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婚約破棄の謝罪文は、ご自分でお書きください

作者: 歩く魚
掲載日:2026/09/25

「リゼット、父上への謝罪文を頼む。いつもの調子で、あまり大事にならないように」

「……今度は、何をなさったんですか?」

 

「君との婚約を破棄して、マルティナと結婚する」


 開きかけた筆記箱を、私はそっと閉じた。

 それでも立ててしまった小さな音に、セドリック様が眉をひそめる。


「どうした。インクを忘れたのか?」

「いえ……」

 

 決して忘れてはいない。

 忘れるわけがないし、替えのペン先も下書き用の紙も入っている。

 

 約束の時間に侯爵家へ来ると、いつも決まって何か頼まれるので、すっかり持ち歩く癖がついてしまった。


 ただ、今日は「用意していなかったもの」を頼まれたのだ。

 私を捨てる謝罪文である。


「……私との婚約を、破棄するおつもりなのですね」

「あぁ。君には悪いと思っている。しかし、僕も自分の心には嘘をつけない。マルティナを愛してしまったんだ……」


 セドリック様の隣に座る令嬢が、彼の腕に添えた手へ目を落とす。

 マルティナ様は伯爵家の次女で、最近よく二人で出かけていらした。

 

 親しい友人に過ぎないと聞かされていたのだけれど、それは嘘だったらしい。少なくとも、この瞬間からは。


「お父様には、もうお話しになったのですか?」

「まだだ。先に手紙を送り、筋道を立てて説明した方がいいだろう。僕が口で言うと、どうしても言い争いになるから」


 彼は卓上の便箋を私へ寄せた。

 青い縁取りに侯爵家の紋章。見慣れた紙だ。


「君にも至らないところはあったが、僕にも配慮が足りなかった。そういう感じで、どちらにも非があるように。父上は君を気に入っているから、僕だけが悪いとなると話が進まない」


 どちらにも非があるように。

 言われたことを、そのまま頭の中で繰り返した。


 その言葉は螺旋のような軌道を描き、私の人生を思い起こさせていく。

 

 私はリゼット。グレーヌ子爵家の娘で、二十歳になる。

 三年前にセドリック様と婚約してから、いったい何通の謝罪文を考えてきただろう。


 最初は……夫人の茶会を忘れて狩りへ行ってしまった件だった。

 どんなお詫びをすればいいのか分からないと困っていた彼が、私の作った草案を読んで、嬉しそうに笑ったのを覚えている。


『助かった。僕にはこういう気の利いたことが書けないんだ』


 草案を見ながら彼が清書して、最後に署名をする。

 先方からお許しの返事が来れば二人で喜んだ。

 夫婦になっても、こんな風に助け合えたらいいと思った。


 茶会の次は晩餐会を忘れた。

 取引先への失言もあったし、展示会で職人を怒らせたこともある。


 いつからか、お茶が冷めても彼は戻ってこなくなった。

 私が書いている間に、友人と出かけるようになったのだ。


「リゼット様。私からも、お願いいたします」


 マルティナ様が顔を上げた。


「こんなことになってしまって、申し訳なく思っています。でも、セドリック様を責めないでください。お寂しかったのだと思うんです。リゼット様とお会いしても、お仕事のお話ばかりだったそうですから」


 あぁ、そういうこと。

 私が何のお話をしていたかは、ご存じないのね。


 オルデン伯爵への返事をどうするか。

 約束した訪問は済ませたのか。

 あの職人の名前を、もう間違えずに言えるのか。

 

 確かに、未だ遊び盛りの彼にとって楽しい話ではなかっただろう。

 だが、私だって、一度くらい新しい帽子を褒めてほしかった。


「謝罪文は、お書きしません」


 私が静かに、穏やかな水面に小石を一つ落としたような声で告げると、セドリック様は便箋に伸ばしかけていた手を止めた。


「……感情的にならないでくれ。穏やかに済ませたいだけなんだが」

「それでしたら、穏やかに済ませることのできる文章を、ご自分でお考えください」

「だから、それを君に頼んでいるのさ。書くのが得意だろう?」


 頼みさえすれば私は書くと、彼はまだ、そう思っているのだ。


 私は筆記箱を膝から持ち上げた。

 母からもらった木箱で、留め金の脇に小さな傷がある。

 

