21. 能力の課題
【10月第4週火曜――家】
次の日。
特に予定がなかったこともあり、俺と雪はそれぞれ大学と高校へ向かい、何事もなかったかのように、今まで通りの日常を過ごした――少なくとも表面上は。
昼休み、俺は大学の事務室に呼び出され、事務員からこれからの大学での扱いについて説明を受けた。
能力者として正式に認定されたことで、俺にも特別措置が適用されるらしい。
講義は可能なときに出席すればよく、出席が足りない分はレポートの提出で補えるとのことだった。
単位の取得には柔軟な対応をしてくれるそうだ。
ありがたい話ではある。
だが、それ以上に、何とも言えない虚しさが胸に残った。
これまで真面目に通い、興味のある講義ばかりを選んでいた分、この先、今までのように学業に打ち込めなくなることに一抹の寂しさを感じる。
……だが、それも仕方のないことなのだ。
能力者として力を使い、社会に貢献することは義務であり、ある意味では運命だ。
俺がそれを拒むことは許されない。
そんな気持ちを抱えつつ、午後の講義に向かう途中、耳に入ってきたのはダンジョン攻略サークルの異変だった。
「最近10人くらい一気に来なくなったらしいよ」
「事故?いや、そこまで騒ぎにはなってないし……」
学生たちの会話から、確実に何かが起きたことは周知されているようだった。
あのサークルには30人ほどが所属していた。
彼らがどうしてあの日、ダンジョンに向かうことになったのか――それなりの事情を知っている者も、きっといるだろう。
それでも、死者が出たという確かな情報はどこからも聞こえてこない。
噂に尾ひれがついて広がるこの大学内で、あまりに不自然な静けさだ。
明らかに、情報が意図的に抑え込まれている。
単なるサークル内の暴走や計画なら、ここまで厳重な統制は行われなかったはずだ。
だが、既に外部の何者か――第三者の関与が疑われている以上、慎重にならざるを得ない。
騒ぎ立てることが、かえって火種をまくことにもなりかねないのだ。
……だからこそ、俺も情報統制には賛成だった。
もちろん、建前としては大学の混乱を避けるため。
けれど、本音を言えば――自分がその事件に深く関わっている以上、目立ちたくなかった。
ただ、それだけだ。
さて、時刻はすでに19時を回っていた。
雪も帰宅していて、今は二人でキッチンに立ち、夕食の準備中だ。
「任務もないし、最近ダンジョンにもあんまり行ってないから、太っちゃいそう……」
「俺も同じだな。予定も理由もないのにまっすぐ家に帰ってきたのなんて、ほんと久しぶりだ」
作りかけの料理を一口ずつつまみ食いしながら、他愛のない会話を交わす。
講義が終わった時間を考えれば、そのままダンジョンに向かうことも十分できたはずだ。
だが、能力者としての自覚が芽生え始めた今、何となくソロで行くことにためらいがあった。
雪に聞いてみたところ、基本的に能力者の行動には制限はなく、ソロ攻略も問題ないとのことだったが――。
まだ自分の力がどこまで通用するのか分からない段階では、やはり誰かと一緒に動いた方が安全だろう。
何より、俺自身の実感として、戦闘経験もまだ浅いのだ。
「雪、次にダンジョン行けそうなのって、いつになりそうだ?」
「任務が入るまでは、夕方以降ならいつでも大丈夫だよ。お兄ちゃんさえよければ、今日の夜、23時まで潜っててもいいかもね」
「お、いいな。それなら夕飯食べて、少し休憩したら行こうか。……って、なんで23時なんだ?」
