雨雲の果て
やにわに激しさを増した雨粒が叩きつける中、一人の侍がつづら折りの小路を登って来る。
侍といっても月代を剃っておらず、質素な身なりからも浪々の身であることが窺える。半ば壊れた菅笠を掴んで翳し、足早に登りきった木立の狭間に小さな庵があった。
辺りは既に日が落ち、本来なら薄墨を流したような宵闇が包み込む時刻である。それもこれも、濃い雨雲が覆い隠していた。
「このような刻限に失礼する。急な雨に難儀してござる。納屋などあれば、お貸し頂けないか」
訪いに姿を現わしたのは一人の尼だった。既に御勤めを終えた後なのか、墨染めの衣は身につけておらず、地味な小袖を打ち掛けている。
「それはご難儀なことで。どうぞこちらへ」
尼は庵の中へと招き入れる素振りを見せた。
「いやいや、納屋で構わんのだ。これ、この通り、かなり濡れてしもうた故」
「そのような事。荒れ果てた庵ですので、お気になさらずとも」
そう語る尼に通されたのは、古びた仏様が安置されている板の間だった。
浪人は手荷物を置き、腰の大小を鞘ごと引き抜き横へ置くと、仏様の前に座して居住まいを正す。そうして手を合わせると一心に拝み始めた。
「使い古した物ばかりですけれど、お体を拭うのにお使い下さい」
「かたじけない。有り難く拝借いたす」
洗い晒しの手拭いを幾つか持って来てくれた尼に対し、浪人は畏まった様子で頭を下げた。
ややあって、尼が膳を手に仏間へ入ると、浪人は下帯ひとつの姿で窓際に立ち、濡れた袷を絞っている。雨脚は未だ衰えぬようであった。
「貧しい暮らし故、何もございませんが」
そう言って尼が差し出した膳には、皿に盛られた刻んだ漬物と箸、白湯の入った茶碗、そして干し柿がひとつ載せられていた。
「おお、これはかたじけない。何よりでござる」
浪人は相好を崩しつつ袷を置くと、下帯ひとつのまま膳の前にどっかと胡坐をかく。若い男の筋肉質の体躯に、尼は僅かに頬を染め、顔を背けた。
「失礼だが、あなたひとりでこの庵にお住まいか?」
漬物を口に放り込み、白湯を含んで嬉しそうに咀嚼すると、浪人は切り出した。相対する尼は剃髪して僧形ではあるものの、庵主と言うにはまだ年若く、三十路には届いていないように見えたからである。
「前の庵主は先日御仏の下へと旅立たれました。わたくしは行く当てもございません。ですので、こちらに居させて頂いております」
尼は俯き加減で語った。すき間風に蝋燭の焔が揺れ、彼女の表情の陰影を目まぐるしく変化させる。
「それは辛いことを思い出させてしまった。相済まぬ。しからば、そなたが此処の庵主ということだ。無用心ではござらぬか?」
「山間のうらぶれた小さな庵にございます。近隣の村の者くらいしか、寄る者もおりませぬ」
年若い庵主は口元に手を当て、苦笑いするように表情を崩す。その顔は俯いたままだった。
「なるほど。相分かった」
浪人はそれ以上言葉を発しない。
「では、ごゆるりと」
一礼すると、庵主は自室へと引き取った。
次に庵主が仏間を覗いたとき、浪人は下帯ひとつのまま俯せに横たわっていた。袷と袴は絞ったものを伸ばして広げてある。
疲れて眠っているのだろうか。やはり夜具を運んだほうが良いかも知れないと、膳を下げながら考えた。
庵主が掛け布団を運び、浪人の体に掛けてやったときだった。腕を掴まれ布団ごと床に引き倒されてしまった。
「何をなさいますっ」
引き攣った声を上げるが、浪人の筋肉質な腕は彼女の体を捕えて放さない。衣の裾が捲り上げられ、白い太股が露わにされる。
「ご無体なっ、なりませぬっ」
