第五章 天才と孤独
*
「嘘だ……」
「琥珀さん、まだ……詳しくは、わ、分かっていなく、って……っ」
琥珀は絶句した。それにつられるように伊藤が泣き出す。すみません、すみません、と繰り返す伊藤は取り乱していて、そんな中、蛍から電話がかかってくる。
まだ信じられない。
大弥が……自殺した?
琥珀は誰かに否定して欲しくて、蛍の通話を取った。けれど、通話先の冷えた空気に全てを悟る。本当なんだ……と。
「蛍……」
『……病院、なんやけど……その……確認してきた』
「っ……」
通話先で嗚咽が漏れる。蛍の隣にいるんだろう、青木の「僕から話しますので、蛍さんは……」という声。「俺が言う!」と答える蛍。
まるで琥珀は他人の通話を聞いているかのように実感がなかった。
……嘘だ。いや、これは悪い夢だ。
そうだ、きっと長く苦しい夢を見ているに違いない。
けれど、蛍の声が現実として、琥珀の耳に戻ってくる。
『大ちゃんの死体は俺が確認した。石田はショックで、とても今取り次げる状態やない。今後のことが決まるまで、琥珀と伊藤は琥珀の家に待機しててくれ。マスコミが事務所に押し寄せとるって社長から連絡あったから』
「……分かった。俺に何かできることは……?」
『大ちゃんの親への連絡は済んどる。透輝くんへの連絡も俺がやっとくわ。琥珀は何も気にせんといて』
「蛍、無理しないで……」
『……ああ』
涙を隠すように通話が切られた。切った瞬間に泣き出しているだろう。その相手の強がりが、今はただただ痛い。
けれど、それ以上の喪失感。それはなんとも表現しがたいものであった。
大弥が死んだ。死んだ。死んだ……?
息を止めた? 呼吸を止めた?
あの腕は、あの指は、もう二度とギターを奏でることもなく……
琥珀は伊藤の目の前で膝から崩れ落ちた。床に涙がこぼれ落ちる。どうして、なぜ。
――自分は何を間違えたのだろうか。
その答えは誰も知らない。
大弥は大量の睡眠薬を飲んでの自殺と見られた。
しかし、遺書らしき遺書はなかったため、事件の可能性もあると、検死に回されることにもなった。マネージャーである石田の話を聞いても、彼が不眠に悩んでいた形跡はなく、どうやって薬を入手したのかも、どうして死んだのかもよく分からない。
ただ、残された者たちに多大なる喪失感を残した。事故ではなく自殺が決定した後、彼の葬儀はしめやかに執り行われた。
「……なんであいつらがおるねん」
都内の葬儀場の場所は明かさなかった。しかし、どこから嗅ぎつけてきたのか、外にはマスコミが集まっている。
どうして、死んだ者にまで集るのか。悪気なく餌を求める蠅のような姿に、琥珀はぞわりとした嫌悪と憎悪を抱いた。
(最初の時のことを思い出す……。あの時は本当に張り付かれて、自分の生活なんか何もなくて……)
面白おかしく書きたてて何が楽しいというのだろうか。
マスコミは大弥の死をミステリーのように書き上げた。結局、本人しか分かり得ないのことなのに、どうして謎を解く必要があるのだろう。
いや、本人たちの間でも、真実なんて分からないことだらけなのに。
(大弥……なんで……)
大弥は人間関係も浅く広くのタイプであったので、様々な噂は多かったが、それのどれもこれも信憑性に欠けるものばかりであった。
結果、マスコミはこの数日では何もつかめず、空をつかむような話ばかりを書き立て騒ぐことになる。メンバー間のいざこざなどあるはずもなく、ありもしない嘘を書きたてては、SNSでファンに叩かれ、そのマスコミバッシングが世間に広がっていく。
全くもってくだらない。
無駄な抗争が起こっている。よく分からない推測が飛び交う。そんなことは、当の本人たちにとって、本当に心底どうでもいいことだ。
ただ、今はこの大弥という「大いなる才能」の消失に、関係者全員が沈んで言葉をなくすしかない。
そして、近しい人間たちは、大弥という人間を失ったことを受け入れられないまま、その葬儀を終え、火葬場に向かうところであった。
