14. 覚醒
「この……くそ野郎がッ……!」
しばらく見たくもない光景にただ呆然と立ち尽くしていた俺だったが、我に返った瞬間、怒声が喉から飛び出した。
叫び声を浴びせられても、宇田は以前のように威勢よく反応することはない。
ただ、口元を歪ませながら狂ったように笑い続けている。
(……もう、壊れてるな)
正気を失ったのか、あるいはその手に握られた魔道具の影響か。
ただ、禍々しい黒煙が途切れなく流れ出るそれは、明らかに尋常なものではなかった。
だが、俺には宇田を気にしている暇などない。
今この瞬間にも、ゴブリンジェネラルは次なる標的を定め、動けずにいるサークルメンバーへと迫っている。
(間に合え――!)
俺は祈るような気持ちで、床を蹴る。
跳び出す俺の目に飛び込んできたのは、振り下ろされる大剣の刃――その先に、何もできず立ち尽くすメンバーの姿。
ガキィィンッ――!
間一髪。
俺の剣がその斬撃を受け止めた。
(重い……!)
凄まじい衝撃が、両腕を貫く。
ただ一度、剣を合わせただけで、指先が痺れてしまった。
だが、これは俺の狙い通りだった。
邪魔されたことで苛立ったゴブリンジェネラルは、ターゲットを俺へと切り替える。
俺はすぐに身を翻して、距離を取ろうとする。
だが、間合いを取る前に迫る巨体――大剣を肩から振り回すような勢いで、もう次の一撃が来る。
「くっ――!」
地面を蹴り、ギリギリで横に跳ぶ。
刃は俺の肩をかすめ、防具の一部が削れ飛んだ。
間を置かず、剣を構えなおす。
が、奴はもう目の前。
思考より先に身体が動く。
やっとの思いで受け止めた一撃は、剣の根元だ。
(防げる、が……長くは持たない!)
剣と剣がぶつかるたびに、火花が舞い、衝撃が全身を叩く。
比較的新しい剣も、刃こぼれが目立ちはじめ、このままでは戦いの最中に折れてしまいかねない。
俺も、じわじわと傷はつけている。
だが決定打は出せず、体力の消耗は一方的に俺の方だ。
そして――
(……こいつ、学習してやがる!)
徐々に俺の動きを読み、立ち回りを変えてくるゴブリンジェネラル。
単純で激情に任せた攻撃をしてくるはずの魔物だが、先を読んで先回りをし、俺の守るメンバーを的確に狙っているのだ。
「魔物は基本的に学習しない」「知性は変異種や超上位存在の特権」――それが、魔物研究における常識だ。
だが、目の前のゴブリンジェネラルは、明らかにそれを覆す動きをしていた。
一人、また一人。
ゴブリンジェネラルは先回りを繰り返し、防ぎきれなかった斬撃が、メンバーをなぎ倒していく。
(やめろ……やめてくれ……)
胸が締め付けられる。
後味の悪い脱退だったが、それでも、かつては共に戦った仲間たちだ。
今、この目の前で命が散っていくことに、心が折れそうになる。
でも――それでも。
頭の中に浮かぶのは、マスターの穏やかな背中。
セイラさんの優しい声。
父、母、そして――雪。
彼女の凛とした瞳が、心の奥底に火を灯す。
「俺は……俺は、こんなところで死んでやるものかッ!」
砕けかけた防具を拳で叩き、傷だらけの剣を高く掲げる。
身体は限界に近い。
それでも、気持ちが折れたらそこで終わりだ。
気力を燃やし直し、俺はもう一度、戦場へと飛び込んだ。
――――――
それから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
もう一時間は戦っている気がする。
だが、もしかすると、まだ十分も経っていないのかもしれない。
時間の感覚などとうに消え去っていた。
ただ、生き延びるために。
俺はひたすら動き、剣を振るい続けていた。
ここに駆けつけた時、サークルメンバーは十人近くいた。
だが、今、まだ無事なのは、宇田を含めてたったの四人。
ただその四人も、全員が深手を負い、意識すら朦朧としている者もいる。
このまま時間が過ぎれば、助かる命も確実に消えていくことだろう。
――だが、俺も限界だった。
何度も転がり、何度も斬られ、何度も立ち上がった。
呼吸は荒く、肺が焼けつくように熱い。
腕も脚も重く、もはや動いていることすら奇跡のようだった。
それでも、動かなくては。
止まれば、全てが終わる。
ゴブリンジェネラルが振りかぶった大剣が、部屋の隅にいる女子――この中で唯一の女性に向けて放たれた。
俺はその軌道に飛び込み、間一髪で剣を構える。
彼女は、あの時俺のことを悪く言っていた何人かには含まれていない。
むしろ宇田たちに逆らえずに、何も言えなかった者たちの一人だったのだろう。
――ただ、そんなことは、どうでもいい。
今は、守るべき命がそこにある。
ガキィンッ!
