第六章 虹と宝石
*
冬の海など誰もいない。
静かな海の音が、ただそこに広がっているだけ。
ただ広がる水平線と仄かな月の光と影。
少し先には人工的な光が煌めいて見える。空港だ。点々とした光がこれからの旅先の道を作っているように見えた。
乾いた風が頰を撫でるのに、ぶるりと隣の大弥が震えた。四人ともぶ厚めのダウンを着込んではいるが、なんせ今は一月の深夜の海際である。ガタガタと顎を震わせて大弥が喚いた。
「さっみーな、おい!」
「いや、まじ寒すぎへん!? 前来た時、こんな寒かったぁ!?」
「あれ、秋じゃなかったっけ?」
文句を言いながらも、四人で並んで海を見る。大弥は、はあっと白い息を吐き出し、鼻を赤くしていた。
何だか昔に戻ったみたいだ。そう思っているのは四人ともであろう。
「いや、もう覚えてねー。あれって……名古屋のどこでライブした時だ?」
「クアトロじゃなかった? ねえ、琥珀くん」
「えー、そうだっけ? ボトムラインじゃなかった?」
「もうどこでもええねん、マジ寒いっ! 俺、コーヒー買ってくるわ!」
蛍が近くにある自販機に走っていく。それを見ながら、大弥が笑った。和やかな空気の中、静かに海が揺れる。
「まあ、日本海じゃないだけマシだろ。昔行った冬の新潟やばかったもんなー」
「あれはなー、波がえぐかった」
「サスペンス劇場みたいだったよねー」
そんな懐かしい話をしていると、震えた蛍が缶コーヒーとカフェオレを買って走って戻ってきた。透輝だけは甘いものというのは昔から変わらない。みんな手袋越しにホット缶で暖をとる。
「いやー、これで全員風邪引いたら、マージで社長にぶっ殺されるやろ!」
「そんな長居しないって。はい、カイロ」
「用意ええな!? 長居する気満々やん!」
蛍と琥珀がそんなやりとりをしていると、透輝が、ふはっと声をあげて笑った。珍しいことだ。透輝は甘いカフェオレを持ちながら、海を見ている。その長い黒髪が乾いた風にさらりとなびく。
「懐かしいよねー。俺、ここで大弥くんの曲聴いた時、本気でその才能に嫉妬したのを思い出すよ」
そんな透輝の話に、大弥は恥ずかしそうにダウンコートのジップアップに首を縮めていた。
「いや、今から思えばさ、よくあんな完成度の低さでお前らに曲聞かせるつもりになったなって……」
「大ちゃんって昔からいきなりつっぱしるところあるよなー」
「確かに。バンドでやってくって決めた頃だっけ? 大弥がいきなりタトゥー入れてきたのは、俺もマジでびびった。元々の見た目がおとなしいからさあ」
「いや、俺なりの決意表明だって。コレは」
「真面目か、アホ」
蛍が幼馴染を小突きながら話す。それを見ながら、琥珀はそうなんだよな、と思い返していた。
尖った格好になってからの大弥に慣れていたけれど、大弥はもともと非常に真面目な気質だ。
確かに大弥は作曲者としては天才だけれど、性格がかなり真面目で、その才能と今の環境に板挟みになってる。よく考えれば分かることだったのに。誰からも認められる才能。そしてプレッシャー。迫り来る納期。……そういうのに、向かなかったんじゃないだろうか。けれど、大弥は大弥で分かっていた。「自分が曲を書かなくては、このバンドではない」と。そして、願うような曲ができなかったことに絶望したのではないだろうか。………全ては推測だ。
今、この時間が、大弥にとっていいことなのかは分からない。自己満足かもしれない。けれど、琥珀は今流れている時間を、とても愛おしく思った。
蛍からもらったコーヒーを飲み、息を吐くと、その闇が一瞬白く染まる。琥珀は波の音に静かに耳を傾ける。
(多分、俺たちは全員が全員、ものすごく不器用で……一人じゃ何もできやしない。でも、四人ならきっと……)
「……俺は大弥の曲で、俺の声の可能性が広がったって思ってるよ」
ぼそりと漏れた本音は無意識だった。
その言葉に一瞬固まった大弥だったが、照れたように頭を掻く。
「褒めても何も出てこねえって」
「そんなん、昔からアホみたいにギターうまい大ちゃんの隣におった俺を差し置いてー。琥珀ごときに古参ぶられてもなぁ」
「ぶってねえって。なんだよ、古参って。それ、関係あるか??」
「いや、最初にバンドに正式に誘ったの、俺だからね? 二人ともなかなか口に出さないし。どうせ大弥くんの就職がー経歴がーとか思ってたんでしょ」
透輝の言葉には蛍も琥珀も、ング、と口を噤んてしまう。