 初めて彼の謝罪文を書いた日、慌てて閉めようとして、ペン先で傷つけてしまった。


「婚約の解消には同意いたします。父には私から、今日のお話を伝えますので」

「待て。何を伝える気だ」

「あなたが仰ったことですよ」


 彼は私と筆記箱を交互に見て、それから笑った。

 邪気のない笑みだ。自分の言葉には何一つ責められることはないと、心から信じている顔。


「少し時間を置こう。今日は無理でも、明日には落ち着くだろう。三年も一緒にいたんだ。最後くらい気持ちよく別れようじゃないか」


 いつもなら、ここで笑い返していたかもしれない。

 ——承知しました。こちらで何とか考えておきます。

 そう答えれば、彼はまた私を褒めてくれる。


「お父様への謝罪文は、ご自分でお書きください」


 私は立ち上がった。

 そのまま帰るまで、彼から私への謝罪はなかった。


・

 

 家へ帰って最初に書いた手紙は、当然というか、なかなか進まなかった。


 父は領地へ戻っている。早馬を出せば翌日には届けられるから、夕方までに書き終えたい。

 それなのに、書いては消してばかりだった。


『セドリック様と私の間に、考え方の相違が——』


 そうではない。

 私たちは何かについて意見を交わしたわけではない。


『お互いに努力を重ねてまいりましたが——』


 その一文にも線を引いた。

 いつの間にか、頼まれた謝罪文を書こうとしてしまっている。

 今までの行いが身体に染み付いてしまっているのだ。


 気分転換のつもりで紙を替えた。


『お父様。私は怒っています』


 書いてから、しばらく眺めてみた。

 父への手紙を、こんなに感情的に始めたことはない。


 いつか、同じような始まり方をする小説を読んだことがある気がする。

 それが何故か妙に誇らしくなり、思わず笑ってしまう。これでいこう。


 名文の下に今日のやり取りを書き、三年分すべてとはいかないけれど、私がしてきたことも書いた。

 最後に、「セドリック様とは結婚したくありません」と添える。


 便箋が五枚になってしまったし、清書もしていないが、私はこれを送ることにした。

 父からの返事は二日後の朝に届いた。


『帰る。侯爵への説明は私がする。お前はしばらく、その男の事を考えなくていい』


 領地の収支については何枚も書く父が、それだけ書いて寄越してきた。

 私は卵を食べる手を止めて、短い返事を何度も読み返す。


 父が帰ったその日のうちに、侯爵からも、婚約解消に同意する返事があった。

 詳しい条件は、後日、顔を合わせて話し合うことになった。


 それまで私は何もせず、急に誰からも呼ばれなくなると、時間の使い方が分からなくなってしまった。

 

 読みかけの本を開いても、茶を飲んでいても、まだどこかへ返事を出していない気がする。

 

 実際、返答を待っている相手が三人いた。

 いずれもセドリック様との間に済んでいない話がある方たちだ。


 私は、それぞれに婚約解消を知らせた。


 今まではセドリック様に命じられ、あなた方への手紙を代筆していた。今後も侯爵家の秘書を通じて、セドリック様へ直接ご連絡いただきたい。


 そう書いてから、いつもの癖で足したお詫びの一行を消す。


 三通目の宛先はオルデン伯爵だった。


 領内にいくつもの陶器工房を抱え、王都でも展示会を開いている方で、私はもう何度もお会いしている。

 

