最終話:行けるとこまで
まるで機械のスイッチをオフからオンに切り替えたみたいに、奇妙なほどスムーズに俺は目を覚ました。枕もとの時計を見ると、時刻は丁度7時を指している。陽光に照らされたカーテンが、クリーム色に染まっているのを見ると、きっと外は快晴だろう。
「っ……! そうだ! 翔子っ!?」
バネ仕掛けのおもちゃみたいに、俺はベッドから跳ね起きる。慌てて部屋を確認すると、俺の横に眠っていたはずの翔子の姿は跡形も無い。あれは夢だったんじゃないか、なんて事を一瞬考えたが、床に敷きっぱなしの布団と、もぬけの殻の男物の服、そこに微かに残る、薄めたいちごミルクみたいな残り香が、翔子がここに居た事を教えてくれた。
「そっか、元に戻ったんだな……」
俺は胸元に手を当て、もはや俺以外、誰も居ない部屋の中でぽつりと呟いた。これで何もかも元通り。春川翔子は中田翔一と1つになり、世界はあるべき姿を取り戻したのだ。
「……顔洗うか」
天気の良い休日、普段しようとしても出来ない早起き。今までの俺だったら、たっぷりとある時間で、どこへ遊びに行こう、何をしようかなんて考えるのに、今日の俺の口からは、そんな陳腐な台詞しか出なかった。
1階の洗面所で顔を洗い、そのまま台所で朝飯を食べる。何もやる気が起きなかったので、トーストと牛乳だけの、普段に輪をかけて適当な物にした。無心でトーストを口に放り込んでいると、俺ん家ってこんなに静かだったっけ、なんてことを考えてしまう。翔子と過ごしたのは、たった2日間だけだってのに。
――ピンポーン
そんな事を考えていたら、不意に玄関のチャイムが鳴った。まだ8時前なのに、宅配便か何かだろうか。幾らなんでも早すぎだろうと苛立ちつつも、他に出る人間も居ないので、仕方なくドアを開ける。
「……何やってんだよ、ジン」
「おはようナカタ君。いい朝だね」
ドアの前には、金髪ポニテのツナギ女――自称神様のジンが突っ立っていた。口調は相変わらず軽薄だが、目の下に若干クマが出来ていて、心なしか不機嫌そうだ。とてもいい朝なんて顔してないぞ、こいつ。
「巻き戻しとやらはもう終わったんだろ? 終了の告知か?」
「今日からご近所に引っ越してきたから、挨拶に来たんだよ」
「……はぁ?」
ジンは意味不明な台詞をほざく。引っ越して来た? 何言ってんだこいつ。元々ジンのテストが原因で、俺と消えてしまった俺の半身――翔子はえらい目にあったのだ。もうこいつと係わり合いになる気は無いのだが、俺のそんな気持ちなどお構い無しに、ジンは前に分厚い書類を取り出した時のように、何も無い空間から巨大な塊を引っ張り出し、地面に置いた。
「はい、これナカタ君に引越しのご挨拶」
「何だよこれ?」
「見て分からないかい。トランクだよ。海外旅行とかで使うだろう」
「そうじゃなくてさ。なんで俺にトランクなんか渡すんだよ。つーか、これ中でなんか動いてない?」
「いいからさっさと開ける。ほら、苦しがってるじゃないか。早く出してあげないと可哀想だ」
だったらこんなもんに詰めんなよと思いつつ、俺は微妙に動くトランクケースに恐る恐る手を伸ばす。化け物でも入ってたらどうしようと思いながら、しぶしぶロックを解除する。
「うぅー!! うううーっ!!」
「げえっ! 翔子!?」
トランクケースの中には、見覚えのありすぎるショートカットの小柄な少女――翔子が詰め込まれていた。口元にガムテープを貼り付けられ、手足はがっちりと縄で緊縛されている。凄まじい背徳感と犯罪臭が玄関先に迸る。何が何だか分からないが、とにかく翔子の口元のテープを剥がし、手足の縄を解いてやる。
「ぶええぇぇぇえん! ナガダぐぅぅんん! 怖がっだよぉおお!!」
「翔子!? 何でお前がここに!?」
翔子は号泣しながら俺に抱きついてくるが、困惑する俺達にお構い無しに、ジンは淡々と言葉を続ける。
「ああ、翔子ちゃんが女の制服着るの絶対嫌だって言い張るから、睡眠薬嗅がせて無理やり着せた。途中で脱がれたり暴れられたりしても困るし、ちまちま運ぶの面倒だから、ちょっと縛ってトランクに詰めたんだよ」
ジンはにっこりと笑みを浮かべ解説する。犯罪だろそれ。
「うぅ……私は嫌だって言ったのに、ジンが無理やり……」
よく見てみると、確かに翔子は女物の学生服を着ていた。紺色を基調としたブレザーにスカート、ニーソックスと小さな革靴。制服は俺の出身中学の奴か。いや、突っ込みどころはそこじゃねえ。
「翔子ちゃん用の学生証、保険証、後は洋服とか、取り急ぎ必要なものは、翔子ちゃんと一緒に入れておいたよ。徹夜からの突貫工事だからまだ全部出来て無いけど、細かい部分はこれから修正を加えていくから」