俺が提案すると、雪の顔にふっと複雑な表情が浮かんだ。
嬉しそうでも、乗り気でもなく、むしろ“しまった”とでも言いたげな、そんな表情。
「……言ってなかったっけ?今日の23時から、お兄ちゃんが所属するかもしれない組織の人たちとの顔合わせがあるんだよね」
「……えっ?聞いてないぞ。いや、詳しく話してくれ!」
言葉を詰まらせつつも、早口で問いただす俺に、雪は申し訳なさそうに視線を逸らしながら説明を始めた。
要するにこういうことだ。
俺が入院していた時から、雪は俺を協会の専属能力者にはさせたくないと強く思っていた。
だから、彼女が一番信頼できる組織に、俺のことを打診していたのだという。
その結果、雪の信用のおかげか、俺を「テストメンバー」として受け入れる方向で話が進んでいた。
本来ならもっと早く顔合わせがあったらしいのだが、主要メンバーが休養中だったため、今日にずれ込んだらしい。
俺自身、組織選びについては「詳しくないから任せる」と言っていた手前、雪に一任していたし、その点に不満はない。
――だが。
「……先週末に予定が決まってたなら、せめて一言、教えてくれれば心の準備ぐらいはできたのに……」
そう小さく漏らすと、雪は肩をすくめて困ったように笑った。
「うん、ごめん。完全に伝えそびれてた。あ、待ち合わせ場所は、お兄ちゃんのホーム拠点の近くだから。移動は楽だよ」
「……なるほど、なら助かる」
言葉にすると、自然と気持ちも落ち着いてきた。
申し訳なさそうにしている雪に、俺は軽く微笑みながら声をかけた。
「まぁ、全部任せるって言ったのは俺だしな。色々ありがとう、雪」
それに応じて、雪も少し安心したように小さくうなずいた。
(ホーム拠点、か……)
ある意味では、トラウマになってもおかしくない出来事が起きた場所。
けれど今は――。
“あそこが、俺の能力が覚醒した場所”という意識の方が強く、不思議と嫌な感情は湧いてこなかった。
――――――
三時間後。
俺たちが足を踏み入れているのは、攻略拠点からほど近い「ゴブリンエリア」だ。
昨日と同じく、俺が実戦で能力を試し、雪がその様子を見守る形で、着実にゴブリンたちを倒していく。
コンッ——
右手の前に展開した壁に、ゴブリンアーチャーの矢が当たり、小気味よい音を立てた。
今、俺は右手に壁、左手に剣という、昨日と同じスタイルで戦っている。
弓を使う魔物との戦闘は初めてだが、思った以上に戦いやすい。
能力を覚醒したことで、動体視力が強化されているのだろう。
矢の軌道が以前よりもはっきり見え、防御のタイミングもつかみやすい。
俺は一歩ずつ、矢を壁で受け止めながら距離を詰めていった。
焦ったゴブリンアーチャーは、矢を次々とつがえ、乱射してくる。
だがその手元の動きも、今の俺にははっきりと見える。
壁が盾のように前方を守り、俺は揺るがぬ足取りでさらに接近する。
間合いに入った瞬間、俺は右手を軽く振りかぶって——壁を前方へ押し出した。
半透明の壁が、ゴブリンアーチャーの体に直撃する。
ズンッ!
予想以上の衝撃だったのか、分厚い体をぐらつかせ、ゴブリンアーチャーはよろめいた。
さすがに上位個体だけあって一撃で倒れることはなかったが、明らかに大きなダメージを受けている。
「いい感じだよっ!」
雪が小さく手を振って声をかけてくる。
彼女はすでに自分の担当のゴブリンを片付け、今は完全に俺のサポートに回っているのだ。
(今だ、決める!)
