婚約破棄の謝罪文は、ご自分でお書きください
「リゼット、父上への謝罪文を頼む。いつもの調子で、あまり大事にならないように」
「……今度は、何をなさったんですか?」
「君との婚約を破棄して、マルティナと結婚する」
開きかけた筆記箱を、私はそっと閉じた。
それでも立ててしまった小さな音に、セドリック様が眉をひそめる。
「どうした。インクを忘れたのか?」
「いえ……」
決して忘れてはいない。
忘れるわけがないし、替えのペン先も下書き用の紙も入っている。
約束の時間に侯爵家へ来ると、いつも決まって何か頼まれるので、すっかり持ち歩く癖がついてしまった。
ただ、今日は「用意していなかったもの」を頼まれたのだ。
私を捨てる謝罪文である。
「……私との婚約を、破棄するおつもりなのですね」
「あぁ。君には悪いと思っている。しかし、僕も自分の心には嘘をつけない。マルティナを愛してしまったんだ……」
セドリック様の隣に座る令嬢が、彼の腕に添えた手へ目を落とす。
マルティナ様は伯爵家の次女で、最近よく二人で出かけていらした。
親しい友人に過ぎないと聞かされていたのだけれど、それは嘘だったらしい。少なくとも、この瞬間からは。
「お父様には、もうお話しになったのですか?」
「まだだ。先に手紙を送り、筋道を立てて説明した方がいいだろう。僕が口で言うと、どうしても言い争いになるから」
彼は卓上の便箋を私へ寄せた。
青い縁取りに侯爵家の紋章。見慣れた紙だ。
「君にも至らないところはあったが、僕にも配慮が足りなかった。そういう感じで、どちらにも非があるように。父上は君を気に入っているから、僕だけが悪いとなると話が進まない」
どちらにも非があるように。
言われたことを、そのまま頭の中で繰り返した。
その言葉は螺旋のような軌道を描き、私の人生を思い起こさせていく。
私はリゼット。グレーヌ子爵家の娘で、二十歳になる。
三年前にセドリック様と婚約してから、いったい何通の謝罪文を考えてきただろう。
最初は……夫人の茶会を忘れて狩りへ行ってしまった件だった。
どんなお詫びをすればいいのか分からないと困っていた彼が、私の作った草案を読んで、嬉しそうに笑ったのを覚えている。
『助かった。僕にはこういう気の利いたことが書けないんだ』
草案を見ながら彼が清書して、最後に署名をする。
先方からお許しの返事が来れば二人で喜んだ。
夫婦になっても、こんな風に助け合えたらいいと思った。
茶会の次は晩餐会を忘れた。
取引先への失言もあったし、展示会で職人を怒らせたこともある。
いつからか、お茶が冷めても彼は戻ってこなくなった。
私が書いている間に、友人と出かけるようになったのだ。
「リゼット様。私からも、お願いいたします」
マルティナ様が顔を上げた。
「こんなことになってしまって、申し訳なく思っています。でも、セドリック様を責めないでください。お寂しかったのだと思うんです。リゼット様とお会いしても、お仕事のお話ばかりだったそうですから」
あぁ、そういうこと。
私が何のお話をしていたかは、ご存じないのね。
オルデン伯爵への返事をどうするか。
約束した訪問は済ませたのか。
あの職人の名前を、もう間違えずに言えるのか。
確かに、未だ遊び盛りの彼にとって楽しい話ではなかっただろう。
だが、私だって、一度くらい新しい帽子を褒めてほしかった。
「謝罪文は、お書きしません」
私が静かに、穏やかな水面に小石を一つ落としたような声で告げると、セドリック様は便箋に伸ばしかけていた手を止めた。
「……感情的にならないでくれ。穏やかに済ませたいだけなんだが」
「それでしたら、穏やかに済ませることのできる文章を、ご自分でお考えください」
「だから、それを君に頼んでいるのさ。書くのが得意だろう?」
頼みさえすれば私は書くと、彼はまだ、そう思っているのだ。
私は筆記箱を膝から持ち上げた。
母からもらった木箱で、留め金の脇に小さな傷がある。
初めて彼の謝罪文を書いた日、慌てて閉めようとして、ペン先で傷つけてしまった。
「婚約の解消には同意いたします。父には私から、今日のお話を伝えますので」
「待て。何を伝える気だ」
「あなたが仰ったことですよ」
彼は私と筆記箱を交互に見て、それから笑った。
