第7話:自分との戦い
お互いの布団で漫画を読んだり、うたた寝をしたり、各自ごろごろしていた翔子と俺だったが、晩飯を食うために、再び商店街へと繰り出す事にした。2階の部屋を出た瞬間、翔子の顔に緊張が走ったので、俺は先回りしてポケットに手を突っ込む。帰る時にやった、翔子専用の吊り革体勢だ。
「いいの……? ナカタ君?」
「転ばれる方が厄介だからな。もう暗いから、はしゃいだり、悪ふざけはするんじゃねーぞ」
「う、うん。ありがと……」
翔子は照れくさそうにはにかむと、そっと俺に体重を掛けて来た。薄めたいちごミルクみたいな、ふんわりとした翔子の髪の匂いが感じられて、何となくこそばゆい気持ちになる。外に出て、何となく空を見上げてみたら、夜の空気はひんやりと澄んでいて、優しげな光を放つ満月が、静かに浮かんでいるのが良く見えた。
夜道をゆっくりと歩きながら、晩飯をどこで食おうか翔子と相談する。ラーメンは食い飽きていたし、夕方のハンバーガー事件があったので、2人で密着した状態で牛丼屋に突っ込む度胸が無かった。そんなわけで、俺たちは近場のファミレスに行くという事にした。
思っていたより店内は空いていて、入店してすぐに、俺たちは窓際の席に着くことが出来た。明日は土曜日で学校が休みと言うこともあったので、夕食のピーク時を若干遅めにずらしたのが功を奏したらしい。
「んじゃ、俺はジャンボステーキにライス大盛り。ついでにスープセット。翔子はエビドリア単品でいいな」
出張中の両親が置いていった生活費がまだ少し余裕があったので、俺はここぞとばかりに高いものを頼む。翔子の下着で、所持金がいくら吹っ飛ぶかひやひやしていたのだが、先送りになったお陰だ。少しでも金を浮かせ、家計を助けようと言う殊勝な心がけは、俺も翔子も微塵も無い。
「あ! ずるい! 私もそれ食べようと思ってたのに!」
「ジュースすら碌に飲みきれないお前が、こんなもん頼んだら死ぬぞ? それにほら、お前好きだろ、エビドリア」
「ずるいずるい! 私だって大盛りステーキ食べたい!」
学校の帰りに小林とファミレスに飯を食いに来ると、俺は大体エビドリアを頼む。量は少なめなのだが俺の好物なのと、一番の理由は安いから。今の翔子の体格からすると、ドリア一つで十分な気がするのだが、さすがに中身は俺。数少ない大盛りの肉を食えるチャンスを逃さないよう、欲望に目をぎらぎらと滾らせる。
「本当に食べられるんだな? どうなっても知らんぞ?」
「食べられるっ!」
対面に座っている翔子が、ばん、と机の上に両手を叩きつけ、体を前に乗りだしてアピールする。関係ないが、サイズの合わない大き目のシャツを着ているので、前屈みになると、俺の角度からは、先端に絆創膏の貼られたおっぱいがモロに見える。これ、後で注意しとかないとまずいよな……
とにかく、ジャンボステーキを注文しないことには翔子の機嫌が収まりそうも無い。俺も逆の立場なら憤慨するだろう。仕方なく、同じ商品を2つ注文することにした。ご機嫌な翔子は気付いていなかったが、アルバイトらしき女子高生店員が、本当に食べられるのか? という表情をしたのを、俺は見逃さなかった。
「ううう……も、もう食べられないよぉ……」
「だ、だから言っただろうが……うぇっぷ」
案の定、翔子は半分も食べきらないうちダウンしてしまい、テーブルの上に突っ伏した。そんなわけで、ただでさえバカでかいジャンボステーキを、俺がほぼ1.5人前食うことになった。高い金を払ってうまい物を食いにいった筈なのに、2人とも食いすぎでそれどころではない。
俺が今まで読んだ漫画や小説だと、分身すると大体強くなってた気がするんだが、俺と翔子はお互いが同じ利益を追求し、結果として潰しあっている。なんだこれ。
食い意地の張った――もとい、日本の素晴らしき精神である『MOTTAINAI』を信条とする俺としては、どうしても残すことができず、俺と翔子は半死半生になりながら、ジャンボステーキ2人前を協力して胃に押し込み、逆流しそうな腹を抑えながら、お互いを支えあうように帰宅した。