俺は壁をゴブリンアーチャーの弓の前に固定し、射撃手段を封じる。
その隙を逃さず、左手の剣を突き出す。
慣れない左手では複雑な動きは難しいが、突きなら問題ない。
剣先が、アーチャーの喉元に深く食い込んだ。
「やったね、お兄ちゃん」
消えかけていくゴブリンアーチャーの残滓を見送りながら、雪が静かに微笑んだ。
俺も肩の力を抜きながら答える。
「遠距離相手の方が、案外戦いやすいかもな」
「うん。今の戦い方を見てると、範囲攻撃がなければかなり安定してる気がする」
——確かに、以前の俺は盾なしの近接スタイルだったから、遠距離攻撃には苦労していた。
でも今は違う。
壁を展開していれば、矢を受けることは怖くない。
むしろ相手との距離が遠ければ、それだけ準備がしやすい。
だが同時に、戦いながら理解したこともある。
この能力には、相性の悪い敵も確実に存在するということ。
特に、広範囲に魔法をばら撒いてくるような魔物が相手だと、壁ではすべてを防ぎきれないだろう。
そのときは、覚醒前と同じように攻撃範囲の外へ回避する——的を絞らせないよう走り回りながら、隙をうかがうしかない。
そうなれば当然、反発の吸収や反撃のタイミングも難しくなり、与えられるダメージも減ってしまうはずだ。
(……やっぱり、まだまだ課題は多いな)
だが、少しずつ見えてきた。
この能力の強みと、弱点。どんな敵に向き、どんな敵に苦戦するのか。
それを一つずつ把握していくことが、きっとこれからの鍵になる。
「もう少し時間があるし、集落に行ってみる?」
「そうだな。できれば複数相手の戦闘も試しておきたい」
雪の提案に、俺は賛同する。
実はさっき、いつもの受付嬢――セイラさんではなかったが、顔なじみの別の女性から、さりげなくこんな話を聞かされていたらしい。
『ゴブリンの小さな集落があるらしくて……余裕があったらでいいんだけど、潰してもらえると助かるの』
明確な依頼というわけではなく、あくまでお願いベースの話だが、それでも雪にとっては“検討に値する情報”だったのだろう。
通常、ゴブリンは森の中の小さな洞窟や巣穴に点在して暮らしている。
だが、上位種が現れたり、個体数が増えて群れが拡大したりすると、それらが集まり集落を形成することがある。
とはいえ、こうした集落も定期的に間引きがされていれば急激に脅威となることは少ない。
そのため、日常的には間引き対応を行い、ある程度規模が大きくなった段階で、実力者に潰してもらうという流れが通例になっている。
今回の集落も、定期偵察で存在が把握されてはいるが、緊急性は低いとのことだった。
元々、今日の目的は俺の能力を実戦で試すことだったし、雪の中でもこの依頼の優先度は低めだったようだ。
だが、ここまでの戦闘で俺の能力が想定以上に通用していることが分かり、急きょ予定を変更することになった、というわけだ。
(なるほど……確かに、集落なら一度に複数の敵と戦える。今の俺にとって、格好の訓練場所かもしれないな)
俺はアイテムポーチから一度しまった地図を取り出し、集落までの道順を確認する。
どうやら目的の集落は、すぐ先の分かれ道を右へ進んだ先にあるらしい。
手元の端末で時間を確認すると、待ち合わせまでは残り45分。
帰りの移動を考慮すると、戦闘にかけられる時間はごくわずかだ。
「今日はこの集落で締め、ってところだな。楽な相手ならいいんだけど」
冗談まじりに呟くと、隣で雪が小さく頷いた。
そうして森の奥へと踏み入っていくと、やがて視界の端にぽつぽつと粗末な柵やテント、石積みの小屋が見え始めた。
どうやら集落に到着したらしい。
言われていた通り、集落は小規模。
上位種らしき気配もない。だが——
(……ソルジャーが3体に、メイジとアーチャーが2体ずつ。普通のゴブリンも十数体か。なかなか厄介な構成だな)
特に気になるのは、遠距離攻撃を仕掛けてくるメイジとアーチャーの存在。
壁を使った戦闘スタイルでは、複数の方向から飛んでくる攻撃への対処が難しくなる。
俺は右手をかざし、『全てを守る壁』を展開。
次々と飛んでくる矢と魔法が、壁にぶつかっては霧散していく。
(……だが、このまま防いでいるだけじゃ埒が明かない)
俺は壁を正面に据えたまま、最前線にいるアーチャーへとじわじわと距離を詰める。
だがその動きに反応したのは、アーチャーたちだけではなかった。
左右から、ゴブリンソルジャーと通常種が回り込むようにして襲いかかってくる。
(やっぱり……壁が見えてなくても、感覚で気付くか)
壁を陽炎状態にしていたが、攻撃を防ぐ“何か”があることは、敵にも伝わってしまったらしい。
矢や魔法の方向から壁は動かさず、俺は素早く左にステップ。
左手の剣でゴブリンの斬撃を受ける。
(くっ……やっぱり左手だけじゃ押し切れない!)