しょうもない小さな言い争いが続くが、それすらも昔と同じようで面白かった。それに乗るように蛍と琥珀の口論は続く。
「そもそも大ちゃんの才能に気づいて、みんなと引き合わせたのは俺やから!」
「大弥の曲の意味汲み取って、歌詞かけるのは俺だけだから!」
突如始まった告白に大弥はきょとんとしていたが、急におかしくなったのか笑い出してしまう。
そんな大弥を見るのは久しぶりで、残りの三人はそちらを見た。最近は冷静に仕事を淡々とこなしていく大弥しか見ていなかったから。
何なんだよ、お前らは、と、少し潤んだ瞳を隠すように、大弥は顔の向きを変え、海だけを見ていた。
「……すげー嬉しい」
まじで嬉しいもんなんだな、そう呟いた大弥は少し海に近づくと、砂浜を軽く足先でいじっていた。
「なんかよく分かんなくなってたのかもしんねーわ。バンドがでかくなって、巻き込む人も増えてきて……。どんどんRefrainの「数」だけがでかくなってってさ。次ダメだったらどうしようってそればっか考えてた気がするよ」
(やっぱり、大弥は次の曲に納得してなかったんだ……)
海の音は静かに寄せて引くを繰り返す。その中で、ぼそりと大弥の本音が響いた。
「配信回数よりも、顔の見えないファンの言葉よりも、お前たちに言われる言葉が一番嬉しい。……昔から、ずっと」
その言葉に三人は少し黙る。
きっと、この数ヶ月、自分たちは必死に走ってきていた。自分の弱さを隠し、虚勢を張り、なんとか自分の役割を見つけ、無茶をして……きっと、器用に時間を過ごせた訳ではなかっただろう。
大きな渦に巻き込まれて、自分たちは何を見失っていたのだろうか。
全員が全員、心の奥底にずっと抱えていた原点。それは四人とも同じで、それがずっと胸の中にあったはずなのに。それを大弥の言葉で思い出せた気がした。それは口に出さずとも全員が分かったことであった。
「まあ、商業的な成功は大事やからな。ファンや世間のことは意識せなあかん」
「それはそうだな」
「でも、俺は大弥くんがいつも通りの曲を書けば、それで売れると思うけどね」
「ほら、また透輝くんがいいとこ持ってくー! そういうのはリーダーの俺に言わせてってゆうてるやん!!」
「知らないよー」
そんな会話に大弥も笑う。そして、足元の砂を蹴ってから、うん、と上を向いた。
「大丈夫。俺が俺らしい……いや、STONESに相応しい曲を作れるように頑張るよ。それで売れてみせる。なんか、お前らと話してたら、ちゃんとできる気がしてきた」
その言葉に、そっか、と三人が少しホッとする。すると、大弥は手元にある何かをいじっていた。「……よし」と小さく呟いた大弥の言葉に琥珀が問いかけた。
「ん? 大弥、どうした?」
「いや、データ消した。この前送ったデモのやつ」
月明かりの逆光でちゃんとは見えないが、大弥が笑って上にあげた手にあるのは……この前、琥珀に渡していたポータブルプレイヤーだ。新曲の原曲が入っていたものである。
「え?」
「は?」
「えっ!?」
三人三様の絶句をしているのに、大弥はその反応がツボにはまったのか、声をあげて笑っている。それに最初に詰め寄ったのは蛍だった。
「あははじゃないねん!! ま、ま、マジ、ど、どーすんねん!? え? まじ? 消した!? 嘘やろ!? アホか!?」
「そんな焦った蛍の顔見たの久々だなー」
「いや、笑い事ちゃうし! だ、大ちゃん、なんやかんやであの曲に何ヶ月かけてたと思ってんのぉ!? 消すか、普通!?」
なあ!? と蛍は泣きそうな顔にもなっているが、その次の大弥の言葉で全員が黙ってしまう。
「皆だって、あの曲は俺らしくないって思ってたんだろ? じゃあ、いらねえ」
大弥は、別にいいんだよ、と吹っ切れたように笑っていた。それは投げ遣りな表情ではなく、どこか憑き物でも落ちたかのように晴れ晴れとしている。
「蛍も琥珀もちゃんと言ってくれて嬉しかった。透輝くんもさりげなく伝えようとしてくれたの、俺だって分かってたよ」
どうせだからちょっとは歩こうぜ、と言う大弥につられて、三人はゆっくりとその砂浜を歩くことにした。静かな中で、ポツポツと話す大弥の声は、暗くはなかった。
「俺は多分、何かに追われて物を創るのには向いてない。けど、どこかには俺の好きなものが俺の中にあるはずだから。それを引き出せるように頑張ることにするよ」
「大弥、無理はしなくても……」