 かつて、私の書いた謝罪文を最初に送り返してきた方でもあった。


『これは私ではなく、職人本人に伝えるべきではありませんか?』


 そう書かれているのを見た時、セドリック様と二人で顔を青くしたのを覚えている。


 そんな彼と会ってみると、まだ二十代の若い伯爵だった。

 けれど、私がお詫びを述べている間、相槌ひとつ打たずに聞いていたので、やはり怖かった。


 その伯爵に婚約破棄の知らせを送ると、向こうから招待状が来た。

 身構えながら開いてみると——お茶のお誘いだった。


『来週、茶を飲みに来ませんか。水曜か金曜であれば私は空いています』


 追伸があった。


『筆記箱は置いてきてください』


 私は膝の上にある箱を見下ろした。

 なぜ、持っていこうとしていたことが分かるのだろう。


 ・


 金曜日、私は筆記箱を家へ置いてきた。


 オルデン伯爵の王都の別邸には、陶器を展示する小さな部屋がある。


 春に訪れたときは、そこから聞こえる商談の声に緊張しながら、向かいの応接室で伯爵を待っていた。

 

 今日は、その展示室に茶卓が置かれていた。


「こちらの方が落ち着くかと思って」


 立ち上がった伯爵は、以前の訪問でも着ていた灰色の上着を脱いで、椅子の背へ掛けた。

 

 背が高く、よく通る低い声。

 私が見上げると彼も目を合わせてくるので、以前はそれだけで、用意した言葉を忘れそうになったものだ。


「あの、本当に何も持ってこなかったのですけれど」

「手ぶらで来てほしかったんだ。そう書けばよかったな」


 伯爵が私の椅子を引いてくれた。

 腰を下ろすと、彼も向かいへ座る。


 侍女がお茶を注いで退室すると、私は卓上を見た。

 書類などは何もなく、本当にお茶と菓子しかなかった。


 私の前には、淡い緑の茶器が置かれている。伯爵のものは白い。

 いや、色がついているのは私の茶器だけだった。

 

「君はこの色を長く見ていただろう。前に来たとき」


 顔を上げると、彼はあっけらかんとしていた。


「あの……何か粗相をしていないかと、ご覧になっていたのでは?」

「君が粗相を?」


 聞き返されて、たちまち恥ずかしくなってしまう。


「以前、私がお話ししている間、何も仰らなかったので。きっと大変お怒りなのだろうと」

「あぁ、確かに怒ってはいた。だが、セドリックにだ。君には……話が終わるまで待っていたつもりだったんだが」


 私は急に紅茶を飲みたくなった。

 

「随分、怖がらせていたようだな」

「謝罪文にお返事ではなく……書き直しというか、その指示をいただいたのは初めてでしたから」

「あれはセドリックへ書いたものだ。そもそも、彼が書いたものではないと分かっていたから」


 伯爵は菓子の皿を私へ寄せた。

 薄焼きの生地を重ねた蜂蜜のケーキ。


 展示会で、セドリック様は飾られていた大皿を落とした。

 落としたこと自体は事故だったのだろう。


 けれど、慌てて破片を拾う職人に向かって、彼は笑いながら言ったのだ。

 同じものを作ればよい。代金は払う、と。


 引退する老職人へ、工房の仲間たちが贈った皿だった。

 一緒に働いた人たちの名が縁をぐるりと囲んでいた。


 セドリック様は「展示品をひとつ落としただけなのに大袈裟だ」と言っていたが……どちらが悪いかは明らかだろう。


「あの大皿……修繕が終わったそうですね」

「ベルトランの家に飾ってある。ひびは残ったが、名前は全部読めるそうだ。君が修繕先を探してくれたことも覚えている」

「よかった。何人もご紹介いただいて、なかなか引き受けてくださる方が見つからなくて」


 修繕する費用は、当然セドリック様の私費から出していただいた。

 