火葬場への移動車の加減で、琥珀は少し早めに会場についた。そこには、葬儀場から先に抜け出ていた矢賀と、その側にはなぜか大木がいた。
「琥珀くん、この度は……言葉もないが……」
涙ぐんでいる矢賀に、琥珀も涙をぐっとこらえる。そして、努めて冷静に返そうと拳を握った。まだ、信じられないのだ。
「いえ……俺も、何が原因なのか……」
「姪とも話していたんだが、何も思い当たるところがないと」
「え? 姪……」
矢賀は隣の大木をそっと見る。それで、やっと何を言っているのかが分かった。
「!! 姪御さんって大木さんだったんですか……!」
大木はハンカチを口元で握りしめ、ボロボロと涙をこぼしていた。彼女は何も言えずに崩れ落ちそうになる。琥珀は慌ててその腕を支えた。
「この前、話し損ねてしまったけど、亜美は古くからSTONESのファンでね」
「そうだったんですか……! 彼女には大変お世話になっています」
確かこのツアーでは、リリースイベントを調整してくれていた。リリースイベントの日程変更の件では、きっと随分苦労をかけたに違いない。
大木はかなりショックが大きいらしく、何も言えずに、ただただ涙を流している。
イベントの時などは、いつも大きな荷物を抱えてテキパキと働いてくれているのに、その腕はかなり細くて折れそうだ、とようやく気づいた。
琥珀はふと顔をあげ、待合室の近くにあるベンチに大木を連れて行くことにした。
「大木さん、ちょっと休もう。矢賀さん、少し失礼します」
「ああ、私はここで皆が来るのを待っているよ。すまないね」
大木に飲み物を渡して、はあっと一息つく。
自分はまだ信じられないが、こうやって人が泣いているのを見ると、やはり大弥を失ったのだという実感が琥珀を襲った。
けれど、その喪失感に浸っている場合ではないことも琥珀は知っている。
しばらくの沈黙の後、琥珀は大木に語りかけた。
「大木さん、だよね?」
「……はい?」
「俺をタイムリープさせているのは」
琥珀は静かに真相に触れた。
しばらくの沈黙がある。大木はハンカチを持っている手の震えを止め、そして、涙も止めていた。
頭がおかしくなったと思われるだろうか。けれど、この反応こそが今の問いへの肯定ではないだろうか。
大木は目元をハンカチで拭う。薄い化粧が白いそれを少しだけ汚していた。そして、その顔を琥珀の方へ向けると、まっすぐにこちらを見つめてくる。
彼女の目をちゃんと見たのは初めてかもしれない。
「……はい。そうです」
琥珀をまっすぐに見つめて告げるその言葉に嘘はない。
はあっと琥珀は大きな溜息をついて、その両手で顔を覆った。
「最初は伊藤かなと思ってたけど、最初の未来にあいつはいなかった。君だけがいつもさりげなく側にいた気がしていて」
「その通りです」
「最初の時、あの日はどうして……いや、もしかして蛍の車にいた時から何か俺に仕掛けていたのかな……?」
「いいえ、違います……」
大木は缶コーヒーを握りしめると、ポツポツと語りだした。そこには二十歳そこそこにしては、しっかりとした瞳の女性がいた。
「あの日……私も別件で病院にいまして、琥珀さんが運ばれてくるのに、たまたま遭遇しました」
「え?」
「定期的な検査なのですが、あの日は深夜に担当医にお願いして診察を受けていたんです。その帰りでした。そこに琥珀さんが大怪我をして運ばれてきて……。その前に蛍さんの側で貴方を見ていたので……本当に絶望しました。どうしてあんなことになってしまったのって」
「みっともないところばかり見せてしまって……本当になんと言っていいか」
琥珀がそう言うと、大木は軽く首を横に振った。そして、その綺麗に整えられた指先が、膝の上でハンカチを握りしめているのが見えた。細い指が震えている。
「私は……STONESが好きで、この仕事についたんです」
「そうだったんだ」
「インディーズ時代にかなり追いかけていて……」
