22. 対面
時間もなかったため、俺と雪は信号が青に変わるのを見て、足早に横断歩道を渡る。
マスターの喫茶店が入っているのは、十階以上あるオフィスビルだ。
そのフロアごとに入っているテナントはバラバラで、中にはダンジョン関連の事業を手がける会社の名前も見かけた覚えがある。
だからこそ、今回の目的地もそのどれかだろうと俺は勝手に見当をつけていた。
普段は使わないビル正面の入り口へ向かおうと歩を進めたその時――
「お兄ちゃん、こっちだよ?」
俺の背中に、雪の声が投げかけられる。
振り返ると、雪は不思議そうな顔で、ビルの横側にあるいつもの喫茶店の扉を指さしていた。
何度もくぐったことのある、あの扉だ。
(……まさか、とは思ってたけど。)
胸の奥に微かな予感はあった。
けれど、信じたくなかったのかもしれない。
喫茶店を始めた経緯から、マスター自身の過去の話、スキルのことまで──あれこれと聞かされてきたけれど、それでも俺の中で、マスターはあくまで「喫茶店のマスター」であって、それ以上ではなかった。
だが今、目の前の現実がその認識をひっくり返そうとしている。
混乱する俺には気にも留めず、雪は迷いなく、ノックもせずに喫茶店のドアを開けると、そのまま中へと入っていった。
俺も少し遅れて扉をくぐると、店内にいたのはマスター、ただ一人だった。
「お、雪お嬢ちゃんに陽向君。いらっしゃい。今日は時間ぴったりだね」
「ミツハルさん、この前ぶりです。他の方もいらしてますか?」
「あぁ、来てるとも。雪お嬢ちゃんと顔合わせるってことで、皆ちょっと緊張してるみたいだがね」
そのやり取りを聞いた瞬間、俺の中で確信に変わる。
マスターは、ただの待ち合わせの場所を提供しただけじゃない。――本人も、その相手の一人だったのだ。
頭の中が、少し混乱していた。
「……マスター、マスターも能力者だったんですか?」
思わず口をついて出たのは、疑念ではなく、ただの確認。
それに対してマスターは、わずかに目を伏せたあと、静かにうなずいた。
「……あぁ、そうだ。今まで言えずに、すまなかったな」
そう言って胸ポケットから取り出したのは、昨日俺が受け取ったものと同じ、黒いカード。
能力者専用の登録証だ。
「なら、なんで……」
その先の言葉がうまく続かない。
喫茶店のマスターと客というだけだった関係が、いつの間にか日常の一部になっていた。
雑談の中に人生の話が混ざり、ダンジョンに同行してくれたあの日からは、友人のような信頼すら芽生え始めていた。
(……能力者であることすら、知らされてなかったんだ)
たとえ能力の詳細までは話せないにしても。
少なくとも、“能力者である”という事実だけは……知っていたかった。
「だからお兄ちゃんには言っといたほうがいいって、私、前に言ったんだけどね?」
雪が、少し呆れたような目で俺を見る。
当然のように、雪はマスターの正体を知っていたのだろう。
この間、ダンジョン攻略に行った際の会話に不自然な間があったことを思い出す。
マスターと雪が何かを隠しているように感じたあの違和感は、ここに繋がっていたのかもしれない。
「……雪お嬢ちゃんには話していたことだけど、陽向君にも今は分かってもらいたいんだ」
マスターは俺の目をまっすぐに見て言った。
その表情には、悔しさと申し訳なさ、そして覚悟が滲んでいた。
「決して、陽向君にだけは話したくなかったとか、そういうことじゃないんだ。これは、契約上の問題なんだよ。能力者関連のことは、同じ能力者以外には一切口外してはいけない――そういう守秘義務があってね」
言葉は静かだが、思いはひしひしと伝わってくる。
信頼しているからこそ、話せなかった。
そんな矛盾を背負った表情だった。
「陽向君。他の人との話が終わったら、君には全部話そうと思ってる。隠してたことも、俺自身のことも、全部」