耳をつんざく金属音。
次の瞬間、嫌な感覚が右手から届く。
剣の根元が、音もなく――折れていた。
何度も、何十度も、全力の一撃を受け続けた代償。
ついに、俺の相棒が砕けたのだ。
(……ここまでか。いや、よく持ちこたえてくれた。これ以上は、望みすぎだよな)
剣を見下ろしながら、口元がわずかに笑った気がした。
俺はここに来て、これまでで一番冷静になっていた。
不思議なくらい、頭が冴えている。
――俺は……嵌められたのか。
逆恨みか。
それとも、妹の精神を折るための計略か。
後ろで狂ったように笑い続ける男――宇田。
あいつが黒幕の一人であるのは間違いない。
だが、あの魔道具を自力で手に入れたとは思えなかった。
誰かが背後にいる。
もっと、悪質で、影の濃いやつが。
――けれど、そんなことはもうどうでもいい。
アイテムポーチには、まだ予備の剣が入っている。
でも、取り出す気力すら湧いてこなかった。
(お父さん、お母さん、親不孝でごめんなさい。雪……お前にも、謝らせてくれ。俺は……もう、疲れたんだ。)
頭の奥に、ふと浮かんだ。
懐かしい、家族の声。
『陽向、健康で過ごすんだぞ。ちゃんと勉強しろよ?』
『たまには連絡しなさい?辛くなったら、いつでも帰ってきていいから』
『お兄ちゃん、私はいつでもお兄ちゃんの味方だから』
――ああ、あったかいな。
どこか遠くで、春の日差しみたいな声がする。
その中に、雪の姿が浮かび上がる。
『……お兄ちゃん、本当に諦めていいの?』
「……雪?」
幻だと分かっていても、なぜか胸の奥が震えた。
諦める?もう、十分に戦ったさ。
剣も、もうない。体もボロボロだ。
『お兄ちゃんらしくないよ。そんなふうに下を向かないで。生きて。最後まで足掻いて。戦って。私を守るって言ってくれたじゃない――あれは、嘘だったの?』
闇の中で微笑む、あの日の雪。
――いや、嘘じゃない。
本気だった。今も、変わってない。
『なら、前を向いて。きっと何かが起こる。私は信じてる。お兄ちゃんは、私の“最強”なんだから』
――あの夜。
雪に能力が開花した日。
隣の部屋で泣きじゃくる声を聞いて、俺は朝まで雪の背中をさすり続けた。
不安。恐怖。混乱。
十二歳の少女に、背負わせるには重すぎる運命だった。
だから俺は、約束した。
「俺が、最強になって雪を守る。これは約束だ」
(……そうだ、雪。俺は忘れてた。俺は、こんなところで死ねるわけがない。死にたくない――!)
目を、開けた。
その瞬間――ジェネラルゴブリンの大剣が、俺の眼前に迫っていた。
反射的に、右手を突き出す。
剣を握るでもなく、止めるでもなく――掴みにいった。
来る。
来るぞ、この痛み。
だけど俺は、もう逃げない。
目を閉じ、歯を食いしばり、闇を裂くように叫んだ。
ゴンッ。
一撃目。
時間が止まったかのように、何も起こらない。
一秒、二秒、三秒……五秒。
俺の手に、痛みは訪れなかった。
ゴンッ。ゴンッ。
(……どういうことだ?痛覚が麻痺したのか?)