邪気のない笑みだ。自分の言葉には何一つ責められることはないと、心から信じている顔。
「少し時間を置こう。今日は無理でも、明日には落ち着くだろう。三年も一緒にいたんだ。最後くらい気持ちよく別れようじゃないか」
いつもなら、ここで笑い返していたかもしれない。
——承知しました。こちらで何とか考えておきます。
そう答えれば、彼はまた私を褒めてくれる。
「お父様への謝罪文は、ご自分でお書きください」
私は立ち上がった。
そのまま帰るまで、彼から私への謝罪はなかった。
・
家へ帰って最初に書いた手紙は、当然というか、なかなか進まなかった。
父は領地へ戻っている。早馬を出せば翌日には届けられるから、夕方までに書き終えたい。
それなのに、書いては消してばかりだった。
『セドリック様と私の間に、考え方の相違が——』
そうではない。
私たちは何かについて意見を交わしたわけではない。
『お互いに努力を重ねてまいりましたが——』
その一文にも線を引いた。
いつの間にか、頼まれた謝罪文を書こうとしてしまっている。
今までの行いが身体に染み付いてしまっているのだ。
気分転換のつもりで紙を替えた。
『お父様。私は怒っています』
書いてから、しばらく眺めてみた。
父への手紙を、こんなに感情的に始めたことはない。
いつか、同じような始まり方をする小説を読んだことがある気がする。
それが何故か妙に誇らしくなり、思わず笑ってしまう。これでいこう。
名文の下に今日のやり取りを書き、三年分すべてとはいかないけれど、私がしてきたことも書いた。
最後に、「セドリック様とは結婚したくありません」と添える。
便箋が五枚になってしまったし、清書もしていないが、私はこれを送ることにした。
父からの返事は二日後の朝に届いた。
『帰る。侯爵への説明は私がする。お前はしばらく、その男の事を考えなくていい』
領地の収支については何枚も書く父が、それだけ書いて寄越してきた。
私は卵を食べる手を止めて、短い返事を何度も読み返す。
父が帰ったその日のうちに、侯爵からも、婚約解消に同意する返事があった。
詳しい条件は、後日、顔を合わせて話し合うことになった。
それまで私は何もせず、急に誰からも呼ばれなくなると、時間の使い方が分からなくなってしまった。
読みかけの本を開いても、茶を飲んでいても、まだどこかへ返事を出していない気がする。
実際、返答を待っている相手が三人いた。
いずれもセドリック様との間に済んでいない話がある方たちだ。
私は、それぞれに婚約解消を知らせた。
今まではセドリック様に命じられ、あなた方への手紙を代筆していた。今後も侯爵家の秘書を通じて、セドリック様へ直接ご連絡いただきたい。
そう書いてから、いつもの癖で足したお詫びの一行を消す。
三通目の宛先はオルデン伯爵だった。
領内にいくつもの陶器工房を抱え、王都でも展示会を開いている方で、私はもう何度もお会いしている。
かつて、私の書いた謝罪文を最初に送り返してきた方でもあった。
『これは私ではなく、職人本人に伝えるべきではありませんか?』
そう書かれているのを見た時、セドリック様と二人で顔を青くしたのを覚えている。
そんな彼と会ってみると、まだ二十代の若い伯爵だった。
けれど、私がお詫びを述べている間、相槌ひとつ打たずに聞いていたので、やはり怖かった。
その伯爵に婚約破棄の知らせを送ると、向こうから招待状が来た。
身構えながら開いてみると——お茶のお誘いだった。
『来週、茶を飲みに来ませんか。水曜か金曜であれば私は空いています』
追伸があった。
『筆記箱は置いてきてください』
私は膝の上にある箱を見下ろした。
なぜ、持っていこうとしていたことが分かるのだろう。
・
金曜日、私は筆記箱を家へ置いてきた。
オルデン伯爵の王都の別邸には、陶器を展示する小さな部屋がある。
春に訪れたときは、そこから聞こえる商談の声に緊張しながら、向かいの応接室で伯爵を待っていた。
今日は、その展示室に茶卓が置かれていた。
「こちらの方が落ち着くかと思って」
立ち上がった伯爵は、以前の訪問でも着ていた灰色の上着を脱いで、椅子の背へ掛けた。
背が高く、よく通る低い声。
私が見上げると彼も目を合わせてくるので、以前はそれだけで、用意した言葉を忘れそうになったものだ。
「あの、本当に何も持ってこなかったのですけれど」
