第8話:春川翔子
カーテンの隙間から漏れる陽光を感じ、俺はゆっくりと目を覚ました。目覚まし時計に目を向けると、時計は既に11時を回っていた。幾ら今日は土曜日で学校が休みとはいえ、流石にちょっと自堕落すぎる。
「ナ、ナカタくぅん……」
昨夜のお祈りは何の効果も無かったようで、下の布団から、翔子のくぐもった声が聞こえてくる。何がお兄ちゃん♪って起こしてやるだ。ほんのちょっとだけ期待していた自分に苛立ちつつ、翔子の布団を引っぺがす。
「翔子、寝すぎだ。いい加減起きろ!」
「起きてるよぉ……」
意外な事に、翔子は既に目をぱっちりと開けていた。でも、その顔は土気色で、昨日までのつやつやした血色の良さがまるで無い。
「どうした! すっげー顔色悪いぞ!?」
「良く分かんないんだけど、少し前に、お腹が痛くて目が覚めた。頭も痛いし吐き気もする……ナカタ君、さっきからずっと呼んでたのに、なかなか起きないし……」
翔子が弱弱しく俺に手を伸ばす。慌てて俺がその手を取ると、昨日あんなに温かかった小さな手は、氷のように冷え切っていた。体調不良と不安のせいで、どうやら布団から出られなかったらしい。
「わ、悪い! とにかく病院行かないと!」
「その、まずはトイレ行きたい……お腹痛いよぉ……」
「歩けるか?」
「な、なんとか……あ、痛たっ!」
翔子は俺の助けを借り、苦痛に顔を歪めながらも何とか身を起こす。翔子になるべく負担を掛けないように、殆どおんぶするように肩を貸して、1階のトイレへと連れて行く。死に体の翔子の背中を見送りつつ、俺はトイレ前の壁に背をもたせかけ、やきもきしながら待機する。
何が原因だったのだろう。腹痛という事は、昨日の食べ過ぎが原因だろうか。でも頭痛と吐き気もあるという事は、風邪とかかもしれない。食中毒という線もあるが、俺と翔子は、量は違えど同じ飯を食った。でも俺のほうはぴんぴんしているし、それは無さそうだ。
俺は何とも無くて、翔子にだけ影響が出るもの……女性特有の病気だったりしたら、完全にお手上げだ。俺がどうこう出来る問題じゃない。昨日結構使ったので金は余り無いのだが、とにかく病院に連れて行くしかない。
「うわああぁっ!?」
「うおおっ!?」
今後の対応を模索していると、ドアをぶち破る勢いで、翔子が悲鳴を上げて飛び出してきた。いきなりの突進に、俺は翔子と廊下の壁に挟まれる形になったが、体調を崩しているせいか、昨日喰らったロケット頭突きに比べ、殆ど衝撃は感じなかった。
「ナカタ君! きゅーきゅー車! きゅーきゅー車呼んでくれぇっ!」
「そ、そんなに苦しいのか!?」
「血尿が出た! 悪い病気にかかったんだぁ! もう駄目だぁー!」
「……血尿?」
翔子は俺の胸倉を掴み、涙ながらに縋りついて叫ぶ。翔子は小さな子供みたいに、きゅーきゅー車きゅーきゅー車喚いているが、翔子の台詞を聞いて、俺の頭の片隅にある僅かな女体の知識――エロセンサーが微かに反応した。
若い女体、体調不良、血尿、そこから導き出される答え――俺の頭脳が推理小説の名探偵の如くフル回転し、さまざまな要素がパズルのように組みあがっていく。
「翔子、救急車の前にちょっと調べたい事がある。2階に戻るぞ」
「ええっ!? ひどいよナカタ君! 鬼だよ! 早くしないと救急車じゃなくて、霊柩車になっちゃうよ!」
「いいから! 一旦部屋に戻るぞ!」
俺の仮定が正しければ、翔子は多分病気では無い。ぐずる翔子をなんとか宥め、再び2階へと舞い戻る。もう駄目だ、お終いだと呪いの言葉を呟く翔子を布団に放り込み、ノートPCの電源をオンにする。そのままインターネットのブラウザを起動させ、俺の人生に絶対縁が無いであろう単語を検索サイトに打ち込む。大量に出てきた候補から適当な物を選び、表示された内容にざっと目を通す。
「翔子、やっぱりだ。お前は病気じゃない。っていうか、むしろ健康体だ」
「何言ってんのナカタ君!? こんなにしんどいのに健康な訳ないじゃないか! お兄ちゃんって起こさなかった腹いせなの!?」