◆ ◇ ◆
「ナカタ君、汗臭くなっちゃったから、私が先にお風呂入ってもいいかい?」
家に着いた途端、翔子はそんな事を言い出した。俺は全然気にならないのだが、翔子はどうも自分の体臭が気になるらしい。
「俺はまだ腹がこなれてないから、別に構わんぞ」
「やった! あ、覗くなよ?」
「自分の裸なんか別に覗かねーよ! ていうか、随分落ち着いてるな」
「え? 何が?」
「だってさ、俺、生で女の裸なんか見たこと無いし、自分のとは言え、女の部分を見ることになるわけだろ? その……緊張しないのか?」
「あ、へーきへーき。だってそれは朝のうちに……あっ……」
翔子はしまったと口を押さえる。待て、何かとんでもない事を言いかけやがったぞ、こいつ。
「朝のうちに、な、何だ? 何をした!? 何をしたんだっ!?」
「な、なな何でもない! ほら、服を着替えたりとかしたじゃん。だからほら、どうしても、ねっ?」
「本当にそれだけか……? 吐けっ! 吐くんだっ! 貴様、一体何をした!? 言えーっ! 言うんだ翔子ーっっ!!」
「し、しつこい男は嫌われるぞ! とにかく私は風呂に入るっ! 終わったら声掛けるからっ!」
翔子は顔を真っ赤にして、逃げ出すように風呂場へと駆け込んだ。あいつ……俺の知らないところで一体何をしやがったんだ。ああ、すっげー気になる!
でもこれ以上突っ込むと、何だか後戻りできなさそうな感じがしたので、俺は未だに重い腹をさすりつつ、とりあえずリビングで休憩することにした。
うう……一体何をしたというんだ、翔子よ。
「ナカタ君、お風呂上がったよー」
俺がリビングのソファーの上で寝転がりながら、雑念を払うようにテレビを見ていると。いつもより少し長い時間を掛けて、翔子が戻ってきた。
「分かった。それじゃ次は俺が……何だよその格好!?」
「ふぇ?」
翔子は気の抜けた返事をする。風呂上りの翔子はほこほこと湯気をたて、真珠みたいな乳白色の肌を、ほんのりとピンク色に染めていた。だが、問題はそこじゃない。
「胸! 胸隠せよ!」
「……あっ!」
俺に言われて、翔子はようやく自分の状況に気が付いたらしい。翔子はバスタオルを体に巻きつけていたが、腰元にぐるっと巻く、いわゆる男の巻き方をしていた。
そんなことをすれば、当然胸元が丸見えになるわけで、絆創膏は風呂で外したのか、桜色の2つのぽっちりが、神々しく輝いていた。
翔子は慌てて両手で胸元を隠したが、既に俺の2つのカメラは、幻の希少動物の映像を捉えたカメラマンのように、その愛らしい姿を、鮮烈に脳裏に刻み込んでいた。
「いくらお前の胸が免震構造だって、そんなにほいほい晒していいもんじゃないだろ。気をつけろよ」
中身が俺だとは言え、翔子の体は立派に女だし、貧相なボディとは言え、翔子の顔はかなりのハイレベルでもある。俺の居ないところでこんな調子で行動されちゃ、いらんトラブルに巻き込まれる可能性が高い。
ところが翔子の奴は、俺の心優しい忠告を聞くと、逆に眉間に皺を寄せ、敢えて見せ付けるように上半身をふんぞり返らせ、ずんずん距離を詰めてくる。
「フライングおっぱいプレースっ!!」
「うおおおっ!?」
唐突に翔子は、ソファで寝ていた俺の上に、ダイブアタックをぶちかましてきた。薄い胸を俺の顔面に押し付けると、そのままプロレス技のように頭をがっちりホールドする。こ、呼吸が出来ん!
「いくら自分でも、体を馬鹿にされたら不愉快だっ! 何が免震構造だっ! ナカタ君ともあろう物が、おっぱいを馬鹿にするとはけしからん! 罰として、おっぱいに埋もれて死ぬが良い!」
「んががが……!」
むにゅむにゅと心地よい感触を顔に受けつつも、呼吸の出来ない俺は、ひっくり返った亀みたいに手足をじたばたさせてもがく。
こいつ、俺が反撃できない事を理解して、おっぱいを使って攻撃してきやがった! なんたる策士!