「手ぶらで来てほしかったんだ。そう書けばよかったな」
伯爵が私の椅子を引いてくれた。
腰を下ろすと、彼も向かいへ座る。
侍女がお茶を注いで退室すると、私は卓上を見た。
書類などは何もなく、本当にお茶と菓子しかなかった。
私の前には、淡い緑の茶器が置かれている。伯爵のものは白い。
いや、色がついているのは私の茶器だけだった。
「君はこの色を長く見ていただろう。前に来たとき」
顔を上げると、彼はあっけらかんとしていた。
「あの……何か粗相をしていないかと、ご覧になっていたのでは?」
「君が粗相を?」
聞き返されて、たちまち恥ずかしくなってしまう。
「以前、私がお話ししている間、何も仰らなかったので。きっと大変お怒りなのだろうと」
「あぁ、確かに怒ってはいた。だが、セドリックにだ。君には……話が終わるまで待っていたつもりだったんだが」
私は急に紅茶を飲みたくなった。
「随分、怖がらせていたようだな」
「謝罪文にお返事ではなく……書き直しというか、その指示をいただいたのは初めてでしたから」
「あれはセドリックへ書いたものだ。そもそも、彼が書いたものではないと分かっていたから」
伯爵は菓子の皿を私へ寄せた。
薄焼きの生地を重ねた蜂蜜のケーキ。
展示会で、セドリック様は飾られていた大皿を落とした。
落としたこと自体は事故だったのだろう。
けれど、慌てて破片を拾う職人に向かって、彼は笑いながら言ったのだ。
同じものを作ればよい。代金は払う、と。
引退する老職人へ、工房の仲間たちが贈った皿だった。
一緒に働いた人たちの名が縁をぐるりと囲んでいた。
セドリック様は「展示品をひとつ落としただけなのに大袈裟だ」と言っていたが……どちらが悪いかは明らかだろう。
「あの大皿……修繕が終わったそうですね」
「ベルトランの家に飾ってある。ひびは残ったが、名前は全部読めるそうだ。君が修繕先を探してくれたことも覚えている」
「よかった。何人もご紹介いただいて、なかなか引き受けてくださる方が見つからなくて」
修繕する費用は、当然セドリック様の私費から出していただいた。
あとはご本人が工房へ出向き、ベルトランさんと、皿を作った方たちへ謝罪する。それでようやく話が済む。
「先月末には、ご挨拶にも伺ったと聞いています。お二人でお話しできたのでしたら、もう——」
「来ていない」
フォークを持つ手が止まる。
「君から連絡をもらって工房へ確認したが、まだ来ていないそうだ。侯爵家にも問い合わせたが、本人が返事をすると言われたきりでな」
「でも……セドリック様は済ませたと」
伯爵が卓上の呼び鈴へ手を伸ばす。
「訪問記録を持ってこさせよう」
「いえ、伯爵を疑っているのではなくて。私は二度も、ちゃんと伺いましたかと聞いたんです。それで、いい加減しつこいと……」
先月末、私は訪問に必要な手土産を用意して、工房側との日程を調整していた。セドリック様は私がついていくのを嫌がったから、準備したものだけを渡したのだ。
あの手土産はどうしたのだろう。
工房の人数に合わせて、菓子を三箱も用意したのに。
「お知らせいただいて、ありがとうございます。父に……伝えます」
そう答えると、伯爵は頷いた。
「使節団への推薦も俺は取り下げる。訪問の約束を果たすことが条件だった。職人に詫びる約束も守れないまま、隣国の商人に会わせるわけにはいかない」
セドリック様は、秋に隣国へ向かう使節団の随員候補になっていた。語学が得意で人当たりもいい。
侯爵は息子の自立を喜んでいたし、私も、ようやく彼の努力が実ったのだと思っていた。推薦のお礼状も私が考えている。
ケーキの切り口から蜂蜜が皿へ垂れた。
伯爵が何か言いかけたが、それをやめて、残っていた菓子を口へ入れる。
「何か、仰りかけましたか……?」
「君の前で言うべきことではなかったと思って」
「……セドリック様の悪口ですか」
彼は菓子を飲み込んだ。
「……聞きたいです」
「いや……君のお陰で首の皮一枚繋がっていたのに、どうにも愚かだと」
・
お茶のあと、私は棚の陶器を見せてもらった。
花瓶や燭台が並ぶ中に、ずんぐりした兎がいる。
片方の耳が根元から折れていた。
「これは売り物ではない。俺が作ったものだ」
伯爵が私の肩越しに説明する。
