4. 攻略準備
それから数日が経ち、金曜の夜を迎えた。
結局、雪が帰ってきたのはメッセージを送ってきた翌日の夕方。
制服姿のまま玄関を開けたときは、少し驚かされた。
どうやら任務帰りにそのまま高校へ向かい、授業を受けてきたらしい。
ダンジョン協会に所属していることで特例措置が取られており、出席日数が不足していてもテストさえ平均点を超えていれば問題ないそうだ。
それでも「通えるときは通っておきたい」と言って学校へ行くあたり、本当に真面目で優秀な妹だと、兄としては誇らしく思う。
そして、そんな彼女とは対照的に、俺はというと――。
その日以降、ダンジョンには行かず、大学の講義だけを受けて、ほとんどの時間をぼーっと過ごしていた。
一方の雪はというと、平日は毎日学校に行き、その後は協会本部で報告や打ち合わせ、さらには装備や戦果の整理などの雑務に追われていたらしい。
本来なら週末を含めてこなす量の仕事を、休みを確保するために一気に終わらせようとしていたのだ。
帰宅は毎晩遅く、晩飯は俺が用意した作り置きを温め、会話はそのときに軽く交わすくらい。
それでも朝起きたときにはすでに雪は着替えを済ませ、朝食まで準備してあって――。
(……なんだかな。俺は大学で座ってるだけなのに、雪は命懸けで戦って、それでも勉強まで欠かさない。本当に、尊敬するよ)
大丈夫かと尋ねても、「慣れてるから」と笑って流されるが、兄としてはやはり心配になる。
能力者には身体能力だけでなく体力も強化されると聞くが、それでも彼女はまだ高校生だ。
……と、そんな真面目な話をしていたのは昨日まで。
「お兄ちゃん、この格好はどうかな?」
ドアが開くたびに変わる服装。
目の前の雪は、黒のシャツに薄手のニットカーディガンを羽織り、下は動きやすそうなデニムスカートというラフな組み合わせ。
「うーん、良いと思うよ。」
「さっきからそればっかり!ちゃんと見て言ってよ!」
やるべきことをすべて終えた雪は、休日に備えて早めに寝る……かと思いきや、まさかの“プチファッションショー”を開催。
明日と明後日の私服を決めるべく、自室から何度も出入りを繰り返している。
気が付けば5コーデ目。
開始から30分以上が経過していた。
「分かった、分かったって!」
つい考え事をしながら返事をしてしまった俺に、雪が眉をひそめて不満げに睨む。
俺は、慌てて彼女のコーデをしっかりと見直した。
「うん、似合ってるよ。」
「それだけ!?もっと他に言うことないの?たとえば“秋っぽくて良い”とか、“スカートの丈が動きやすそう”とか!」
不満が頂点に達したようで、雪が手を腰に当てて詰め寄ってくる。
(……無理があるだろ、それは)
元がいいせいで、基本どんな服でも着こなしてしまう雪。
評論家でもない俺から出てくる感想なんて「似合ってる」「良い」「可愛い」程度だってことは分かってほしい。
「また屁理屈考えてるでしょ。それ、お兄ちゃんの悪い癖だよ?」
「……そもそもだ。兄と出かけるのに、そんなに気合い入れた服って必要か?しかもダンジョンに入ったら、どうせ装備に切り替わるんだぞ?デートでもあるまいし」
俺の“正論っぽい言い訳”に、雪が一瞬固まる。
目を瞬かせたあと、呆れたようにため息をついた。
「だからダメなんだよ、お兄ちゃんは。誰が見てるか分からないんだからね?常に恥ずかしくない格好をしておくのが基本なの」
指を立てながら力説する雪の言葉には、確かに一理ある。
「また上下ジャージとかだったら、今度こそ許さないからね?」
「……ぐっ」
それは触れてほしくない過去だ。
初めて一緒にダンジョンへ向かった日の朝、普段のランニングに使っていた上下ジャージ姿で登場し、無言で着替えを命じられた苦い思い出が蘇る。
「それは封印済みだ。この1年半で大学生なりのコーディネートは心得たつもりだし、大船に――」
「白のTシャツにジーパンはアウトだからね!」
「……はい」
刺さった。思いっきり刺さった。
まさに今着ようとしていた服が、その組み合わせだった。
(まさか読まれてる……?)