だが翔子は分かっていない。多分、こいつは自分の胸がさも女性的で、柔らかいと思っているのだろう。だが、はっきり言って、おっぱいプレスではなく、単なるボディプレスと言わざるを得ない。あれだ、さるかに合戦で、青い柿をぶつけられたカニの気分を想像して貰いたい。
「くっ……! 甘いな翔子、幾らお前が女の体だからって、俺が反撃できないと思ったか!」
「ふえ……? ひゃっ!?」
顔面にベアハッグをしていた翔子の隙を突き、翔子の軽い体を腕力で押し返す。その勢いを殺さずに寝返りを打ち、体勢をひっくり返す。翔子の細腕では抗うこともできず、俺は簡単にマウントポジションを取り返した。
こちらの動きに付いて来られないのをいい事に、ソファの上に翔子をそのまま組み敷いて、気をつけの姿勢を取らせると、すかさず両足で翔子を挟み込んで馬乗り状態になる。これで翔子は胸元を晒したまま、完全に拘束された形となった。
翔子は必死になって体を捩り、なんとか拘束を抜け出そうとするが、チビの翔子の力では、俺の体重を押しのけることは出来ない。俺は翔子に見せ付けるように、翔子の目の前で両手をわきわきさせる。
「ふっふっふ! 少し調子に乗りすぎたな翔子よ。さぁ、ここからは俺のターンだ!」
「ちょ……! その手は何だよ!? ご、ごめんってば、悪かった! もう止めよ? ね?」
翔子は可愛くそう言って、愛想笑いをして何とか俺の機嫌を取ろうとするが、もう遅い。俺は情け容赦無く、一気に翔子の上半身へ手を伸ばす。もにゅっ、と俺の指が翔子の体に沈む。うおお!? 何だこれ!?
よくマシュマロみたいな感触なんて言うけれど、この触感を、あんなものと比較するなんておこがましい。ずっと瑞々しくて弾力があるのに、きめ細かくしっとりとしていて、まるで俺の指に吸い付くようだ。
「こ、こら! どこ触ってんだ! や、やめてってば……! くすぐったい!」
「おおお……すっげー柔らかい……」
「ちょ、ちょっとナカタ君! だからほんとにやめ……! あっ……!」
翔子がくすぐったそうに俺の下でじたばたするが、構わず翔子の柔らかな肉を揉みしだく。どこの誰とも分からん奴と、高い金を払ってこんな行為に熱中する連中を、内心嘲っていたが、認識を改めないといけない、それほどの衝撃だ。
――もみもみもみもみ。ぷにぷにぷにぷに。
「あはははは! や、やめろってば! ……だからやめろって言ってんだろっ!」
「痛ってえっ!」
堪忍袋の尾が切れた翔子が、頭を浮かせ、俺の腕に容赦なく噛み付いた。全く加減の無い噛み付きっぷりに、たまらずソファから転げ落ちる。くそ、何て凶暴な女だ。
「何だよ! 二の腕ぷにぷにする位いいだろ! こちとら譲歩してんだぞ!」
「くすぐったいんだよ! 猫の肉球でも触ってろっ!」
以前、ネットでエロサイトを巡っていたとき、女の二の腕の下部分は、胸の感触と非常に良く似ている言っていたのを思い出した俺は、威嚇の手段として、二の腕ぷにぷにアタックを試みたのだ。
しかし、本当にあそこまで柔らかい物だとは思わなかったので、ちょっと本気になって揉んでしまった。ぷにぷに。
その後、翔子はろくに口も利かず、俺のパジャマの上着とトランクスだけ履くと、さっさと2階の布団に潜ってしまったので、俺も適当に風呂に入ると、そのままベッドに潜り込んだ。普段より大分早い時間だが、今日は色々あったので、さっさと寝てしまうほうが吉かもしれない。
「ナカタ君、起きてる?」
電気の消えた真っ暗な部屋の中、俺がうとうとし始めた時、翔子が唐突に話しかけてきた。
「起きてるけど、何だ?」
「そのさ、男女2人に別れちゃったし……寝る前に、『アレ』しない?」
「ぶっ!?」
俺はたまらず噴き出し、がばりと上半身を起こす。下の布団で寝ていた翔子は、大きな目をぱちぱちさせ、きょとんとした表情で俺を見上げている。
「何驚いてんの?」
「お、おま……! アレしようって……」
寝る前に男女でするアレって……アレのことだろ? そりゃあ今の俺と翔子の体は別れてるし、当然その機能はある。でも、こいつは俺だぞ? 確かに翔子はちんちくりんだけど、かなり可愛い部類ではあるし、全体の肉付きはお世辞にも豊満とは言えないが、女の部位を始め、肉質そのものは十分に柔らかく出来ているのは確認済みだ。これを好き放題出来たら――
って、待て待て俺。冷静になれ。冷静になるんだ中田翔一。だからこいつは俺だっての。……あ、でも俺だって事は、逆に大人のプロレスごっこをしても、自分で自分を慰める、つまり自慰行為ってことになるんじゃないか?