「実際にやれば、職人の苦労も少しは分かると思ったんだが。子供たちに犬だと揶揄われたよう」
「兎だと分かりますよ。残っている方の耳が、これだけ長いですから」
余計なことを言ってしまったか。
振り向くと、伯爵は折れた耳を見つめていた。
「こちらが無事なら、もっと良かったんだがな」
それがあまりに悔しそうで、私は笑ってしまった。
失礼だと分かっているのに、一度笑うと止めることができない。
「わ、笑うほどひどいか?」
「いえ、何度も見直していらっしゃるので。私が犬だと言ったわけではありませんよ」
「自分で作ったものは……こう、な。次は耳を別に作ってみようと思う」
次も兎を作るらしい。
少し考えてから、私は言った。
「私も、作ってみたいです」
彼が兎から目を上げた。
「……隣の作業部屋に、粘土ならあるが」
「今……ですか?」
「工房主が王都へ来たとき、実演に使うんだ。釉薬を塗って焼くのは頼むことになるが、形を作るだけならすぐにでも」
それから、あれよあれよと工程が進んでいき、私は借りた前掛けをして、教えてもらった通りに粘土をこねていた。
伯爵は向かいで二匹目の兎を作り始めた。
指が長く、大きな手だったが、小さな耳を扱うときは慎重になっている。
私は簡単な皿を作るつもりだったのだけれど、縁を薄くするにつれて、片側がへたってきた。
「花びらの形にしてはどうだ?」
「そうします。丸いお皿にしたかったんですけどね」
「これはこれで味があるさ。ほら」
伯爵は余った粘土を私の方へ押した。
私はへたった部分を潰して、足して、伸ばす。
出来上がる頃には最初の倍ほどの大きさになっていた。
帰りの馬車へ乗る前、伯爵は焼き上がったら知らせると約束してくれた。
「そのときも、筆記箱はいらない」
「分かっております」
「すまない。仕事のようだと思われたくなくて」
馬車の踏み台に置いた足が止まった。
彼は私の手を支えたまま続ける。
「君をお茶に誘うだけで、こんなに考えるとは思わなかった」
返事に困った。不思議と手は離してほしくなかったので、馬車へ上がるのにいつもより時間がかかった。
婚約解消の条件を詰める話し合いは、その三日後、我が家で行われた。
侯爵とその秘書、セドリック様。こちらは父と私である。
私は何を聞かれても答えられるように、三年分の手紙の草案と、先方からの返事の写しを整理しておいた。
セドリック様は、その綴りを見て少しだけ表情を和らげた。
まだ、味方をしてもらえると思っているのだろうか。
「まず、私からお詫び申し上げたい」
口を開いたのは侯爵だった。
「息子が、娘さんへ大変なことを言った。婚約の解消に異存はない。息子の側に原因があることも書面に残そう」
「父上!」
椅子から腰を浮かせたセドリック様を侯爵が制した。
「座りなさい。お前の手紙は読んだ」
秘書が一通の手紙を卓上へ置く。
あの日、私の前へ寄せられたのと同じ、青い縁取りの便箋だった。
「本人の前でも、同じ説明ができるな」
セドリック様が黙ったので、父が手紙を私へ寄せた。
目を通して、私は、彼が一人でも十分に整った文章を書けることを知った。
時候の挨拶。親への敬意。突然の報告に対するお詫び。
その先に、私との結婚が難しくなった理由が続いていた。
『リゼットは私の交友関係へ過度に干渉し、私の知らないところで約束を取りつけます。オルデン伯爵との件でも、私は彼女の独断による要求に苦慮しております』
私の名前を綺麗な字で書いている。
「……工房へ行くとお約束したのは、私の独断だったのですか?」
「君が先に話を進めたんだろう。僕が断れば、また先方の機嫌を損ねる。あれでは同意するしかないじゃないか」
彼は父親へ顔を向けた。
「父上、僕にだって予定があります。皿の代金より高い修繕費も払った。それでもまだ足りないと、何度も何度も言われたんです」
私は綴りから春の日付の草案を取り出した。
工房へ伺うという一文は清書の前にも確かめた。
候補の日を二つ伝え、彼に都合のいい方を選んでもらっている。
「こちらをご覧になって、ご自分で清書なさいました。訪問する日を決めたのはあなたです」
「……そのときは行けると思ったんだ」
「行ったと、私にお答えになりましたよね?」
セドリック様の口が開かれるが、言葉は出てこない。
「いつまでも聞いてくるから……済んだと言えば、君も落ち着くと思って」