庵主は慌てて四つん這いに這って逃れようとした。衣はさらに捲り上げられ、真っ白な尻が露わになる。浪人の腕が太股をがっしと抱え込み、彼女の尻の合わいに顔が埋められた。
「いやっ、いやあっ」
庵主の叫び声は夜の闇の中へと吸い込まれて行く。
半刻後、庵主は仏間の床に、背中から抱き竦められるようにして横たわっていた。下唇を噛み、涙を流しながら体を震わせている。
選りにも選って御仏の前で、何故このような無体な仕打ちを受けねばならぬのか。彼女は男を知らぬわけではなかった。しかし仏門に帰依したその身は、もはや女ではない。
「なぜ……このような……」
庵主の震える声に答える代わりに、浪人の骨張った指が彼女の懐へと潜り込んで行く。
「なりませぬ……なりませぬっ」
蝋燭の焔が揺らめく中、夜の闇は思いの外深い。
翌朝、まだ明け切らぬ内に浪人は起き出し、髷を解くと馬の尻尾か何かのように、頭の後ろで結い直した。そして湿った袷だけを羽織る。
かろうじて衣を整えた庵主と向かい合うように、居住まいを正して座った。その膝先には彼の大小が置かれている。
「この刀をお預かり頂きたい。但し、これで自害なさろうなどと、お考え召さるな。それは御仏の思し召しではないと、それがし愚考いたす」
「わたくしに、生きよと申されますのか?」
「如何にも」
浪人の言葉は頑として揺るがぬ信念を現わしているようだ。
庵主は言葉も無く、ただ涙を流すことしか敵わなかった。
浪人は庵主から細帯を一本借り受け、それで袷を縛ると袴は身につけず、仏間の掃除を始めた。
彼が大小を手放し、髷を下ろし袴を穿かずに立ち働くのは、今の自分は武士ではなく、農家の若者のような存在だと伝えたいのであろうか? 男が仔細を語らぬ以上、庵主には彼の思うところや行動の意味は量りかねた。
ただひとつ、昨夜の強い雨が如く通り過ぎて行くものではないということ、それだけは彼女にも予想できた。
男は水を汲み、山で薪や自生する山菜などを集め、板壁の破れた部分の補修などを始めた。切れ味の悪くなった刃物などは研ぎ直し、無心に汗水垂らして立ち働く。
庵主が日ごろ苦労しながら少しずつ済ませていた作業を、彼は無言で次々と片付けて行くのだ。
そして夜になれば彼女の夜具に潜り込み、心と体に深い爪痕を遺して涙を流させるのであった。
どれほど熱の篭った愛撫であろうと、それに溺れることは許されぬ庵主にとって、男の求愛は仕置きに等しき行為であった。どれだけ言葉を尽くして止めようとも、しょせん女の細腕。彼の力に敵うべくもない。
肌を合わせれば我が身が女であることを思い知らされる。男の舌に耳を舐められ、吸われるだけで心は千々に乱れる。日に日に馴染んで行く己の体に、彼女は恐れ慄くのであった。
いっそ男から預かった刀で自害しようと思うこともある。しかし、かって一度はその命を絶とうとした庵主を、御仏の慈悲深き御心が救って下さったのであった。なれば再び過ちを犯すわけには行くまい。
昼日中のお天道様を思わせる頼りになる男ぶりと、夜の嵐を思わせる激しい求愛は、彼女を心身ともに急流に揉まれる木の葉が如く弄び続けた。
近隣の農家の者が葉物などを届けてくれたときには、男は庵の裏に隠れて姿を現わさない。庵主の評判に傷がつかぬよう気遣いをみせているのだろう。
自然にそれ程の気配りのできる人物が、何故彼女を困らせるのか不思議でさえあった。
そんな日々が繰り返された後、早くも破綻の足音が忍び寄った。予め考えていたより早く米が空になったのだ。決して充分な量の食事ではなかった。それでも一人が二人に増えれば、出て行く物の足は早まる。