琥珀の言葉に、ううん、と大弥は首を振る。
「無理じゃねえよ。俺がこのバンドでちゃんとやっていきたいだけだから。そのためには走らなきゃいけねえ時だってあるだろ」
そう告げた大弥はまっすぐに海を見ていた。琥珀はその横顔を見て、ああ、もう大丈夫だ、と思う。
また、この四人には困難が待ち受けているかもしれない。また、どうしようもない事態が起こるかもしれない。
けれど、多分、今、全員が大事なものを取り戻した。
このバンドで音楽をやっていきたいと思った、あの頃の気持ち。それだけがここにあれば十分だ。それを忘れなければ、きっと自分たちはやっていける。
波が心のざわめきを攫っていくよう、心が凪いだ気がした。
「それにしてもデータ消すことないやろ……いや、どっかにバックアップはあると思うけどさあ……」
「退路を断つのは大事だよなー」
「いや、それにしてもやることが急すぎんねん……極端やねん、マジで……いや、マジか……俺にはマジで理解できへん……」
蛍はまだブツブツ言っている。ほんまどないすんねん、と幼馴染でじゃれ合うのを見て、琥珀と透輝は少し後ろを歩いた。
「いやー、大弥くんの思い切りの良さ、忘れてたね」
「そうだったな」
透輝もいつもより明るく笑っている。蛍が少し背の高い大弥の首をしめようとしているのに、大弥は笑いながらそれを躱して平気平気と軽く答える。
「書き直すって。今頭に浮かんだよ」
「ほんまかあ……?」
「できなかったら、全員で矢賀さんに頭下げにいけばいいって!」
「琥珀、お前も簡単に言うなや!!」
「大丈夫だってー。ちゃんとやべー新曲書いてやるから! 俺に任せとけよ」
そんな風に笑う大弥に、三人は互いの顔を見合って微笑んだ。誰よりも彼の曲を待ち望んでいるのは、他でもない自分たちなのだと思い出す。
海際をしばらく歩き、やっぱり寒いな、と鼻水が出そうなのを啜って四人は車に戻ることにした。
先に車あっためとくよ、と透輝が小走りで戻る背中を見ていると、大弥が残りのコーヒーを飲み干して琥珀に話しかける。
「あと、思い出したわ、俺」
「?」
「いつだったっけなあ。まだサポート入る前、蛍に誘われてお前らのライブ観に行ってさ。お前の声、どこまで出るんだろって思ったのが、あの曲作ってみてえなってなったきっかけなんだよ」
「え……?」
「Refrain。ちゃんと作れたのは随分後になっちまったけどなー。あのキー、お前の声なら綺麗に出るだろって思ってた。俺の曲の可能性を広げてくれてんのはお前だよ、琥珀」
サビのとんでもない飛び方をする音域、あんな曲、冷静に考えたら自分には歌えないと思っていた。けれど……歌えた。
その一番最初の衝撃を思い出して、琥珀は過去と未来を行き来したような感覚に陥る。
大弥は、あの、初めてあの曲を通しで歌った時に見せた笑顔でそこに居た。
「まあ、その頃はまだ、お前もヘッタクソだったけどさあ! 琥珀は昔から……真ん中でキラキラ光ってるのが似合うよな」
「そんなこと……」
「お前の声に出会えて、本当に良かった」
その何気無い一言に、琥珀は言葉を詰まらせる。
言いたいことは山ほどある。なのに、喉の奥に思いが詰まって出てこない。
何度謝罪しても足りないほどの後悔。
今、この場にいてくれることへの感謝。
あの最初の未来では、何かを伝えることさえも叶わなかった。
だから、今、三人に伝えたい。
俺も、また四人でこうやって話せて、音楽がやれて、本当に良かった。
「あー、耳ヤバイ! 車入るぞ!」
「……うん」
琥珀の掠れた言葉は、冬の風に打ち消された。けれど、今はそれでいい。
自分が最初に思い描いた幸せな未来のことを思い出した。
成功に嫉妬したこともある、他人と自分を比べて、どうして俺だけと思ったこともある。
自分にはない立ち回りのうまさ、才能、やり抜く力。三人それぞれに嫉妬したことも何度だってある。
けれど、本当は最初から分かっていたのだ。
自分はただ、この美しい音楽の可能性を、ずっと探っていく人生が送りたかっただけなのだと。
ここにいる、この四人で。
海はただ静かに揺れていた。
あの曲を初めて聞いた時、頭の中に広がった、あの美しい風景のように。
*
ステージ、それは特別な者だけが上がることを許される場所。
そして、その真ん中、フロントに立って光を浴びることができるのはその中でも一握り。
――その光の中に居続ける人間なんて、本当にいるんだろうか?