「……分かりました」
正直、ショックはあった。
けれど、マスターがそれを望んでいたわけじゃないことも、事情があったことも、今の表情だけで十分に伝わっていた。
「正直、まだ整理はついてません。でも、マスターが俺のことを裏切ろうとしてたわけじゃないって……それは分かります」
俺が信じていたのは、能力者かどうかなんかじゃない。
この喫茶店で、誰よりも俺を見守ってくれた“人”としてのマスターだ。
だから、そんな簡単に、信頼が崩れるわけじゃない。
「……ところで、他の方はどこに?」
ひとまず気持ちを切り替え、俺はマスターに本来の目的を確認する。
夜の23時。
閉店後のこの時間帯に喫茶店に足を踏み入れるのは、当然初めてだった。
店内は照明が落とされ、普段よりも静かで、どこか緊張感の漂う雰囲気。
けれど空気に混ざる香りは、やはりいつもの――料理とコーヒーが染みついた、温かい匂いだった。
だが目に見える範囲には、俺と雪、そしてマスターの三人しかいない。
まるで時間が止まったかのような空間に、少し戸惑いを覚えながらも周囲を見渡していると――
マスターは何も言わず、ゆっくりと店の奥へ歩き出した。
俺と雪も無言のまま、彼のあとをついていく。
「ここだ」
マスターが立ち止まった先には、これまで一度も開かれるのを見たことのない、重厚な扉。
金属の装飾が施され、まるでRPGのボスルームの入り口のように厳かで、異様に存在感がある。
正直、今までは「ただの飾りじゃないか」と思っていた。
マスターは振り返り、静かに言う。
「どうぞ、入ってくれ」
扉がきぃ、と重い音を立てて開かれる。
胸の奥に押し寄せてくる緊張感を誤魔化すように、俺は深く息を吸ってから、その中へと足を踏み入れた。
「お、来た来たー!」
「ようやくか。待っていたよ」
飛び込んできたのは、明るく弾む女性の声と、落ち着いたトーンの男性の声。
部屋の広さはざっと二十畳ほど。
手前には会議テーブルと椅子が並べられ、奥にはモニターとソファが設置された談話スペースらしき空間がある。
まるで裏の作戦会議室のような、ただの喫茶店とはまるで別物の空間だった。
そしてその部屋の中には、三人の人物がいた。
一人は、明るいブロンドの髪と派手なファッションが目を引く、モデルのような女性。
もう一人は、短く整えた赤髪が印象的な、落ち着いた雰囲気の男性。
そして最後に――見慣れた姿があった。
「……セ、セイラさん!?セイラさんも能力者だったんですか?」
驚きで思わず声が上ずる。
だが、セイラさんは苦笑しながら首を振った。
「こんばんは、陽向くん。驚かせちゃってごめんね。でも私は能力者じゃないわ。ここのサポートをしているだけよ。詳しい話は、これからちゃんと説明するから安心して」
セイラさんが能力者でなかったと知って、内心ホッとする。
だが、受付に立っていたあの彼女がこんな場所と繋がっているというのは、まだ飲み込めていなかった。
「セイラ、堅い話はあとにして、まずは自己紹介からにしましょ!」
ブロンドの女性が明るく声を張り上げる。
「私はミサキ。見た目通り、母がイギリス人でハーフなの!この髪、染めてないからね!」
「そして僕がこの組織のリーダー、カケル。赤い髪は火属性の能力に合わせてるだけだから、地毛じゃないよ。今日は他にも二人メンバーがいるんだけど、眠そうだったから帰らせた。申し訳ないけど、陽向くんにはまた明日顔を合わせてもらえると助かる」
ミサキさんはモデルのようにスタイルが良く、そのテンションの高さが場を一気に明るくしてくれるタイプだ。
一方、カケルさんはその髪色とは対照的に、落ち着いた声と確かな物腰で、まさに“信頼されるリーダー”という雰囲気をまとっていた。
歳は二人とも二十代後半くらいだろうか。