五穀が費えれば人は生きて行けぬ。庵主はなんとか堪えられても、男の体は擦り減ってしまうだろう。彼女がため息を吐いていると、彼が声を掛けてきた。
「如何されました?」
庵主は黙って空の米櫃を指し示す。
「成る程。委細承知つかまつる。紙と硯を所望」
男は何やら文をしたため始めた。
男は仕舞ってあった袴を取り出すと、身なりをきちんと整える。薪を集める折に用いる背負子を空のまま背負うと、庵主に向かって笑顔を見せた。
「今から発てば、明日の夜には戻って参りましょう。ご案じ召されずともよい。暫しお待ち下され」
そう言い残すと力強い足取りで、つづら折りの小路を下りて行く。
庵主はその後ろ姿を、ただ不安げに見送ることしかできなかった。
男が発った日は、どこかいつもと具合が違った。御勤めには心が篭らず、夕餉は食が進まない。ため息ばかり吐いてしまう。
夜具にひとり包まり、その侘しさ、心細さに涙してしまう。彼の腕に抱かれずに眠ることが、これ程の苦行だとは思いも寄らなかったのだ。
己は既に色欲に溺れた破戒の徒であることを悟り、さめざめと涙を流した。男の身が案じられる。一刻も早く無事に戻ってほしい。この身を抱いてほしい。お天道様のような笑顔を見せてほしい。
『案ずるな』と優しく叱ってほしかった。
浅い眠りだった。大小を置いて行った彼が、夜盗の類いに袈裟掛けに斬られる夢をみて、叫び声を上げて跳ね起きてしまう。体中に厭な汗をかいていた。
翌日も何から何まで具合が違う。早く日が落ち夜になることばかり願い、男の無事を願い一心に御勤めを続けた。夜の帳が下りる頃には、庵の門口の辺りでうろうろとしてしまう。
そんな庵主の心を知ってか知らずか、なかなか戻る気配がない。涙が零れ、地べたに染みを作るのが口惜しい。
「ただ今戻りましたーっ」
空耳ではないかと思った。慌てて門口の外へ飛び出し、つづら折りの小路を覗き込む。夜のこととて中々はっきりとは姿が見えぬ。
やがて夜目にもはっきりと彼の姿が見えてきた。長持ちのような大きな箱を背負子ごと体に縛り付け、両手に縄で括った荷を提げている。なのに疲れの見えぬ足取りで、庵の門口まで意気揚々と登って来た。
「ただ今戻りました」
夜の帳の中でも笑顔の男の白い歯は良く見える。
「お帰りなさいませ」
庵主はただそれだけ言葉を吐き出すと、くるりと背を向け庵の中へと足早に走り込んだ。胸がいっぱいで、それ以上彼の前に居たなら泣き出してしまいそうだった。
仏間に入った二人の間に様々な荷が解かれている。米は勿論、粟、黍、大豆などの五穀の包み。保存の利く乾物が殆どだが、様々な食品、食材の類い。蝋燭や庵主の好む茶葉まである。それでいて、戒律を破る生き物の類いは慎重に除かれてあった。
彼女は床に正座し、涙の溜まった目で男のことを睨んでいる。それは悪戯をした子供を叱る母親のようにも、悪さをする弟を案ずる姉のようにも見えた。
「このような品々を、いったい何処から? まさか物盗りや追い剥ぎなど――」
庵主の詰問を手で制すると、彼は居住まいを正して口を開いた。
「蓄えは必要な物にござる。使わずに済めば、それに越したことは無し。いつの日か危難の降り懸かる折に使えばようござる」
男の表情は落ち着いている。
「ここぞという折に使わずして、何の為の蓄えぞ? 私はあなたにひもじい思いなど、させるつもりはござらん」
彼は澄ました顔で呆れ返ることを言い放つ。
彼女は両の目からぽろぽろと涙を零している。これが御仏の与えたもうた難行苦行だというのであれば、もう全てを投げ出し降参するより他に道はなかった。この男の前に体を投げ出し、全てを捧げることに何の間違いがあろうか?