「いやいやいや! ちょっと待て!」
「翔子ちゃんは中田家の従姉妹の枠にねじ込む。金銭的な面もフォローするから、君は心配しないでいい。とりあえず、君のお父さんとお母さんは、今回の出張で大成功するように細工したし、大分給与面も上がるだろう。それ以外にも――」
「だからそうじゃなくて、何で翔子がここに居るんだよ! メンテナンスは簡単だって言ってたじゃねえか!」
事務的に喋るジンに割り込み、俺はたまらず大声で遮る。ジンは珍しくむっとした表情で、俺を細目で睨み返す。
「簡単な筈だったんだよ。君が余計な小細工をしてくれなければね。作業中に過去ログを解析して仰天したよ」
「へっ? 俺、別に何もしてないぞ?」
「ほほう、これを見てもそれが言えるかな?」
そう言うと、ジンはツナギのポケットに手を突っ込んで、目の前に俺の携帯電話を突き出した。液晶モニタが目まぐるしく変化し、短い文字列が展開される。内容はこうだ。
Re:アホの中田
従姉妹だ
金曜日、小林に返信したメールだ。こんなもん何の支障があるんだ。俺の疑問の表情に呆れたように、ジンは深いため息を吐く。
「昨日話しただろう。魂には縁があり、縁はとても複雑で繊細。ちょっとした事が他の魂、世界に多大な影響を与えるとね。君が何も考えずにこんなメールを送ったせいで、安易に翔子ちゃんを消してしまうと、ある人間とその周辺に多大な影響が出ることが判明した」
「メール? ある人間? 多大な影響? 訳わかんないぞ」
「すぐに分かる……お、来た来た」
相変わらず1人で話を進める奴だ。ジンは玄関の壁際に移動し、道を空けるように体をずらす。ジンが体をどけた先、俺の家の前には、男が1人立っているのが見えた。
「よう中田、いい朝だなっ!」
「小林じゃねえか。何しに来たんだ?」
上機嫌で話しかけてきたのは、俺の昔からの男友達――小林だ。こいつが俺の家に来ること自体は珍しいことじゃないが、こんな朝っぱらから来ることは余り無い。しかも何かやたら爽やかだ。普段の小林を知っていると違和感がありすぎて気持ち悪い。小林は、獲物を見定める猛禽類みたいな目つきで視線を動かしていたが、ある一点でぴたっと止まる。
「おおっ! やっぱり中田の家に居た! ええと、春川翔子さんだっけ?」
「え、私?」
泣きやんで俺の横に立っていた翔子も、俺と同じく、小林の発する不気味なオーラに気押されている。小林はそのまま家の敷地にずんずん入り、翔子の前まで歩み寄る。翔子は逆に一歩引くが、小林はまるで意に介さない。同じく玄関先に居る俺やジンなど、もはや眼中にないようだ。
「春川さん、一応確認なんだけど、中田の奴とは従姉妹で、別に付き合ったりしてないんだよね?」
「う、うん……まぁ、そういうことになってる、けど……」
「そ、そっか! いやぁ良かった! よし、俺も男だ。昨日1日悩んだが、ここははっきり言う! 春川翔子さん! 俺と付き合ってくださいっ!!」
――寒気がした。
「「は……え……? どえええええええええええっ!?」」
俺と翔子は同時に悲鳴を上げる。小林は今まで見たことも無い表情で俺を睨み、まるで縄張りを守る猛獣みたいに俺をけん制する。
「中田は黙ってろ! これは俺と春川さんの問題なんだ! 春川さん、あ、翔子さんって呼んでいい? 付き合うのが無理なら友達からでもいい! 俺、小林って言うんだ! 中田とは中学校の頃から友達で――」
翔子の返事をまるで聞かず、小林は当然翔子も知っている武勇伝を、かなり脚色しながら一方的にまくし立てる。殆ど壁に押し付けられながら、翔子は涙目で、助けを求めるように俺に視線を向ける。
「こんなに美人のお姉さんに気付かないなんて、いやはや、恋は盲目とは良く言ったもんだ」
「上手いこと言ったつもりかよ! ジン、これは一体どういうことだ……?」
「あの時、君が嘘でも『彼女だ』と返しておけば、小林君は涙を飲んで諦めたんだよ。そして春川翔子は、彼の初恋の思い出としていずれ風化し、中田翔一君の中だけで翔子ちゃんの縁は収まる――はずだった」
くっくっく、と、ジンは実に楽しそうに笑いを噛み殺す。
「ところが、君は『従姉妹だ』と答えてしまった。つまり、君は小林君にチャンスを与えてしまったんだよ。一目惚れした春川翔子ちゃんを自分の物にする機会をね。縁の中でも、恋愛はとても強い結びつきを持つ。何とか小林君を綺麗に振るか、受け入れるしかないねぇ」
「はああああああああっ!?」
俺はたまらず素っ頓狂な声を上げる。ってことは、あの状態の小林を翔子が完全に撃沈させるか、ありえないが、お互いにラブラブになるしか状況を収める方法がないって事か?
