7. 休日の喫茶店
予定通り急いで準備した俺たちは、一日で一番暑い時間であるにも関わらず少し肌寒くなった東京の街を歩き、目的地であるマスターの喫茶店へと着いた。
入り口の扉には「臨時休業」の札がかかっており、人気のない店先は休日らしい静けさに包まれている。
俺は扉が開いていないことを確認してから、扉をコン、コン、コン、と三度強めに叩く。
「……陽向君、雪お嬢ちゃん、いらっしゃい。そんなに強く叩かなくても、着いたと連絡してくれればいいのに」
扉越しに響いたノックに驚いたのか、マスターが苦笑いを浮かべながら扉を開けてくれた。
変わらぬ渋い声に、どこか安心する。
「いや、連絡は何度もしたんですよ。出発前と、到着五分前と、ついさっき。三回も」
俺はスマホをチラッと見せながら肩をすくめる。
雪も横でくすっと笑っている。
マスターは頭をかきながら、少しバツが悪そうに口を開いた。
「……そうだったか。まぁ、入って。時間まではまだあるし、軽食もちゃんと用意してある」
店内へと戻るマスターに軽く会釈しながら、「お邪魔します」と声を揃えて店内へ足を踏み入れる。
人の気配がない休日の喫茶店は、普段の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
照明は落とされ、窓から差し込む自然光が、木製のテーブルや棚を柔らかく照らしている。
営業日とは違うほんのりとコーヒー豆の香ばしい匂いが漂い、思わず肩の力が抜けた。
「何度かこういうのあったけど……やっぱり貸し切りって、贅沢な感じだね」
俺がそう呟くと、雪がうん、と小さく頷いた。
俺と雪は奥のカウンター席に腰を下ろし、マスターは慣れた手つきで軽食と飲み物の準備を始める。
何かを温める音や、カップを置く音が、静かな店内に優しく響いていた。
「雪お嬢ちゃんは、随分久しぶりだね。会うのは二度目、だったかな?」
マスターが手元のカップを拭きながら、穏やかな笑みを雪に向ける。
「そうですね。お久しぶりです、ミツハルさん」
雪も微笑みながら、きちんとした口調で返した。
表情も柔らかく、対応も丁寧――一見すると、とても落ち着いた大人の会話だ。
前回、雪とマスターが顔を合わせたのは、まだ夏の始まったばかりの頃。
予定していた俺とマスターのダンジョン攻略に、突如雪が「私も行きたい」と割って入り、結果的に3人で潜ることになったのだ。
それが初対面ではあったが、二度目ましてなお陰か、今日は二人とも自然体に見える――そう、思っていたのだが。
「雪お嬢ちゃんは、相変わらずアグレッシブだね。午前中も別のダンジョンに行ってたんだって?」
「ええ。ダンジョン攻略は……まあ、趣味でもありますから」
「そっか。で、本業のほうは?順調かい?」
「順調です。ありがとうございます。ミツハルさんのほうこそ……本業は、お変わりありませんか?」
(……テンポ、遅っ!)
二人とも一応は話しているが、言葉の合間に妙な“間”がある。
これは明らかに、お互いに相手の出方を探っている会話のリズムだ。
やっぱり、さっき「お互い自然体」なんて思ったのは撤回したい。
「待った待った。何ですか、その探り合う感じ!」
耐えきれず、つい二人の会話をさえぎってしまう。
二人はポカンと俺を見て、そして苦笑する。
「……話を変えますが、せっかくなので、今のうちに作戦を確認しておきましょう」
俺が静かに切り出すと、マスターと雪が表情を切り替えて頷く。
「俺のスタイルは変わっていないが……雪お嬢ちゃんはもちろん、陽向君とも久しぶりだからな。しっかりと擦り合わせておいた方がいい」
マスターは風属性のスキルを三つ獲得しており、中でも代表的なのが『風剣』――風を刃にまとわせて戦う、いわば魔法剣士タイプの技だ。
スピードと間合いを自在に操るその戦い方は、単独でも集団でも安定した力を発揮する。
本気でダンジョン攻略者として活動していれば、今頃は前線組に名を連ねていても不思議ではない。
事実、過去には「リーダーの座を譲ってでも加わってほしい」と熱心に勧誘していたパーティーを見たことがあるほどの実力者だ。
「俺の方も、スタイルに変更はありませんね。スキルは未だに取得してませんけど、前に一緒に潜ったときよりは……多少なりとも、強くなっていると思います」
「スキルを獲得していないのに、そこまで強いのは反則だよな」
マスターが呆れたように笑い、続けて視線を雪に移す。