「ちげーよ! いいか翔子、落ち着いてよく聞けよ……」
――俺の説明した内容に、翔子は目を丸くした。
◆ ◇ ◆
「一応これでいい筈なんだが。どうだ、ちょっとは落ち着いたか?」
「ありがと……さっきより大分ましになった……」
人心地が付いたのか、翔子は引っ張り出してきた電気毛布に包まりながら、布団の上でホットココアのカップを、両手持ちでふーふー冷ましながら飲んでいる。顔色はまだあまり良くないが、精神的にも肉体的にも多少は回復したようだ。
翔子の症状は――ええと、その、なんだ、つまりというか何と言うか、年頃の女の子なら誰でもある『あの日』という奴だった。昨日まで年頃の男だった俺たちは、当然そんなもん想定外なわけで、多分、俺1人でこんな状況になったら、訳が分からず発狂しただろう。俺がもう1人居て、本当に良かったと言わざるを得ない。
細かいことは翔子と俺のプライバシーなので言いたくないが、恥ずかしいとか言ってられない状況だったので、件のホームページに書いてある対処法を2人で試行錯誤したお陰で、翔子の容態は大分安定した。人類の集合知であるインターネットの素晴らしさに、俺たちは改めて平伏した。
ちなみに、そのホームページに書いてあった内容を纏めると、大体こんな感じだ。
『女の子の体はとってもデリケート。この時期になったら、激しい運動はしてはいけません。ラフな格好で下半身を冷やしたり、体の冷える食べ物や、暴飲暴食も厳禁です! 体を温めて、ゆったりとリラックスできる環境を作るよう心がけましょうね』
これを前提に、改めて翔子の行動を振り返ってみよう。昨日の朝起きた時は全裸だった。訳の分からぬ不安に駆られながら午前中を過ごし、その後、ぶかぶかのジャージと素足にサンダルで学校に乱入。帰り道ですっ転んで、洋服屋で大泣きしながら全力ダッシュで俺と衝突。晩飯前にアイスを食い、ジャンボステーキを無理やり腹に押し込んだ。夜は半裸でプロレスごっこ。寝るときは上着にトランクスのみ。
マイナス方向にトリプル役満である。半分くらい俺のせいな気もするが。
「どうする翔子? 赤飯炊くか?」
「赤飯の炊き方なんか知らないくせに……じゃなくて! これ本当にきついんだぞ! 代わってよ」
「無茶言うな。俺は男のままだから分からんのだが、そんなきついもんなのか?」
「何ていうか、お腹に鉛の塊が入ってるみたい。お腹痛いし、頭痛いし、気持ち悪いし……中学時代のクラスの女子は毎日平然と学校来てたのに。あいつら何なの? 鉄で出来てるの?」
「表面上そう見えたか、心構えの問題じゃねえの? Xデーが来るのが分かってれば、多少は覚悟できたり、対策を練ったり出来るとか」
「昨日まで男だった私が、そんなもん出来るわけないだろっ! いい加減にしろ!」
「俺にキレられても困るっつーの!」
俺の数少ない取り柄として、体が丈夫というものがある。風邪なんか年に1度引けばいい方で、当然大怪我も大病もした事が無い。逆に言うと、痛みや病気に対する免疫が無いということでもある。俺と同じ生き方をしてきた翔子にも言えることで、得体の知れない体調不良は非常に堪えるだろう。
「確かこういうのって周期があった気がするんだけど、そこんとこどうなの?」
「ちょっと待て、今調べてみる」
再びキーボードを叩き、先ほどのサイト内を検索すると、すぐに情報が表示された。
「大体1ヶ月周期くらいで来るらしい。そんで何日間か続くとか書いてある」
「え……1ヶ月に1回こんな地獄巡りすんの? 嘘でしょ?」
翔子が人生終わったような顔で俺を見上げる。俺と翔子は同じだから気持ちは……すまん、流石に分からん。
「そんなぁ~! 辛いし恥ずかしいし、こんな思いをまたするの嫌だよおぉぉ!」
あ、やばい。また翔子の目尻に涙が。このままではまた泣かれてしまう。俺の頭の中で『Danger!! Danger!!』と赤いランプが点滅し、警告音が流れ出す。何か翔子を勇気付ける、いい情報は無いのか――お、あったぞ!