「それで――陽向くん。君はこの組織に、テストプレイヤーとして一時加入してくれるということでいいのかな?」
「はい、それで大丈夫です。まだ能力を使いこなせるか不安ですが……よろしくお願いします」
「良かった。こちらこそよろしく頼む。ミツハルさんのお墨付きなんだ。きっとすぐ馴染めると思うけど、何か困ったことがあればいつでも相談してくれて構わないよ」
そう言ってカケルさんがやわらかく微笑み、ミサキさんが俺の右手を勢いよく握って、元気よくブンブンと振る。
……少し驚いたけど、歓迎されているのは間違いない。
第一印象はもちろん、悪くない。
「さて、どこから話そうか。……雪さん、陽向くんはこの組織のこと、どれくらい知ってる?」
カケルさんが問いかけると、隣の雪が軽く肩をすくめて答えた。
「ほとんど何も。知ってるのは、能力者になったらどこかの組織に所属しないといけないってことくらいかな」
「なるほど。じゃあ、まずはこの組織の説明から始めようか」
カケルさんは椅子に腰をかけ、テーブルの上に置かれた資料のようなものを軽く手で押さえると、俺の方へ向き直った。
「陽向くんが仮加入することになるのは、通称『ダンジョンゲーマーズ』。この組織は、ダンジョン周辺の拠点を支援しているゲーム会社と連携して活動している。主な目的は、ダンジョンの安定化と周辺エリアの解放だ」
簡単にと言いつつも、説明は長く続きそうだった。
俺は頭の中で要点を整理しながら聞くことにする。
これまでにもした話だが、ダンジョンには「運営元」が存在する。
ダンジョン協会が直接管理しているものもあれば、企業や個人が独自に運営しているケースもある。
そして、どんなダンジョンであれ、“魔物の間引き”という作業は欠かせない。
魔物が一定数以上増えすぎると、ダンジョンと地上を繋ぐ洞窟を通じて、魔物が地上に溢れ出す――いわゆる“氾濫”が起きる可能性がある。
特に、長期間放置された上位種の魔物は、力を蓄えたまま一気に地上に現れる危険があるらしい。
そうなる前に、定期的に魔物を狩ることが能力者の大きな役割のひとつなのだ。
協会が管理するダンジョンでは、専属の能力者たちがその役割を担っている。
だが、それ以外の民間運営のダンジョンでは――。
「そこで必要になるのが、フリーの能力者ってわけだ」
カケルさんが言葉を継いだ。
「たとえば、陽向くんのホーム拠点であるここ。ここはゲーム会社が運営していて、俺たち『ダンジョンゲーマーズ』が攻略を担当してる。こんな風にフリーの能力者を集めてパーティーを組み、ダンジョンの調査・攻略・間引き作業までを請け負ってるんだ」
需要が多く、能力者の数が不足している今、それなりの報酬や契約金も支払われているという。
なるほど、これが“仕事”として成り立っている理由か。
「ちなみに、最近までやっていた長期攻略では、遺跡型ダンジョンの第二十階層の攻略に挑んでたんだけど――ボス戦で、あと一歩というところで撤退することになってね」
そう言って、カケルさんがわずかに肩をすくめた。
悔しさが滲んでいる。
「……つまり陽向くんが正式に加入したら、この『ダンジョンゲーマーズ』の一員として、俺たちと一緒に間引き作業をこなしながら、階層攻略にも関わることになる。で、次回の二十階層の再攻略、そこにも参加してもらうつもりだ。実際の攻略は少し先になると思うけど……明日からは、テストプレイヤーとしての動き方や連携を確認させてもらうよ」
次々と明かされていく、未知の世界の話。
これまで見えていなかった裏側が、急に目の前に現れたような感覚。
けれど不思議と怖くはなかった。
むしろ、燃えていた。
(……魔物は、待ってくれない)
俺はもう、普通の大学生じゃない。
能力者として目覚めた以上、この世界で立ち止まる時間なんて、きっと残されていない。