「雪お嬢ちゃんは?」
「行き先によりますけど……私はお兄ちゃんとミツハルさんに合わせます」
さらりとそう言った雪だが、強者ならではの、その言葉に嘘はない。
とはいえ――
(実際のところ、雪が本気を出したら、俺やマスターの実力相応の魔物なんて数秒で片が付く。だからこそ、雪の“加減”は本当に助かる)
氷魔法を使う雪は、その威力も制御力も別格で、まさに“状況に応じて使い分ける”ことができる天才だ。
「そうだな。確かに行き先は重要だ。近接一、遠距離二の構成だから、スピード系の魔物は相性が悪い。それ以外なら対応は可能だが……」
マスターは腕を組み、少し考えてから口を開く。
「午前中に軽く体を動かしてるんだろ?それなら、思い切って“遺跡”に行ってみるのもいいかもしれない。陽向君、どう思う?」
マスターの言う“遺跡”とは、最近になって解放された新たな探索エリア――通称、遺跡型ダンジョンのことを指している。
「俺は構いません。……マスターが大丈夫なら、ですけど。体力とか、無理しないでくださいよ?」
「言うようになったな、陽向君。老けて見えるかもしれないが、これでもまだ三十代前半だ。そんなに心配しなくていい」
確かにマスターは年齢以上に落ち着いて見える。
渋いというか、ダンディーというか、正直頼れる“大人の男”の典型だ。
つい冗談を言った俺だが、マスターの提案した遺跡の攻略には、俺も同意だ。
遺跡型ダンジョン――それは、地上からの通常ダンジョンを抜けた先で、さらに発見された“ダンジョン内のダンジョン”である。
構造が複雑で、見た目も古代遺跡のような雰囲気が特徴だ。
最近攻略拠点から数キロ離れた場所で見つかった遺跡型ダンジョンは小規模ではあるが、日本だと九州に存在する通称ボスラッシュ型ダンジョンに類似したもの。
ボスラッシュ型はその名の通り、階層ごとに強力な魔物――いわゆる“ボス個体”が連続して現れる形式のダンジョンだ。
一つの階層には基本的にボス一体、あるいはそれの下位個体しか現れないが、その分一戦ごとの負荷が重い。
初心者お断りの厄介なタイプだが、報酬の質は高く、出現する魔物もある程度パターンが読めることから、上級者の中では非常に人気が高い。
そうこうしているうちに、俺と雪の前に、マスターお手製のサンドイッチとコーヒーが静かに置かれる。
「うわ、いい匂い……!」
雪が思わず身を乗り出し、目を輝かせる。
パンの焼き目はこんがりと香ばしく、断面からは色鮮やかな具材が顔を覗かせていた。
レタスの緑、ハムの赤、卵の黄色。
目にも楽しい色合いに、自然と食欲が刺激される。
「いただきます……!」
小さく手を合わせた雪は、勢いよくサンドイッチにかぶりつき、すぐさま目を見開いた。
「おいしい!」
その一言に、マスターがカウンター越しに小さく微笑むのが見えた。
俺も遅れて「いただきます」と呟き、右手でサンドイッチを手に取る。
口に運んだ瞬間、しっとりとしたパンの食感と共に、深みのある旨味が口いっぱいに広がった。
これは……ただのサンドイッチじゃない。
具材そのものも良質なのだろうが、何より決定的なのは――
「このソース、やっぱり……」
思わず呟いた言葉に、雪も頷く。
「ねっ?もうこのソースだけでもいいかも」
「さすがにそれはない……いや、あるかもしれない」
俺たちのやり取りに、マスターがくすっと笑った。
「企業秘密だが、聞かれれば一応は教えてるぞ。材料は選ぶが、再現できるかどうかは腕次第だな」
マスターの特製ソース――それはこの喫茶店の名物とも言える逸品で、料理目当てに通う客も多い。
作り方を尋ねる常連も多いらしいが、実際に再現できたという話は聞かない。
そんな抜群な味のサンドイッチを、俺たちは夢中で平らげた。
ものの数分で完食し、ほっと一息つく。
「はぁ……やっぱりミツハルさんの料理は別格だね」
雪が幸せそうにコーヒーを口に運びながら呟く。
俺も同意して静かに頷いた。
その後、空になった皿とカップを片付けてもらった俺たちは、時間になるまでの間、店の奥のテーブルで作戦と連携の確認を続けた。
――――――
当初の予定通り14時になったところで、俺たちは向かいにあるダンジョンビルへと向かった。
……と言っても、店の前にある横断歩道を渡るだけだが、それでもこれから始まる戦いに向けて、気持ちが少しだけ引き締まる。
建物に入ると、休日の昼過ぎということもあり、先日来たときよりも格段に人が多い。