理解できない状況に、思わず息を飲む。
だが、あまりに明瞭な“無痛”に、違和感はさらに増していく。
ゆっくりと、重たいまぶたを持ち上げる。
視界に映ったのは――
(……なんだ、これは?壁……?)
俺の右手のすぐ前。
そこに、一メートル四方の、透明な“何か”が存在していた。
光が揺らめくような、空気が歪んで見えるような。
まるで目に見えない盾のように、それは――
ジェネラルゴブリンの渾身の大剣を、何度も、何度も受け止めていた。
(まさか……これは、能力……?)
かつて雪のことで読み漁った、能力に関する記事が脳裏をよぎる。
《強い意志と極限の状況が、潜在能力を引き出す》
《選ばれた者だけが、能力に目覚める》
あれは、ただの都市伝説でも、子ども向けの話でもなかった。
(俺に……能力が?)
心の奥底から、何かがこみ上げてくる。
だが――
すぐに現実は、その希望を打ち砕いた。
何度か試してみるが、大きさは変わらない。
好きな位置に移動させることもできない。
ただ、俺の右手と連動して動くだけ。
利き手である右手を使っているため、予備の剣を取り出すこともかなわない。
攻撃に転じる術はない。
俺にできるのは、ジェネラルゴブリンの大剣を右手の壁で防ぎ続けることだけ。
しかも、集中が途切れれば壁は薄れていく。
まるで精神の糸一本でつなぎ止められた奇跡のように、力はまだ不安定だった。
だが――
俺の中に、確かな灯がともった。
ここまで来れば、もう根気比べだ。
さっきまでの俺とは違う。
もう、下を向いたりはしない。
(来いよ……ゴブリンジェネラル。今度は、俺が“前に立つ”番だ!)
そこからは、まさに我慢比べだった。
防戦一方の俺と、怒り狂いながら執拗に剣を振るい続けるゴブリンジェネラル。
本来なら、他の4人を狙うほうが戦術としては理にかなっている。
動けず、武器も持っていない彼らを仕留めるほうが簡単だ。
だが――目の前に「自分の攻撃を何度も防いだ存在」がいる限り、それは奴のプライドが許さなかったらしい。
目が血走り、涎を垂らしながら、大剣を振り下ろすゴブリンジェネラル。
何度も、何度も、何度も。
だがその一撃一撃は、次第に重さと速さを失っていく。
(……疲れてきてる。俺だけじゃない。こいつも、限界が近い――)
そんな確信が芽生えたそのときだった。
乾いた空気の中に、希望の声が差し込んできた。
「――発見したぞ! ゴブリンジェネラル確認! 生存者5名!すぐに戦闘態勢に移れ!」
怒鳴るような、張りのある声。
次いで、複数の足音が床を駆ける音と、防具がこすれる金属音がどっと押し寄せてくる。
(――来た……!)
ようやく、救援が来たのだ。
安堵と脱力で膝が抜けそうになるのを必死にこらえていたそのとき、懐かしい声が聞こえた。
「陽向君!」
振り向くと、全身フル装備のマスターが人混みをかき分けて駆けてくるのが見えた。
いつもの穏やかな喫茶店の姿ではなく、かつて一線で戦っていた頃の“戦士の顔”だ。
「マスター……俺……俺……」
喉が震える。声がまともに出ない。
何を言いたいのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、伝えたかった。
生きていたこと。頑張ったこと。少しだけ、誇らしかったこと。
そんな俺の肩に、マスターの手がそっと置かれる。
「──陽向君。もう大丈夫だよ。君は、本当によく頑張った。……とりあえず今は、お疲れ様」
その一言で、緊張の糸が完全に切れた。
俺はマスターの胸に崩れ落ちるように身を預け、そのまま意識を手放した。