庵主は我が身全てを彼のものとして貰いたかった。
まるで拝むように無言でお辞儀をし、そのまま倒れ伏した彼女の体を、男は優しく抱き起こすと、我が手の内に抱き寄せる。
「私は御仏の前で恥じることは何もござらん。そなたが愛しい。これは御仏の御導きであり、御仏の御心に違いないのだ」
庵主は彼の腕の中に抱かれ、これ以上ない幸せを噛み締めていた。
庵主の暮らし振りは大きく変わった。既に変わってはいたのだが、彼女は頑なにそれを拒んでいたのだ。恐れていたと言っても良いであろう。
今や身の回りを覆う竹矢来は無かった。男と手分けして雑事を片付け、御仏の御導きに感謝しつつ御勤めに励み、彼が体を壊さぬよう甲斐甲斐しく世話をする。二人は事実上の夫婦であった。
庵主は男に下穿きを縫った。そして古い衣を解いて仕立て直し、彼の野良着を縫った。男は見るからに農夫のような態で、猫の額のような畑を熱心に耕す。丹精込めて世話を続けた。
庵主は保存の利く菜を作ることをいっそう心掛け、五穀を混ぜた主菜にとりどりの副菜を合わせ、彼の体を労る。仲睦まじく、働き者の夫婦である。男は体格の良すぎる農夫で、女は剃髪した僧形であることのみ異質であった。
寝物語りの折、男の歳は庵主よりも二つばかり若いことが分かった。彼女は内心ほっと安堵していた。あまり歳が離れていると、意味もなく申し訳なく感じてしまうのだ。
夜具の中では甘えてしまう。破戒の徒であることを認めてしまえば、もはや恐れるものは何も無かった。最初は下唇を噛んで堪えているが、すぐに彼の首筋へと腕を廻してしがみつく。
我が身が剃髪した女であることは、女としては異形なのかも知れない。しかし彼はそのようなことは全く意に介さない。庵主の体が壊れそうになる程、隅々まで慈しんでくれる。その喜びは生まれて此の方、彼女には初めての経験だった。
庵主は幸せだった。俗世で暮らしていた頃の何倍もの幸せだ。惨めな想い、悔しい想い、悲しい想いを山ほど味わった。一度は自ら命を絶とうと考えた。それらの想いが解けて消え去る程、甘やかな日々なのだ。
甘く幸せな日々がいつまでも続くのなら、お伽話の有り難みは薄れてしまうのであろう。
庵主と男の暮らしにも、影が差す日は訪れる。月のものがはたと止まったのだ。これが何を意味するのか知らぬ彼女ではない。
来るべきときが来てしまった。色欲に溺れた仏罰だと言うのなら、申し開きのしようもないのである。
「やや児ができましてございます」
庵主は御仏の前で居住まいを正し、涙を湛えた目で真っすぐに男を見つめた。
幸せな日々が崩れ去るのは明らかなのだ。戒律を破る報いは受けねばならぬ。
「還俗なされよ。還俗し、我が妻と成りなされ。そして二人――お腹のやや児と三人、手を携えて生きる道を考えられよ」
男は全く動じず、静かに言い放つ。
「わたくしに武家の妻に成れと申されますか?」
彼女の頬を涙が伝う。
「そうではない。武家の妻ではない。私の妻として手を携えて生きてくれと申しておるのだ」
彼の言葉は回りくどくもあり、また真っすぐでもある。何より、庵主の欲していた一言であった。
彼女は男に縋り付き、その体にしっかとしがみついた。
「何処へなりとついて参ります……どうか……わたくしを二度と放さないで下さいまし……」
泣きながらしがみつく庵主の体を、彼もまたしっかと抱きしめる。
「どうして放すものか。御仏の御導きなのだ。私とそなたは裂くことの能わぬ、ひとつ株の生木なのだ。何としても添い遂げる」
男の口調は優しいが、力強い響きであった。
二人は庵主の髪が僅かに伸びてから、庵を引き払うことに決めた。詳しくは語らないが、男には先の当てがあるらしい。彼女は全て彼の言葉に従い、身の回りの片付けを続けた。
保存した物を減らす為に日々の食膳は豊かになる。食べるばかりでは体に障るので、二人は手を繋いで木立の合間を散策し、夜具の中では二匹の鯉のように汗に塗れた。