内部にある飲食店はピークの時間帯を過ぎたはずだが、それでもどこもほぼ満席だ。
家族連れにカップル、軽装の攻略者らしき集団――この場所が日本最大級の攻略拠点であることを再確認させられる。
「相変わらず、ここは人が多いね」
「まぁ、都内じゃ一番人気の拠点だしな。なるべく離れないようにして進もうか」
「……別に襲撃されても、倒れてるのは相手側だと思うけど」
帽子を深くかぶり、マスクをつけた雪が、ややふてくされたような口調でそう言う。
有名人である雪は、マスターの勧めで簡易的な変装をしている。
とはいえ、その変装が本人の気に入るものであるはずもなく、肩越しにこちらをチラリと見てきた。
「仕方ないだろ。前回みたいに人だかりができたら、それこそ大ごとになる」
俺の言葉に、雪は何か言いたげに口を尖らせながらも、それ以上は何も言わなかった。
実際、前回来たときは、ダンジョン入口に着く前に何人かの目ざといファンに見つかり、握手やサインを求める人であっという間に周囲が騒がしくなった。
俺と雪だけでは収拾がつかず、マスターに警備員や職員を呼んでもらい、ようやく騒ぎを脱することができた――あれはもう、勘弁してほしい。
「雪お嬢ちゃんはオーラがあるからね」
苦笑交じりにマスターがフォローを入れると、雪は目を細めてマスターの横顔をじっと見た。
恐らく、心の中で「ミツハルさんだって目立ってるでしょ」と言いたいのだろう。
実際、ガタイが良くて背も高く、滅多にここに姿を見せないダンジョン前の有名喫茶店のマスターともなれば、挨拶程度とはいえ、声をかけられるのも無理はない。
ただ今回は無意識に存在感を放つマスターが視線を集めたお陰か、肝心の雪の正体には誰も気づいていないようだった。
そんなこんなで、余計な騒ぎを起こすことなく、俺たちは無事にダンジョンの入り口付近に到着した。
午前中とは違い、ここではダンジョンに入る際の手続きを機械が行う。
『いらっしゃいませ』
電子的な女性の声が淡々と響いた後、自分のカードを認証機に通す。
『承認いたしました。行ってらっしゃいませ』
それだけで手続きは完了する。
あまりにあっさりしていて「これでいいのか?」と思うこともあるが、今のところこのカードを使った不正行為の話は一度も聞いたことがない。
どうやらこのカードには、ダンジョン由来の技術が応用されているらしく、一般人やハッカー程度の技術では複製すら不可能だという。
(……いや、ほんとに金かかってるよなぁ)
この認証機も、開発元はここの拠点を運営している某ゲーム会社で、最近では他のダンジョンでもよく見かけるようになった。
一方で、ダンジョン協会が管轄する方は、機械の導入にまで予算が回っていないらしく、いまだに紙ベースの手続きをしている場所もあるという。
両隣を確認すると、雪とマスターも同じようにカードを通し、すでに手続きが完了していた。
「さ、行こうか」
小さく声をかけ、俺たちは連れ立ってダンジョンの入口へと歩き出す。
1分もかからない簡易的な手続きのあととは思えないほど、足取りには独特の緊張感が混じる。
薄暗い洞窟のような通路を進み、その奥で足元の魔法陣の淡い光に包まれる。
一瞬の目眩とともに、俺たちの服装は自動的にダンジョン用の装備へと変化する。
そこから先、視界は一気に開けた。
目の前には取引所へと続くメインストリート。
休日とあって多くの攻略者たちが集まり、装備を整えたり情報交換をしたりと、まさに賑わいの渦中である。
(……今日は一段と混んでるな)
平日は仕事や学業のある人にとって、まとまった時間を取れる休日こそが攻略チャンス。
それはつまり、休日のダンジョン内部が混雑することを意味する。
「ちょっと、取引所に寄ってかない?」
雪が小声でそう言った。
「ん?別にいいけど……何か用があるのか?」
そう尋ねても、雪はにやりと笑うだけで答えず、軽快な足取りで取引所へと向かっていく。
その姿を目にした周囲の攻略者たちが、何かに気づいたように道を譲り、あれほど人混みでごった返していた通りが、まるで魔法のようにスッと開ける。
ざわつく周囲。
俺とマスターは視線を感じながら、慌ててその後を追う。
「……あれ、やっぱバレてるよな?」
「まぁ、な。けど、お嬢ちゃんの機嫌がいいなら、今は黙っとくのが一番だろ」
そう呟いたマスターの背に、なんとも言えない頼もしさを感じつつ、俺たちはやや早足で雪の後を追いかけた。