俺ぐらいの年齢なら誰だってやっていることだし、別に変態行為じゃないよな、うん。我ながら完璧な理論だ。よし、覚悟は出来た。後は実行のみ。
「ヘンタイ!」
「ぶばっ!?」
俺が素晴らしく理性的かつ倫理的な理論を打ち立てたというのに、翔子の奴、いきなり顔面に枕を投げつけてきた。
「何すんだよ!」
「今変なこと考えてただろ!」
「変な事って、お前がアレしたいなんて言うから、俺は世間様に胸を張れる様に、理屈を一生懸命考えてんだぞ! 邪魔すんなよ!」
「そっちじゃない! 私が言ってるアレってのは、神様へのお願いのこと!」
「……へぇ?」
翔子の思いがけない言葉に、俺は空気の抜けた返事をしてしまう。
「昨日の夜、目覚めたら美少女になりますようにって言って、起きたらなってたでしょ? だったら、今日2人で『元に戻れますように』ってお祈りしたら、明日には戻ってるかもしれない」
「あー……何だぁ、そういう事かぁ……」
「ナカタ君、な、なんか凄い残念そうだな……言っとくけど、私はナカタ君程度に体を許すほど、安い女じゃないぞ?」
「お前、自分で言ってて悲しくならないか?」
「うん……ごめん……」
俺程度、という言葉にお互いに凹みながら、微妙になった雰囲気の中で、俺たちは寝なおす事にした。損したような安心したような、何とも複雑な気分である。実は損した感の方が強いことは、俺の心の中だけにしまっておこう。
「それじゃ行くよー。せーの……」
翔子が号令を掛ける。俺も天井を見上げながら、胸元で手を組む。
「「神様、今日1日でえらい目に遭いました。明日になったら、どうか元に戻っていますように。お願いします。お願いしましたよ」」
敬虔な信仰心なんて持っていない俺と翔子は、正しいお祈りの言葉なんて分からないので、投げやりに神に祈りを捧げる。英語が喋れなくても、ボディーランゲージで意思が伝わればOKなのだから。大事なのは形式ではなく心意気だ。たぶん。
「これで明日は元に戻ってるといいんだけど。もし戻ってなかったら、ナカタ君、『おにーちゃん、朝だよっ♪』って優しく起こしてやろうか? 嬉しいシチュエーションだろ? あ、当然ナカタ君は私を起こさなくていいよ。男に起こされるなんてキモいから」
「遠慮しとく。つーかお前、絶対今の状況楽しんでるだろ?」
「あったりまえじゃん。ナカタ君には悪いし、不便は不便だけど、可愛い女の子になるって結構楽しいよ? どこいっても優しく対応してもらえるし、学校には行かないでいいし」
「この悪女め! なんで俺だけ俺のままで、翔子だけが得をするんだっ! クソッ! 納得いかねー!」
「さあ、日ごろの行いの違いじゃない?」
「俺もお前だっつーの!」
「あははは、じゃ、おやすみ……」
翔子は一方的に言いたい事を言い終えると、すぐにすうすうと寝息が立て始めた。図太い神経してるなと思ったが、男の俺だって今日は相当に疲れた。慣れない体で今日一日を過ごした翔子の体には、もしかしたら、想像以上に負担が掛かっていたのかもしれない。
考えることは山ほどあるが、本当に今日は色んなことがありすぎたし、今はただ眠りたい。穏やかに眠る翔子の寝息に吸い寄せられるように、俺の瞼もすぐに重くなった。
「――ふふ、まだいけそうかな?」
意識の沈むほんの一瞬前、翔子の寝息の合間に、知らない誰かの声が聞こえた気がしたが、疲れきっていた俺の体は、それを意識することなく、心地よい眠りへと落ちていった。