父が腕を組み直した。侯爵は手紙を読んでいる。
セドリック様は父親を見て、それから私へ顔を寄せ、声を低くした。
「今それを争って何になる。君が善意でやったことは分かっている。僕だって、君が全てにおいて悪いと言いたいわけじゃないんだ」
私は草案を卓上へ戻した。
書き直した跡が残っている。日付の脇には、訪問の際に確認することを小さく書き込んでいた。
ベルトランさんは耳が遠いから、正面から話しかけること。
工房の裏口は段差があること。
そんなことまで彼へ教えようとしていた。
「セドリック様。あのお皿は、誰のものだったか覚えていらっしゃいますか?」
「オルデン伯爵の展示品だろう」
返事は早かった。もういいと思った。
何度話しても、彼が覚えているのは、怒らせると困る伯爵の名前だけだった。
「リゼット嬢、こちらにも非がある」
侯爵が私へ頭を下げた。
「ここ数年、息子には自分で後始末をするよう言っていた。君には文章を見てもらっているだけだと聞かされてね……情けない。息子が自分で謝りに行けるようになったと、私は喜んでいた」
侯爵は息子へ向き直った。
「オルデン伯爵から、推薦を取り下げるとの連絡が来た。私も使節団へ、お前を推すことはできない」
「ち、父上、それは困ります。もう出立の準備も——」
「お前は私にも工房へ行ったと報告した。欺いたんだ。その息子を、どうやって他国へ送り出せと言うんだ」
彼は答えられなかった。
私が書いた文章を読んで、彼を誠実な青年だと言ってくださる方はいた。
褒められるたびに私は嬉しかった。いつか文章の通りに振る舞ってくれると期待もしていた。
あの手紙を信じた方たちへ、これ以上、私から待ってくださいとは言えなかった。
「婚約解消の条件を、確認させていただこう」
父が口を開くと、侯爵の秘書が書類を並べ始めた。
返却する贈り物や費用について話が進む中、セドリック様だけが黙っていた。彼の前に置かれた紅茶は手つかずである。
確認が終わり、私が退出しようとしたところで呼び止められた。
「リゼット。少しだけ……話せないか」
父がこちらを見る。私は頷いた。
父と侯爵は続き間で待ってくれることになった。
扉は開いたままで、秘書もそこにいる。
セドリック様は私へ歩み寄ると、ほとんど囁くように言った。
「伯爵へ、君からも手紙を書いてくれないか。僕の説明が悪かったことは認める。君の得意な書き方で、誤解を解いてほしいんだ」
——あぁ。謝るために、呼び止めたのではないのね。
「書きませんよ」
「どうしてそこまで意地になる。随員から外されれば、マルティナとの婚約にも響くんだ。あちらの父上も、僕の将来を買ってくださっていたんだ。君だって、そこまで望んではいないだろう?」
この方が帰ったら何をしよう。
父のお茶を入れ直そうか。
それとも、読みかけの本を、今度こそ最後まで読むか。
「君の文章なら、きっと伯爵も——」
「私はもう、あなたのことで手紙を書きたくないんです」
少しだけ声が震えてしまう。
きっぱりと言えたらよかったのに。
朝から何を聞かれても答えられるように準備していたくせに、こんな短い言葉も上手く言えなかった。
「誰に何を謝ればいいか、どうすれば許していただけるか。そんなことを考えているうちに、いつも、私の用事はなくなっていて。なのに、私とは仕事の話ばかりだったと、あなたが……」
喉につかえて続きが出てこなかった。
「……寂しかったんだな」
セドリック様は手を伸ばしてくる。
私はそれに捕まらないように一歩下がった。
「そうです。寂しかったです。お茶を飲みに来てと言われて、楽しみにしていたのに、毎回のように便箋が置いてあって。私のことは何も聞いてくださらなくて」
「それは、これから——」
「あなたと結婚したら、ずっとそうなるんだと思いました」
彼の手が下がった。
私はセドリック様の隣を抜け、開いている扉へ向かった。
父の姿が見える手前で立ち止まる。
「伯爵へ謝罪なさるのでしたら、ご自分のお言葉でなさってください。それから、ベルトランさんにも」
私は、彼がその名前を覚えるまで待たなかった。
・
侯爵家から婚約解消を知らせる正式な書状が届いた。
約束の通り、セドリック様の申し出による解消で、私に落ち度はないと記されていた。私と父は内容を確認し、両家の署名が揃う。