 あとはご本人が工房へ出向き、ベルトランさんと、皿を作った方たちへ謝罪する。それでようやく話が済む。


「先月末には、ご挨拶にも伺ったと聞いています。お二人でお話しできたのでしたら、もう——」

「来ていない」


 フォークを持つ手が止まる。


「君から連絡をもらって工房へ確認したが、まだ来ていないそうだ。侯爵家にも問い合わせたが、本人が返事をすると言われたきりでな」

「でも……セドリック様は済ませたと」


 伯爵が卓上の呼び鈴へ手を伸ばす。


「訪問記録を持ってこさせよう」

「いえ、伯爵を疑っているのではなくて。私は二度も、ちゃんと伺いましたかと聞いたんです。それで、いい加減しつこいと……」


 先月末、私は訪問に必要な手土産を用意して、工房側との日程を調整していた。セドリック様は私がついていくのを嫌がったから、準備したものだけを渡したのだ。


 あの手土産はどうしたのだろう。

 工房の人数に合わせて、菓子を三箱も用意したのに。


「お知らせいただいて、ありがとうございます。父に……伝えます」


 そう答えると、伯爵は頷いた。


「使節団への推薦も俺は取り下げる。訪問の約束を果たすことが条件だった。職人に詫びる約束も守れないまま、隣国の商人に会わせるわけにはいかない」


 セドリック様は、秋に隣国へ向かう使節団の随員候補になっていた。語学が得意で人当たりもいい。


 侯爵は息子の自立を喜んでいたし、私も、ようやく彼の努力が実ったのだと思っていた。推薦のお礼状も私が考えている。


 ケーキの切り口から蜂蜜が皿へ垂れた。

 伯爵が何か言いかけたが、それをやめて、残っていた菓子を口へ入れる。


「何か、仰りかけましたか……?」

「君の前で言うべきことではなかったと思って」

「……セドリック様の悪口ですか」


 彼は菓子を飲み込んだ。


「……聞きたいです」

「いや……君のお陰で首の皮一枚繋がっていたのに、どうにも愚かだと」


 ・

 

 お茶のあと、私は棚の陶器を見せてもらった。

 花瓶や燭台が並ぶ中に、ずんぐりした兎がいる。

 片方の耳が根元から折れていた。


「これは売り物ではない。俺が作ったものだ」


 伯爵が私の肩越しに説明する。


「実際にやれば、職人の苦労も少しは分かると思ったんだが。子供たちに犬だと揶揄われたよう」

「兎だと分かりますよ。残っている方の耳が、これだけ長いですから」


 余計なことを言ってしまったか。

 振り向くと、伯爵は折れた耳を見つめていた。


「こちらが無事なら、もっと良かったんだがな」


 それがあまりに悔しそうで、私は笑ってしまった。

 失礼だと分かっているのに、一度笑うと止めることができない。


「わ、笑うほどひどいか?」

「いえ、何度も見直していらっしゃるので。私が犬だと言ったわけではありませんよ」

「自分で作ったものは……こう、な。次は耳を別に作ってみようと思う」


 次も兎を作るらしい。

 少し考えてから、私は言った。


「私も、作ってみたいです」


 彼が兎から目を上げた。


「……隣の作業部屋に、粘土ならあるが」

「今……ですか?」

「工房主が王都へ来たとき、実演に使うんだ。釉薬を塗って焼くのは頼むことになるが、形を作るだけならすぐにでも」


 それから、あれよあれよと工程が進んでいき、私は借りた前掛けをして、教えてもらった通りに粘土をこねていた。

 