そう、琥珀は何度も自分に問いかける。
少しでも何かに気を抜くと、このガラスの階段は崩れ落ちてしまうことを、自分は、自分たちは知っている。
けれど、あれから二十年、自分たちはただ走ってきた。光の中に居続けるためではなく、美しい音楽を作って、たまたまこの光の中に囲まれていたのだ。それは、まさに奇跡のような時間だった。
「そろそろやなー」
「よろしく」
「今日もよろしくね」
「よろしくお願いします!」
いつもの声がいつも通りに響く。「いつも通り」……それのなんと幸せなことか。
琥珀が最初に出した手に、三人が手を重ね合わせていく。
蛍、大弥、透輝。三人がそれぞれに少しずつ歳を重ねた。琥珀が最初に見た未来。その時よりも明るい表情で年齢を顔に刻んで生きていた。
最後に重ねた透輝の手の上、もう一度琥珀が手をのせる。それにふと蛍が問いかけた。
「前から聞きたかってんけど、なんでもう一回のせるん? いつからしてたっけ、これ」
「これはもう一人の分」
「?」
首をかしげる蛍に、琥珀は笑って答えた。
「座席にいる、画面の向こうにいる、ファン一人一人の分ってこと」
琥珀の答えに、恥ずかし、と蛍は少し笑ったが、誰もそれをからかいはしなかった。いつだって自分たちは見えない数に支えられている。それを四人全員が知っているから。
琥珀は一つ大きく息を吸い、そして、いつものように喉を準備する。
「琥珀さん、タオルどうぞ」
「ありがとう」
伊藤とのそんなやりとりも毎回のこと。各メンバーもそれぞれに集中している。奥には再手術から復帰した大木の姿が見えた。彼女と一瞬視線があい、互いに小さな微笑みを交わす。
透輝がドラム台に上がり、大弥と蛍が先にステージに向かう。その背中を見送るのもいつものことだ。再び大きな深呼吸、前を見据え、自分の位置、ステージの中央に向かう。
イヤモニの奥から響いてくるのは、もう何度も聞いた曲のイントロ。アルペジオ。ステージが明るくなり、少し距離を置いた場所から歓声が聞こえてくる。
ああ、まるで海のようだ。
琥珀はその緩やかな波に身を委ねた。その海は、優しく自分たちを包み込んでくれる。いつかのような濁流ではなく、ただ静かにあって、その美しさを揺らして笑っているかのようだった。
360度、全ての方向からの声が、自分の奥に響いてくる感覚。ゆっくりと目を開けると、そこには光。眩しすぎるぐらいだ。何も見えない。……けれど、そのぐらいがちょうどいい。
光の演出で空気が虹色に光るのが見えた。小さな埃の粒が、照明に輝いて、まるで色とりどりの宝石のよう。
それはいつだって美しく、琥珀たちを迎えてくれるのだ。
この風景を見ては何度でも思う。まるで夢のようだと。
琥珀は静かに口を開き、その喉の奥を震わせた。
そして、また、あの曲が今日も心を響かせる。
ここにいる、そしてここにはいない誰かの心を。
了
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。