どうやら雪のファッションショーが終わったら、俺も自分のタンスをひっくり返す羽目になりそうだ。
そんなことがあって、翌朝。
マスターとのダンジョン攻略の約束は昼からだが、「せっかくだから午前中も行きたい」という雪の希望で、早めに家を出ることになった。
すでに二人とも出かける服装に着替えを終えて、靴を履く前の玄関で並んで立つ。
雪の視線が、俺の服装をじっ……と見つめる。
(……緊張するな)
シャツの袖を少し気にしながら姿勢を正す俺に、雪がひとこと。
「……まぁ、合格かな?」
その言葉を聞いた瞬間、思わず小さく息をついた。
「……それは良かった」
自然と口元がゆるむ。
昨夜、タンスを引っかきまわしながら何度も鏡の前に立った苦労が報われた瞬間だった。
雪は口調こそぶっきらぼうだが、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいて、たぶん機嫌は悪くない。
そのままドアを開けて、一緒に家を出る。
これから向かうダンジョンの入口は、大学最寄りの拠点とは真逆の方向にある。
ダンジョン協会が直接管理している入口で、必要最低限の設備だけが整えられた、よく言えば“実務寄り”の拠点と繋がっている。
一日中ずっと同じ場所だとつまらないということで、今朝の朝食中に雪と相談して行き先を決めたのだ。
家の近くには複数のダンジョン入口があり、難易度も種類もさまざまだ。
これこそが、このエリアに住んでいることの一番の利点といっても過言ではない。
ここで、ダンジョンについて説明を。
世界中に現れたダンジョンには、大きく分けて三つのタイプが存在する。
その中でも、関東エリアに見られるのが「フィールド型ダンジョン」と呼ばれるものだ。
名の通り、洞窟の奥を進んでいくと――その先には、まるで異世界のような広大なフィールドが広がっている。
地上と同じように木々が生い茂り、空には雲が流れ、太陽が地面を照らしている。その光景は、もはや“地下”という言葉とは無縁だ。
不思議なのは、その感覚だ。
洞窟の中を抜けるとき、視界が一瞬だけゆらぎ、空間が反転するような錯覚に陥る。
まるで別の世界にワープしたかのような――そんな感覚に包まれるのだ。
このフィールド型ダンジョンは、世界でもたった三ヶ所しか確認されていない希少なタイプ。
そのため、国内だけでなく近隣諸国からも多くのダンジョン攻略者が集まってくる。
ちなみに、どのダンジョンにも共通するのは、入口が“地下への入り口”に見えて実際には異空間へのゲートであるということ。
関東に点在する複数の洞窟は、表面上は離れていても、その先でつながっている“ひとつの巨大な世界”を共有している。
ただし、内部の地形は現実の地上とは異なり、実際よりも何倍にも広がった縮尺になっている。
俺たちがこれから向かうのは、そのフィールド型ダンジョンの中でも、協会が直接管理している拠点だ。
大学の最寄り拠点よりは規模が小さいものの、装備の販売や修理、簡単な休憩施設などは一通り揃っている。
この拠点の周辺には、どの方角にもスライムが多く出現する。
スライムは、ゴブリンと並んで最弱クラスの魔物とされているが、単純に“弱い”だけではない。
物理攻撃に対する耐性が高く、倒して得られる報酬も少ない。
そのくせ、妙にしぶとくて、場合によっては“はぐれ上位種”が現れることもある。
初心者向けとされているが、実際は油断できないエリアなのだ。
一方、午後から向かう予定になっているのは、ゲーム会社が運営している人気の拠点。
そこではスライムやゴブリンといった初級者向けの魔物から、オークや魔狼のような中級者以上向けの強敵まで、様々な難易度のエリアが広がっている。
まるで“ダンジョン版テーマパーク”とでも言うべき場所で、攻略者の目的や実力に応じて柔軟に選べるのが魅力だ。
人が多く、情報も集まりやすいため、攻略情報が充実しているのも魅力だ。
(楽しみではあるが……緊張するな)
基本ソロで行動する俺と相性が悪いスライムが出現することもあって、行くのは久しぶり。
俺と雪は並んで歩き、自然と会話は“作戦確認モード”に移っていく。
「私も、あそこの拠点に行くのは久しぶりだなぁ。お兄ちゃんも、確か間が空いてるんでしょ?」
「そうだな。だからこそ、作戦はしっかり確認しておきたい。油断はできないからな」
どれだけ強く、信頼できる相手と組んでいても、ダンジョンに絶対は存在しない。
命のやり取りが発生する場所では、事前の連携確認こそが最大の保険になる。
雪が隣で軽くうなずいた。
「うん。何があるか分からないからね。お兄ちゃんとは久しぶりだし、ちゃんとすり合わせしよ」
少し前までファッションチェックで笑い合っていた空気が、今では一転。
まるでスイッチが切り替わったように、雪の目にも“戦う者”の色が宿っている。
「今から行く場所は、スライムが中心になるよ。拠点の近くは上位種もあまり出ないはずだけど……油断は禁物だね」
歩きながら、雪が落ち着いた声で告げる。
「あぁ。作戦はいつも通りでいいか? 雪が壁を作ってくれるか、足止めしてくれてる間に、俺が仕留める」