 伯爵は向かいで二匹目の兎を作り始めた。

 指が長く、大きな手だったが、小さな耳を扱うときは慎重になっている。


 私は簡単な皿を作るつもりだったのだけれど、縁を薄くするにつれて、片側がへたってきた。


「花びらの形にしてはどうだ?」

「そうします。丸いお皿にしたかったんですけどね」

「これはこれで味があるさ。ほら」


 伯爵は余った粘土を私の方へ押した。

 私はへたった部分を潰して、足して、伸ばす。

 出来上がる頃には最初の倍ほどの大きさになっていた。


 帰りの馬車へ乗る前、伯爵は焼き上がったら知らせると約束してくれた。


「そのときも、筆記箱はいらない」

「分かっております」

「すまない。仕事のようだと思われたくなくて」


 馬車の踏み台に置いた足が止まった。

 彼は私の手を支えたまま続ける。


「君をお茶に誘うだけで、こんなに考えるとは思わなかった」


 返事に困った。不思議と手は離してほしくなかったので、馬車へ上がるのにいつもより時間がかかった。


 婚約解消の条件を詰める話し合いは、その三日後、我が家で行われた。


 侯爵とその秘書、セドリック様。こちらは父と私である。

 私は何を聞かれても答えられるように、三年分の手紙の草案と、先方からの返事の写しを整理しておいた。


 セドリック様は、その綴りを見て少しだけ表情を和らげた。

 まだ、味方をしてもらえると思っているのだろうか。


「まず、私からお詫び申し上げたい」


 口を開いたのは侯爵だった。


「息子が、娘さんへ大変なことを言った。婚約の解消に異存はない。息子の側に原因があることも書面に残そう」

「父上!」


 椅子から腰を浮かせたセドリック様を侯爵が制した。


「座りなさい。お前の手紙は読んだ」


 秘書が一通の手紙を卓上へ置く。

 あの日、私の前へ寄せられたのと同じ、青い縁取りの便箋だった。


「本人の前でも、同じ説明ができるな」


 セドリック様が黙ったので、父が手紙を私へ寄せた。

 目を通して、私は、彼が一人でも十分に整った文章を書けることを知った。


 時候の挨拶。親への敬意。突然の報告に対するお詫び。

 その先に、私との結婚が難しくなった理由が続いていた。


『リゼットは私の交友関係へ過度に干渉し、私の知らないところで約束を取りつけます。オルデン伯爵との件でも、私は彼女の独断による要求に苦慮しております』


 私の名前を綺麗な字で書いている。


「……工房へ行くとお約束したのは、私の独断だったのですか?」

「君が先に話を進めたんだろう。僕が断れば、また先方の機嫌を損ねる。あれでは同意するしかないじゃないか」


 彼は父親へ顔を向けた。


「父上、僕にだって予定があります。皿の代金より高い修繕費も払った。それでもまだ足りないと、何度も何度も言われたんです」


 私は綴りから春の日付の草案を取り出した。

 工房へ伺うという一文は清書の前にも確かめた。

 候補の日を二つ伝え、彼に都合のいい方を選んでもらっている。


「こちらをご覧になって、ご自分で清書なさいました。訪問する日を決めたのはあなたです」

「……そのときは行けると思ったんだ」

「行ったと、私にお答えになりましたよね?」


 セドリック様の口が開かれるが、言葉は出てこない。


「いつまでも聞いてくるから……済んだと言えば、君も落ち着くと思って」


 父が腕を組み直した。侯爵は手紙を読んでいる。

 セドリック様は父親を見て、それから私へ顔を寄せ、声を低くした。


「今それを争って何になる。君が善意でやったことは分かっている。僕だって、君が全てにおいて悪いと言いたいわけじゃないんだ」


 私は草案を卓上へ戻した。

 書き直した跡が残っている。日付の脇には、訪問の際に確認することを小さく書き込んでいた。


 ベルトランさんは耳が遠いから、正面から話しかけること。

 工房の裏口は段差があること。


 そんなことまで彼へ教えようとしていた。


「セドリック様。あのお皿は、誰のものだったか覚えていらっしゃいますか?」

「オルデン伯爵の展示品だろう」


 返事は早かった。もういいと思った。

 何度話しても、彼が覚えているのは、怒らせると困る伯爵の名前だけだった。


「リゼット嬢、こちらにも非がある」


 侯爵が私へ頭を下げた。


「ここ数年、息子には自分で後始末をするよう言っていた。君には文章を見てもらっているだけだと聞かされてね……情けない。息子が自分で謝りに行けるようになったと、私は喜んでいた」


 侯爵は息子へ向き直った。


「オルデン伯爵から、推薦を取り下げるとの連絡が来た。私も使節団へ、お前を推すことはできない」

「ち、父上、それは困ります。もう出立の準備も——」

「お前は私にも工房へ行ったと報告した。欺いたんだ。その息子を、どうやって他国へ送り出せと言うんだ」


 彼は答えられなかった。

 私が書いた文章を読んで、彼を誠実な青年だと言ってくださる方はいた。

 