慣れない手では捌ききれず、浅くではあるが左腕に傷を負ってしまう。
ダンジョン内での痛みは軽減されているのだが、それでもズキリとした感覚が走った。
右手で壁を維持しつつ、再び攻撃に転じようと体をひねった——その瞬間だった。
「危ないっ!」
鋭い声が背後から飛んできた直後、カランと氷が砕けるような音が響いた。
振り向くと、俺の背後で大剣を振りかぶったまま凍り付いたゴブリンソルジャーの姿があった。
「お兄ちゃん、時間もあんまりないし……使っていいよね?」
振り返った雪が、淡々と確認してくる。
「……あぁ、頼む」
次の瞬間、雪の放つ氷魔法が空気ごと温度を下げる。
その場にいたゴブリンたちが、凍てついた鎖に絡め取られるように、ひとり、またひとりと崩れ落ちていく。
まるで雪が吹きすさぶ静寂の中、魔物たちは抵抗すらできず、音もなく倒れていった。
わずか数分。
気づけば、集落に立っているのは、俺と雪の二人だけになっていた。
(……危なかった)
凍りついたゴブリンソルジャーの表情は、まさに一撃を放つ寸前のものだった。
雪の声が数秒遅れていれば——俺は今ごろ、あの剣を背中に受けていた。
たとえ回復薬で事なきを得たとしても、ソロだったらどうなっていたか。
そう考えると、全身が一気に冷えるような感覚がする。
「お兄ちゃん、帰ったら反省会だね?」
雪はいつものように、冗談めかした軽い口調で笑う。
けれど、その気遣いが、今の俺には少しだけ堪えた。
(……一体すら、倒せなかった)
集落の構成的に不利だったことは確かだ。
それでも、もう少し粘れたはずだと、自分でも分かっていた。
左手での戦いに慣れていないこと。
壁を展開し続けることで安心してしまい、動きが甘くなっていたこと。
反省点はすでにいくつも頭に浮かんでいる。
戦いの最中は見えていなかったくせに、終わってからはやたら鮮明に思い出せるのが、なんとも皮肉だった。
「お兄ちゃん、その壁、本当に右手の前から動かせないの?」
唐突に、雪が真顔で問いかけてきた。
その問いに、すぐに答えることができなかった。
俺は壁をじっと見つめる。
そこに浮かぶのは、どこまでも“固定された”壁。
(イメージ……か)
たしかに、雪はダンジョン協会の本部で「能力はイメージがすべてだ」と言っていた。
俺の能力――『全てを守る壁』は、覚醒したあの瞬間の光景が基盤になっている。
右手を差し出し、全力で迫る一撃を防ぎ切った、あの時のイメージ。
もしかすると、それが脳に焼き付いてしまっていて、右手の前以外で使うことを無意識に拒絶しているのかもしれない。
「……これは荒治療が必要かもね」
黙り込んだ俺を見て、雪は小さく肩をすくめ、つぶやいた。
その目は壁ではなく、俺自身を見ていた。
——と、感傷に浸っている暇はない。
ダンジョンに長居する時間ではなかった。
俺は深く一度息を吐き、気持ちを切り替える。
雪に続いて夜のダンジョンビルを出ると、周囲にはもうほとんど人影はなかった。
静かな空気の中、俺は腕時計に目をやる。
(あと……5分)
待ち合わせの時間が迫っている。
初対面の相手に遅れるわけにはいかない。
俺は少し焦りを含んだ声で雪に問いかけた。
「雪、もうすぐ時間だけど……間に合うのか!?」
すると雪は、まるで当然とでも言うようにニッコリと笑い、指をさす。
「余裕だよ?だって、待ち合わせ場所ってそこだから」
指の先にあったのは、ダンジョンビルのすぐ目の前の建物。
マスターの喫茶店が入っている、自分にも馴染み深い、通い慣れた建物だった。