「うん、それで問題ないと思う。あの場所は、一度に出てくる魔物の数が多いからね。囲まれないようにだけ注意して」
雪の言葉には、能力者ならではの重みがある。
スライムは個々の脅威こそ小さいが、油断すると数で押される。
「前に行ったときは、横からいきなり現れたスライムに飛び上がったんだっけ……」
「ふふ、そうだったっけ?スライムは音もなく寄ってくるし、気配で判断しにくいからね」
雪がクスッと小さく笑う。
そんなやり取りすら、なんだか心地よい。
頼れる妹の隣で、俺は改めて気を引き締める。
「そういえば、スキルはもう決めた? それとも……まさか、もう獲得してたりして!」
横を歩く雪が、軽く顔を覗き込んでくる。
「いや、まだ決めてないよ」
俺がそう答えると、雪は「やっぱりね」とでも言いたげに苦笑した。
雪が言っている“スキル”とは、ダンジョン内で出現する宝箱から稀に手に入る“スキル本”を読むことで身につく特殊能力のことだ。
宝箱からの出現率はそこまで低くなく、買うにしても市場価格は手頃。
だから多くの攻略者は、攻略をスムーズに進めるために、早い段階でひとつはスキルを獲得する。
ただし――。
スキルは最大で5つまでしか持つことができず、しかも一度覚えたスキルは、後から入れ替えることができない。
その“取り返しのつかなさ”があるせいで、優柔不断な俺は、いまだにひとつも選べずにいた。
「まあ、焦る必要はないと思うけどね。お兄ちゃんは、今のままでも十分強いし」
さらっと雪が言ってくれたその一言に、少しだけ救われる気がした。
実際、ダンジョン攻略に本気で取り組んでいる大学のサークル内でも、俺はトップクラスの戦力だった。
「雪は、おすすめのスキルとかあるか?」
「うーん……前も話したけど、やっぱり一概には言えないんだよね。魔法系スキルは火力も高くて人気だけど、お兄ちゃんは剣で前線に出るタイプだし、相性は微妙かな。そう考えると、身体強化系とか防御系のスキルの方が合ってるとは思うよ」
さすがはダンジョン協会所属の能力者。
俺の戦い方をよく分かった上で、慎重に言葉を選んでくれている。
「でも、これからもソロで行くつもりなら、遠距離攻撃の手段も一つは持っておいた方がいいかも。敵との距離が取れないと、どうしてもジリ貧になるからね」
たしかにその通りだ。
スキルの種類も豊富で、それぞれに得意・不得意がある分、選択の幅が広すぎるのだ。
剣を選んで戦い始めた時点で、ある程度道筋は定まっていたはずだが、ソロでの行動が多くなったことが問題をややこしくしている。
(分かってはいるんだけどな……)
スキルは、戦い方だけでなく“命のかかり方”すら左右する。
だからこそ、慎重にならざるを得ないのも事実なのだ。
「……必要になったら、獲得することにするよ」
俺がぽつりとそう言うと、雪はふっと笑って頷いた。
「うん、いいと思う。無理に急ぐものじゃないし。でも――本当に必要になる前に、ちょっとずつ候補くらいは絞っておこうね?」
「耳が痛いな……」
雪のさりげない気遣いに苦笑しながらも、少しだけ気が楽になった気がした。
そんな話をしているうちに、目的地が視界に入ってきた。
ごつごつとした岩肌がむき出しになった、自然のままの洞窟口――それが、ダンジョン協会が管理する入口だ。
商業施設を伴った企業のダンジョン入口とは違い、商業要素も装飾も一切なく、実戦を想定した“現場”という空気が濃く漂っている。
休日にもかかわらず、周囲にはほとんど人の姿がない。
静まり返ったその場に、俺たちの足音だけが響いている。
入口の管理ブースには、協会職員らしき女性が一人。
制服の襟元を正しながら、モニターに視線を落としていた彼女が、俺たちに気づいた瞬間、顔をぱっと上げる。
「ゆ、雪様!? 本日はお越しになる予定ではなかったかと……!」
目を丸くして、やや慌てたように声を上げる受付のお姉さん。
ダンジョン協会所属で、名の知られた能力者である雪が、突如として現れたのだから無理もない。
だが、雪は涼しい顔で応じた。
「今日はプライベートだから。気にせず、通常の手続きをお願い」
一瞬の間を置いて、受付のお姉さんの表情が切り替わる。
さすがはプロ、すぐに業務モードに戻った。
「かしこまりました。お二方のカードをお預かりします」
淡々と、そして丁寧に俺と雪のカードを受け取り、機器に通していく。
端末の電子音が軽快に鳴る中で、彼女が再び顔を上げた。
「入場処理、確認完了しました。本日のダンジョンには異常報告はありません。安全第一で、ご健闘をお祈りします。いってらっしゃいませ!」
「ありがとうございます」
俺は自然と背筋を伸ばし、受け取ったカードを胸にしまいながら、軽く頭を下げる。
そんな俺の様子を見た雪が、ぽつりとつぶやく。
「……デレデレしてる」
「してないって!」
即座に否定するが、少しギクッとしたのは確か。
もしかしたら、ちょっとだけ背筋を伸ばして見せたかもしれない。
だが、それは礼儀正しい大人として、だ。
断じて格好つけたわけではない。
(……いや、してないよな? してないってことで……)
雪の視線が刺さる中、俺は咳払いで誤魔化す。
――さぁ、いよいよだ。
久しぶりの、妹とのダンジョン攻略が始まる。