのだが、時間が経つといつの間にか元通りになる始末で、そのときにはもう、わたしも母も父から煙草を引き離すことを諦めていた。

 慣れというのは怖ろしいもので、ほんの赤ん坊のときから煙たい環境に慣れ親しんでいたわたしは、他の人とちがって煙草の香りというのがそれほど嫌いではなかった。

 高校生のときに一度、家族には内緒で煙草を買ったことがあった。そのとき自動販売機の前で迷わずに選んだのは、もちろん父と同じ銘柄。当時つき合っていた彼からくすねた百円ライターで、半ば震えながら火を点けた覚えがある。しかし考えていたよりずっと味気なく、何か物足りないと感じた。フィルタを通して吸う煙は、それまでわたしが受け入れてきた香りとはまったく別物だったのだ。

 それ以来、わたしは現在に至るまでずっと煙草を吸っていない。

 かわりと言ってはなんだが、ヘビィスモーカな男の人を好きになるようになった。現在の夫とつき合うようになったのも、父と同じ銘柄を吸っていたのが大きな理由のひとつであった。

 そんな夫を横目で見ると、今すぐにでも煙草を吸いたくてうずうずしている様子だった。さすがの彼も墓前で堂々と喫煙する度胸はないらしい。

 真新しい御影石でできた墓の前で線香を添えながら、わたしは、こんなものじゃ物足りないだろうなと考えていた。そして、線香の代わりに煙草が並んでいる情景を想像し、人知れず笑みを浮かべる。

「気が利いてるじゃねえか」と喜ぶ父の姿まで思い浮かべることができた。

 四十九日にはカートンで供えてやろうかなどと思案していると、背中で娘が泣き出した。どうやら墓地の異様な雰囲気に恐々としてしまったようだ。あるいは、わたしと同じように、線香のクセのある匂いが苦手なのかもしれない。

「ああ、おじいちゃんがいなくなって淋しいのねェ……」

 母が娘をあやしながら呟いたが、娘が知っている父との思い出といえば病院のあの特殊な匂いくらいだろう。嗅覚による記憶は、思いの外、鮮明なものなのだ。きっと、大きくなっても忘れないだろう。

 わたしの場合がそうであったように……。


 最近、夫は娘の前でも平気で煙草を吸うようになった。

 果たしてそれが良いことなのか悪いことなのか、わたしは今もって判断をつけかねている。


  

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