 褒められるたびに私は嬉しかった。いつか文章の通りに振る舞ってくれると期待もしていた。

 あの手紙を信じた方たちへ、これ以上、私から待ってくださいとは言えなかった。


「婚約解消の条件を、確認させていただこう」


 父が口を開くと、侯爵の秘書が書類を並べ始めた。

 返却する贈り物や費用について話が進む中、セドリック様だけが黙っていた。彼の前に置かれた紅茶は手つかずである。


 確認が終わり、私が退出しようとしたところで呼び止められた。


「リゼット。少しだけ……話せないか」


 父がこちらを見る。私は頷いた。

 父と侯爵は続き間で待ってくれることになった。

 扉は開いたままで、秘書もそこにいる。


 セドリック様は私へ歩み寄ると、ほとんど囁くように言った。


「伯爵へ、君からも手紙を書いてくれないか。僕の説明が悪かったことは認める。君の得意な書き方で、誤解を解いてほしいんだ」


 ——あぁ。謝るために、呼び止めたのではないのね。


「書きませんよ」

「どうしてそこまで意地になる。随員から外されれば、マルティナとの婚約にも響くんだ。あちらの父上も、僕の将来を買ってくださっていたんだ。君だって、そこまで望んではいないだろう?」


 この方が帰ったら何をしよう。

 父のお茶を入れ直そうか。

 それとも、読みかけの本を、今度こそ最後まで読むか。


「君の文章なら、きっと伯爵も——」

「私はもう、あなたのことで手紙を書きたくないんです」


 少しだけ声が震えてしまう。

 きっぱりと言えたらよかったのに。


 朝から何を聞かれても答えられるように準備していたくせに、こんな短い言葉も上手く言えなかった。


「誰に何を謝ればいいか、どうすれば許していただけるか。そんなことを考えているうちに、いつも、私の用事はなくなっていて。なのに、私とは仕事の話ばかりだったと、あなたが……」


 喉につかえて続きが出てこなかった。


「……寂しかったんだな」


 セドリック様は手を伸ばしてくる。

 私はそれに捕まらないように一歩下がった。


「そうです。寂しかったです。お茶を飲みに来てと言われて、楽しみにしていたのに、毎回のように便箋が置いてあって。私のことは何も聞いてくださらなくて」

「それは、これから——」

「あなたと結婚したら、ずっとそうなるんだと思いました」


 彼の手が下がった。

 私はセドリック様の隣を抜け、開いている扉へ向かった。

 父の姿が見える手前で立ち止まる。


「伯爵へ謝罪なさるのでしたら、ご自分のお言葉でなさってください。それから、ベルトランさんにも」


 私は、彼がその名前を覚えるまで待たなかった。


 ・


 侯爵家から婚約解消を知らせる正式な書状が届いた。


 約束の通り、セドリック様の申し出による解消で、私に落ち度はないと記されていた。私と父は内容を確認し、両家の署名が揃う。


 彼は使節団の候補から外れ、領地で侯爵の仕事を手伝うことになったという。

 

 マルティナ様との縁談も、あちらの伯爵家が一度白紙に戻した。

 父からそれを聞いたのは、夏の支度を始める頃だった。

 