庵主には不安なことがある。彼女は決して卑しい身分の出ではなかった。読み書きに堪能なのも、幼い頃より手習いに励んだからであった。しかし様々な危難に見舞われ、運に見放された末の流転の日々である。
良人こそ居ないものの、きれいな体ではなかった。外道に手籠めにされ嬲り者にされたこともある。その頃の辛い思い出を、男との暮らしに重ねなかったと言えば嘘になる。彼は違うというだけなのだ。
そんな自身の過ぎ去りし日々のあれこれを、男に打ち明けておかなくても良いものだろうか? 知られたくないという想いもある。彼に手籠めにされた折の悲しみを蒸し返すのも厭だ。
思い詰めた表情の庵主を抱き寄せると、男は間近で見つめる彼女に告げた。
「今のそなたは私の体の一部なのだ。今のこと、そしてこれからのことのみ考えられよ。それ以外のことは、もはや絵巻のようなものと心得られよ」
庵主は無言で彼の胸に顔を埋め、いつまでも抱き着いていた。
最後に仏様を念入りに磨き上げ、近隣の農家の者が来た折に分かるよう、かな文字で置き手紙を遺す。
そうして、未だ夜の明けぬ内に、二人は手に手を取って山間の小さな庵を後にした。
地味な小袖を身に着け布で被り物をした庵主は、ひとりの女として、再び俗世にて生きて行く決心をしていた。しっかと手を握ってくれる男と、お腹のやや児が後押ししてくれる。
二人は手を繋ぎ、つづら折りの小路を下りて行く。そして山間の街道を進んで行った。
二人が旅の末に辿り着いたのは、東山道近江国のさる商家であった。奥の座敷へと通された後、店の主がひとりで姿を現わした。
「よっくぞ来て下さいました、若様」
主は男に向かって頭を下げる。歳の頃は男の父親くらいか。押し出しの強い、遣り手の商人らしい風采の人物だった。
「済まないが厄介になる。この女は祝言は挙げていないが私の妻だ。被り物を外せぬ非礼は詫びる。どうか私と共に世話を頼む」
男が頭を下げるのに合わせ、女も頭を下げた。
「構いません。仔細は伺いません。しかし文を戴いたときは驚いたの何のって。嬉しくて小躍りしてしまいました。よっくぞ決心なされた。今か今かとお待ち申しておりました」
主は見るからに嬉しげな様子で喋り続けた。
「迷いは消えたのだ。武士に未練は無い」
男はきっぱりと言い切ると、大小二本を纏めて布を巻き付け包んだ包みを、主の前に差し出す。
「どうか私を大小無しに生きて行ける男に叩き直して頂きたい」
そう言うと、男は主に向かって両手をついて頭を下げた。
「よっく分かりました。この高多屋傳右衛門、若様の御身を買い上げさせて頂きます。この上は若様を、一文でも高い値打ちのある珠に、磨かせて頂く所存にございます」
主は良く通る声で高々と宣言する。
「どうか大船、いや大丸子に乗ったつもりで、この私に万事お任せを」
自信満々にそう言った顔は、恵比須様のお顔のように満面の笑みを浮かべていた。
二人は商家の離れ家に当座の住まいを与えられた。男は髷を結い直し、身なりも商人らしいものへと改め、主の指導の下に商家の暮らしを学び始めた。
女も読み書きに堪能なことが判ると、帳簿の見方や書き入れ方を学び始めた。夫婦で手を携え、新たな暮らしを実りのあるものとする為の、努力は惜しまなかった。
やがて女の髪は伸び、お腹は大きくなった。二人にとって、もうひとつの実が結ぼうとしている。
男は元より体格は充分だが剣術の才は無い男だった。その代わり、手先は器用で読み書き算盤に秀で、物の良し悪しを見極める才を持っていた。主は大層喜び、男の指導にも熱が入る。
そして男が風体以外は商人らしい人物へと成った頃、女は玉のような子を産んだ。元気な男の赤子であった。
男が寝物語に切れ切れに語ったことには、彼もまた、運に見放された時を過ごしてきたらしい。元は立派な武家の惣領息子だった。主君に殉じた親と家を失なうまでは。