「そういう事になるね。ま、悪いことばかりじゃないよ。今のナカタ君と翔子ちゃん、2人の力は常人以下だ。でも、お互いが協力し、人並み以上に頑張れば、2人に増えた分、その能力は掛け算で3倍にも4倍にもなるかもしれない。しばらくは私もサポートするから、よろしくやっていこうじゃないか」
ジンは悪びれず、滅茶苦茶な理論を言い放つ。こいつ神様じゃなくて超人なんじゃねえか? まだ初恋すらしてないってのに、彼女じゃなくて彼氏が出来て、しかも相手は小林。翔子が戻ってきてくれて、嬉しさを感じているのも事実だけど、いやでもやっぱり駄目だろこれ。あ、でも俺じゃなくて被害は翔子だからまだ良いか。いやいや、翔子に持っていかれた分、俺のスペックも落ちてるし、その分ジンはサポートするって言ってるし――
「あああああああああああっ!! もう面倒臭ぇっ!!」
「ぐわあっ!?」
余りにも状況がこんがらがりすぎて、俺の頭で処理できる量を完全にオーバーしている。俺は衝動のままに小林を蹴り飛ばし、翔子をひったくるように奪い返す。そのまま翔子の手を引いて、全力で家を飛び出す。
「行くぞ翔子っ! 付いてこいっ!」
「ええっ!? ナカタ君、行くってどこへ!?」
「俺に聞くなっ!!」
「くっ……! 待て中田っ! 翔子さんはお前に渡さんぞっ!!」
俺の蹴りから復活した小林が、凄まじい勢いで俺達を追いかけてくる。漫画とかだったら、砂煙とかを巻き起こしそうな勢いだ。
「あはははははははっ!! こりゃ面白くなってきた! これだから世界は面白いっ! 良い事も悪い事も、次から次へと想定外の事が起こる!」
ジンはジンで、腹を抱えて哄笑すると、珍しい虫を見つけた昆虫採集家みたいに目を爛々(らんらん)と輝かせ、俺達3人の後を苦も無く追いかけてくる。
俺は王様相手に激怒した羊飼いの如く、何が何だか分からない衝動に駆られ、翔子の手を取り、商店街をひた走る。
寝癖の付いたぼさぼさ頭で爆走する若者と、そいつに手を引かれ、必死について来る制服姿の可憐な少女。その2人を執拗に追いかける殺気だった男に、さらに後ろを爆笑しながら付いてくるツナギ姿の金髪女。完全に頭のおかしい連中だ。休日の早朝で人は少ないが、俺達の奇行に、道行く人々が何事かと視線を向ける。
知ったことか。笑いたきゃ笑いやがれ。こっちは今、それどころじゃないのだ。周りがどうだとか、これからどうなるかとか、俺達の存在だとか、のんびり考えている暇なんてありゃしない。俺も翔子もここにいて、生まれてきちまった以上、俺達は、自分たちの道を突っ走るしかないのだ。
空はむかつくほどに青々と冴え渡り、眩しい朝の日差しが燦燦と寝起きの街並みに降り注ぐ。これから昼になれば、光はどんどん強くなる。両親ももうすぐ帰ってくる。明日からはまた学校だ。俺達の都合なんかお構いなしに、世界はぐるぐるぐるぐる回って行く。
「待て中田ーっ! 翔子さんを返せーっ!」
「さてさて、どうなることやら、この先は神様にも分からないねぇ」
「うわあああん! 私、こんな格好で市中引きずりまわしなんて嫌だぁー!」
「お前ら、いちいち五月蝿いんだよ! クソったれがぁー!」
原色の絵の具のチューブをありったけ搾り取って、ぐちゃぐちゃに混ぜたみたいな、不思議で、奇妙で、パワフルで、色鮮やかで、きらきらと光って見える街中を、俺達は、行くあても無く馬鹿みたいに疾走する。行き着く先など分からない。道無き道のその果てまで――。
これにて完結となります。
最後までお付き合い頂きありがとうござました。