 心配より先に、遠い領地から手紙を寄越すのだけはやめてほしいと思った。どうにかしてくれと。


 幸い、私のもとへ届いたのはオルデン伯爵の手紙だった。


『皿が焼き上がった。兎の耳も、今度は無事だ。届けに行きたい。君の顔も見たいので、都合のいい日を教えてほしい』


 追伸はなかった。

 私は返事の紙を出した。


 火曜も水曜も木曜も空いているけれど、全部書くと、ずっと待っていたように思われるだろうか。


 あの日から、まだ二週間しか経っていないのに。

 それなのに、返事を書く前から彼に会う日のことを考えている。

 迷った末に、いちばん早い火曜にした。


 ・


 伯爵から受け取った包みを開くと、私が作った皿が入っていた。

 綺麗な丸にはならなかったけれど、薄い緑の釉薬がかかって、私が指で押し広げた跡までくっきり焼き上がっている。


「本当に、お皿になっているんですね。ここ、私が何度も直したところです」


 少し厚くなった縁をなぞって見せると、彼が覗き込んで笑った。


 オルデン伯爵は笑うと目尻に細い皺が寄る。

 以前はその目を見て話すだけで精一杯で、こんなことにも気づかなかった。


「何を載せようかしら。あまり重いものは……」

「普通に使って大丈夫だと職人が言っていた」


 私は侍女に頼んで、焼き菓子を持ってきてもらった。

 その間に、伯爵の兎も見せてもらう。

 耳は二本とも立っているけれど、片方だけが随分と太い。


「丈夫そうですね」

「……君が帰ってから、もう少し細くし直したんだ。次に見せたとき、また笑われると思って。それでも、その太さになってしまったよ」


 私は再び笑ってしまった。

 彼は小さく文句を言いながら、自分でも兎を眺めて笑っている。


 丸い焼き菓子を皿へ並べていると、伯爵が懐から手紙を出した。

 封筒を見て私の指が止まる。


「ああ、仕事を頼むのではない。これは、君へ」


 差し出された便箋には、途中で消した跡があった。


『先日の茶会について、今後も同様の機会を——』


 その下も二行ほど消されているが、続きは短かった。


『もっと、君と一緒にいたい。俺との結婚を、考えてもらえないだろうか』


 読み終わっても、顔を上げられなかった。

 彼が息を吐くのが聞こえた。


「急すぎるのは分かっている。返事は、今日でなくていい」

「これ、ご自分で?」

「それは……俺が書くしかないだろう?」


 その通りだった。

 その通りだが、聞きたかった。


「綺麗な紙に、書き直そうとはなさらなかったんですか」

「したさ、三枚ほどな。だが、書き直すたびに失敗しているような気がして、結局一番最初に書いたものにしたんだ」


 求婚の言葉の下には、ルーファス・オルデンと名前が記されていた。


「……私、あなたからお茶に誘われたとき、本当に困ったんです」


 伯爵の顔から笑みが引く。


「何か怒られるのではないかと思って」

「怒る気なんて何もないさ」」


 私は手紙を畳んだ。封筒へ戻し、カップから離れた場所へ置く。 

 お茶をこぼして汚したくなかったからだ。


「火曜も水曜も、木曜も空いていたんです」

「……何の話だ?」

「お返事です。お皿を届けてくださるお手紙への。全部書いてよいものか、悩んでしまって」


 伯爵の視線が、私の顔へ向けられる。


「……結局、火曜にしました。いちばん早く、お会いできるので」


 伯爵は黙り込んでしまった。

 言葉を待っているうちに、私も困ってしまう。


「あの、ですから。お断りしているのではなくて」

「分かった……いや、すまない。ちゃんと聞かせてほしい」


 彼が手を伸ばし、途中で止めようとした。

 私はその手へ、自分の手を重ねる。


「私も、あなたと結婚したいです」


 握り返す力が強くて驚いた。

 顔を見ると、伯爵も目を丸くしている。


「……強く握りすぎた。すまない」

「いえ、こんなに強く握ってもらったことがなくて。嬉しいです」


 彼は笑い、私は空いた手で自分の皿を引き寄せた。

 焼き菓子を一つを取って、彼に渡した。


「次も火曜では、遅いでしょうか」


 尋ねると、彼はまだ繋いでいる手を見た。


「明日も、空いているんだろう?」

「はい」


 今度はすぐに答えられた。

 

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― 新着の感想 ―
セドリックは親に色々バレてこれから周囲にも化けの皮がバレるだろうから、新しい婚約どころか嫡子の座も危ないんじゃ。
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