予てより父親と交誼のあった商家の主は、男の後見となって何処かの藩へ仕官させようと考えた。熱心に男を口説いたが、彼はついぞ首を縦に振らなかった。
男にはまいないも縁者の推挙も無い。当然、仕官は敵わず、徒に東へ西へと流浪する日々が続いた。そうして雨に追い立てられたのであった。
赤子に添い寝する女の背中から、抱き竦めるようにして男は囁いた。
「おまえの観音様が私を救ったのだ。おまえの観音様は、私の拗じくれた心を根気よく受け入れてくれた。しっかと受け止めてくれたのだ。おまえが私を救ったのだよ」
女は涙を流していた。男は彼女と共に暮らす道を選ぶ為に、刀を捨て、武士を捨て、名字を捨てたのだ。
そして女に救われたのだと言い切る。御仏に救われ、縋っていただけの女が男の役に立ったのなら、それはやはり御仏の御導きなのだと思う。二人の縁は御仏の御心なのだと胸が熱くなった。
「おまえに受けた恩は終生忘れぬ。二度と放さぬ」
男はそう囁くと、女の体を背中から抱きしめ、洗い髪から覗く耳に口づけをする。女はもうそれだけで、極楽浄土を覗き見たような心地だった。
男はその後も精進を怠らず、ついに商家の主より暖簾を与えられ、自らの店を構えることとなった。
主は自分の跡取りにと申し出たのだが、男はそれを辞退し、主の屋号を名字として分家として共に栄えることを願ったのである。
女はさらに女と男、二人の子を産み、子育ての合間に家業を熱心に手伝い続けた。同業者にも認められた、勤勉な働き者の夫婦であった。
この二人の薫陶を受けた三人の子供達が真っすぐ育たぬわけはない。長じて評判の若者に成る。
長男は店の跡取りとして申し分のない才を持ち、女子は請われて本家の嫁として嫁ぎ、次男も請われて他の商家へと婿入りの話が纏まったのである。
本家の主の勧めで、男に妾を持たせる話が持ち上がった。これに一番反発したのは当の男であった。女も長男も賛成し、息抜きとなるなら何でもすべしと急き立てる。
男は臍を曲げ、このときばかりは家内をすき間風が吹き抜けた。夫婦が意見を異にしたのは、この一度限りであった。口喧嘩すらしない、おしどり夫婦だったのである。
長男が平素の商いをそつなく熟すようになり、機を選び、夫婦は纏まった休みを得て旅に出掛けることにした。
向かう先は二人の縁を結び付けた地である。
いつぞやのような雨雲も無く、老いた脚ではのんびり登ろうと罰は当たるまい。二人は手を繋ぎ、つづら折りの小路を再び登る。
夫婦の前に現れたのは、山間の木立に紛れた、以前と変わらぬ小さな庵だった。積もる年月は庵の様子をさらに侘しいものとしていたが、人が手を入れ、暮らしている風情があった。
訪いに応じたのは、二人より年嵩の老人であった。招き入れられた夫婦にとって、以前と変わらぬ板敷きの仏間と仏様の御姿は、例えようもなく感じ入るものであった。
老人の話はこうである。以前おられた庵主の姿が見えなくなり、御仏の下へと旅立たれたのだと噂された。それを不憫に思う近隣の村の庄屋は、独り者の老人を選んで庵に住まわすことを決めた。
この老人は二代目なのだと言うが、綺麗に片付けられ掃き清められた庵に入った老人は、仏様のお世話に精を出したということだった。
二人は御仏の前に並んで座り、居住まいを正すと手を合わせ、一心に拝み始めた。
余人には知りようもないことだが、御仏の御導きで巡り合えた二人であり、御仏の御心により救いを得た二人であった。御仏の与えたもうた夫婦の縁に、感謝の念の尽きることはなかった。
二人は老人に礼を言い、村の名前や庄屋の名前を確かめた。店に戻り次第、手厚く礼をする心積もりであった。
そうして、二人は思い出の小さな庵を後にしたのである。
夫婦はしっかと手を繋ぎ、つづら折りの小路を下りて行く。心なしか、その足取りは軽い。