彼は使節団の候補から外れ、領地で侯爵の仕事を手伝うことになったという。
マルティナ様との縁談も、あちらの伯爵家が一度白紙に戻した。
父からそれを聞いたのは、夏の支度を始める頃だった。
心配より先に、遠い領地から手紙を寄越すのだけはやめてほしいと思った。どうにかしてくれと。
幸い、私のもとへ届いたのはオルデン伯爵の手紙だった。
『皿が焼き上がった。兎の耳も、今度は無事だ。届けに行きたい。君の顔も見たいので、都合のいい日を教えてほしい』
追伸はなかった。
私は返事の紙を出した。
火曜も水曜も木曜も空いているけれど、全部書くと、ずっと待っていたように思われるだろうか。
あの日から、まだ二週間しか経っていないのに。
それなのに、返事を書く前から彼に会う日のことを考えている。
迷った末に、いちばん早い火曜にした。
・
伯爵から受け取った包みを開くと、私が作った皿が入っていた。
綺麗な丸にはならなかったけれど、薄い緑の釉薬がかかって、私が指で押し広げた跡までくっきり焼き上がっている。
「本当に、お皿になっているんですね。ここ、私が何度も直したところです」
少し厚くなった縁をなぞって見せると、彼が覗き込んで笑った。
オルデン伯爵は笑うと目尻に細い皺が寄る。
以前はその目を見て話すだけで精一杯で、こんなことにも気づかなかった。
「何を載せようかしら。あまり重いものは……」
「普通に使って大丈夫だと職人が言っていた」
私は侍女に頼んで、焼き菓子を持ってきてもらった。
その間に、伯爵の兎も見せてもらう。
耳は二本とも立っているけれど、片方だけが随分と太い。
「丈夫そうですね」
「……君が帰ってから、もう少し細くし直したんだ。次に見せたとき、また笑われると思って。それでも、その太さになってしまったよ」
私は再び笑ってしまった。
彼は小さく文句を言いながら、自分でも兎を眺めて笑っている。
丸い焼き菓子を皿へ並べていると、伯爵が懐から手紙を出した。
封筒を見て私の指が止まる。
「ああ、仕事を頼むのではない。これは、君へ」
差し出された便箋には、途中で消した跡があった。
『先日の茶会について、今後も同様の機会を——』
その下も二行ほど消されているが、続きは短かった。
『もっと、君と一緒にいたい。俺との結婚を、考えてもらえないだろうか』
読み終わっても、顔を上げられなかった。
彼が息を吐くのが聞こえた。
「急すぎるのは分かっている。返事は、今日でなくていい」
「これ、ご自分で?」
「それは……俺が書くしかないだろう?」
その通りだった。
その通りだが、聞きたかった。
「綺麗な紙に、書き直そうとはなさらなかったんですか」
「したさ、三枚ほどな。だが、書き直すたびに失敗しているような気がして、結局一番最初に書いたものにしたんだ」
求婚の言葉の下には、ルーファス・オルデンと名前が記されていた。
「……私、あなたからお茶に誘われたとき、本当に困ったんです」
伯爵の顔から笑みが引く。
「何か怒られるのではないかと思って」
「怒る気なんて何もないさ」」
私は手紙を畳んだ。封筒へ戻し、カップから離れた場所へ置く。
お茶をこぼして汚したくなかったからだ。
「火曜も水曜も、木曜も空いていたんです」
「……何の話だ?」
「お返事です。お皿を届けてくださるお手紙への。全部書いてよいものか、悩んでしまって」
伯爵の視線が、私の顔へ向けられる。
「……結局、火曜にしました。いちばん早く、お会いできるので」
伯爵は黙り込んでしまった。
言葉を待っているうちに、私も困ってしまう。
「あの、ですから。お断りしているのではなくて」
「分かった……いや、すまない。ちゃんと聞かせてほしい」
彼が手を伸ばし、途中で止めようとした。
私はその手へ、自分の手を重ねる。
「私も、あなたと結婚したいです」
握り返す力が強くて驚いた。
顔を見ると、伯爵も目を丸くしている。
「……強く握りすぎた。すまない」
「いえ、こんなに強く握ってもらったことがなくて。嬉しいです」
彼は笑い、私は空いた手で自分の皿を引き寄せた。
焼き菓子を一つを取って、彼に渡した。
「次も火曜では、遅いでしょうか」
尋ねると、彼はまだ繋いでいる手を見た。
「明日も、空いているんだろう?」
「はい」
今度はすぐに答えられた。