「喜べ翔子! 一定期間を過ぎると来なくなるらしいぞ!」
「え! ほんと!? いつ? いつ頃痛くなくなるの!?」
翔子の目に希望の光が宿り、ぱっと表情を輝かせる。
「…………50歳くらい」
「うわああああああああん!!」
一瞬にして希望を奪われた翔子は、電気毛布を全身に被り、丸まったダンゴムシみたいになって泣き出した。しかし、こいつ本当にすぐ泣くようになったな。中身は俺の筈なんだけど、何だかどんどん肉体に引っ張られて行ってる気がする。
こればかりはどうにもならないので、俺は椅子に座ったまま、もぞもぞと動く電気毛布の塊を、黙って見守ることにしか出来なかった。
暫くすると泣き疲れたのか、泣き腫らした顔をした翔子は、電気毛布を巻き付けたまま、部屋の隅の方に移動して、体育座りのポーズで膝に顔を埋めた。物凄い負のオーラが出ていて、ちょっと近づき辛い。
「私……これからどうなるんだろう」
翔子はぽつりとそんな呟きを漏らす。掛ける言葉が見つからず。俺は椅子に座り直して両手を組み、今後の事を考える。今まで先送りにしていて、何とかなるだろうと軽く考えていたが、冷静になって考えると、俺達、今かなりまずい状態なんじゃないか。
今回は生理現象ということで何とかなったが、仮に体調を崩したとしても、翔子は保険証が無い。診察を受けた場合、かなりの医療費を取られる筈だ。それ以前に、翔子には戸籍も国籍も無い。昨日の朝、突然沸いて出たんだから当然だ。
俺は俺のままだから、『中田翔一』として行動することが出来る。でも翔子は、『春川翔子』と自分で名乗っているだけで、自分がどこから来たのか、何者なのかも分からない。かろうじて俺と同じ記憶を持っているという事実が、翔子が俺の半身であると定義してくれている。そんな曖昧で、あやふやな存在なのだ。
俺が何にも考えずに日常を生活できるのは、これまでの俺の生きてきた記録が、今の俺に繋がっている『安心感』があるからだ。当たり前だけど、俺は生まれたときから中田翔一で、それはこれからも変わらない。生まれてから今に至るまで、両親をはじめ周りの人間や、社会制度のお陰で、生きるための下準備をされて来たわけだ。
嬉しい事から葬り去りたい黒歴史も含め、そうした過去の自分の土台があるから、『中田翔一』はそれを下敷きにして、当たり前のように生活し、さらに未来へと自分を紡いでいける。
けれど、春川翔子の軌跡はまるで無い。それはつまり、1からまた人生の基盤を作り直さねばならないと言うことだ。たった1人、慣れない体で。俺が協力したとしても、出来ることなんてたかが知れている。
もしかしたら俺の両親なら、翔子が俺と同じ存在という事を理解してくれるかもしれない。でも、それだって確実か分からない。仮に理解してくれたとして、じゃあ一緒に暮らしましょう、なんてトントン拍子に行くのだろうか。
翔子は犬や猫じゃない。人間1人が真っ当に生きていくのに、一体いくら金が掛かり、どれだけの物が必要なのだろう。解決法を考えれば考えるほど、それ以上の問題点がふつふつと沸いてくる。
「怖い……戻りたいよ……」
翔子は身を守るように、両膝をぎゅっと抱えてさらに縮こまる。昨日までの明るい翔子は見る影も無い。体調の変化も相まって、相当ナーバスになっているようだ。何とか励ましてやりたいが、俺だって先の見通しはまるで思いつかない。部屋まで暗くなった気がする。
――ピンポーン
重苦しい雰囲気の中、空気を読まない明るいインターホンの音が響いた。翔子は蹲ったまま一向に動こうとしないので、仕方なく俺が出る。階段を下り、玄関のドアを開けると、そこには1人の背の高い女性が立っていた。作業着みたいなツナギを着て、染めているのか、長い金髪をポニーテールで纏めている。歳は女子大生くらいに見える、美人だけど、何ともアンバランスで変な格好だ。
「どもども。メンテナンスに参りました~」
謎の女は、へらへらと笑いながら、緊張感の無い声でそんな事を言い出した。メンテナンスって何だよ。修理屋が来るなら、出張前に両親が俺に言っておくだろうし、そもそも別にどこも壊れちゃいないのだが。
「うち、別にどこも直すとこなんて無いんすけど」
「そんな事無いでしょ~? 1個くらいあるでしょ~。直すとこ」
妙に甲高く緩い声が、イライラしていた俺の心境を逆撫でする。
「無いってば。飛び込みセールスだったらお断りなんで、とっとと帰ってください」
我ながらつっけんどんな対応で申し訳ないが、2階に翔子を置き去りにしたままなのだ。こんな訳の分からん飛び込み営業に構ってる暇は無い。さっさとドアを閉めようとすると、目の前の女は、慌てたようにドアに手を掛けて割り込んできた。
「いやいやいや! そう慌てるもんじゃないよぉ。そんなにもう1人の自分が心配かい?」
「え……?」
こいつ今何て言った? 小林には翔子は従兄弟だと答えたし、翔子がもう1人の俺だという事は、誰も知らないはずなのに。
「うふふふ。だから、さっきから直しに来たって言ってるじゃない。ね、中田翔一君に、春川翔子ちゃん」
俺の驚いた表情に満足したのか、金髪ツナギ女はにやりと笑い、そう言った。