「え……あ!」
琥珀はふと大木の口元のほくろで思い出すことがあった。今の彼女は暗い髪色だが、インディーズ時代によく最前列にいた派手なアッシュピンクの学生……彼女に似ている。
「待って。大木さんって、アミちゃんだってこと? え? あの、毎回物販通ってくれてた?」
「……はい」
お恥ずかしいです、と大木は顔を隠したが、琥珀は「女性って化粧とカラコンで本当に誰かわからないな……」と呆然としていた。当時、目元を強めにメイクした、いかにもバンギャ! という印象からは、とても今の彼女は想像できない。
相手がかなり恥ずかしそうにしているので、それには触れないことにしたが、大木は少しだけ当時を語った。
「急に来なくなったから、てっきりファンを降りたのかと思ってた」
「あの頃、私は病気が悪化して、手術することになってしまって」
Refrainのインディーズ盤をリリースし、それを売っていた頃だっただろうか。大木はもう既に何枚も持っているだろうに、毎回CDを買ってくれていた。親戚や友達に配ってるの! と笑っていたことを思い出す。
そんな常連だった大木は、いつかの物販でバンドマンと客として話した際、「ちょっと忙しくなるからしばらくライブ来れないの」と言っていたような記憶がある。別のバンドに降りるという意味かなと思って、琥珀は少し寂しく思ったものだが、バンドという世界にはよくあることだと気にしていなかった。
「まさか病気だったなんて……知らなかった」
「ずっと分かってたんです。長く生きられないって思ってました。手術の成功率も低い。だから、体の自由がきくうちにと、腐って夜の街で遊んでて、いろんなライブハウスに出入りして。親にも叔父にも心配をかけてたと思います」
黒歴史です、と大木は少し顔を抑えたが、琥珀はその話を静かに聞いていた。
「でも……忘れもしません。渋谷のチェルシー……なんとなく見てた対バンで、STONESのRefrainを聞いて。……震えました。音楽で泣いたのは、あれが初めてです」
その言葉に、琥珀は大木と矢賀を重ねた。そして、自分たちも。
きっと、大弥の音楽にはそういう力があるのだ。美しく繊細なメロディとそこから見える風景。……今はもうない、才能。それにどれだけ心を動かされた人間がいたのだろうか。いや、きっとこれからもいる……はずだった。彼が死ななければ。
「あの音に、綺麗にのってくる琥珀さんの歌詞が耳に響いて。それから世界が広がりました」
大木にとって、ライブハウスは時間潰しのためではなく、音楽に浸る場所となった。そして、好きなものができたことで、腐っていた心が洗われていくようだったという。
「気持ちも生活も変わりました。全部STONESのおかげです」
「そんな風に思ってくれてたなんて……嬉しいよ」
琥珀の言葉に、大木は持っていたハンカチを再び強く握りしめている。
「……生きたい、と思った。手術を受ける勇気が出たのは、あなたたちの未来が見たいと思ったからです」
「!!」
手術前、叔父である矢賀に「私の代わりに絶対にライブ見にいってきて!」とCDを渡したという。それが矢賀と琥珀たちの出会いのきっかけであった。当時はまだ大弥がバンドに残ってくれるか微妙な時期であって、話は流れたが、琥珀たちがメジャーデビューを意識するようになった契機でもある。
大木はその後、奇跡的に手術に成功し、矢賀の力添えもあって、琥珀たちの事務所で働けることになった。仕事としてSTONESを支えることを決めたのだ。
元ファンだとバレないように、また、自分を変えるという意志もあって、長かった髪はバッサリ切って暗く染めた。
けれど、大木が見たバンドの未来は悲惨なものであった。
琥珀の事件の後、蛍は多くの契約と金に縛られることになり、かなりの苦労をしたという。もちろん、大弥も透輝も業界からしばらく干されていた。大木はそんな蛍の近くに残り、マネージャーとして彼を支える人生を選んだ。あの日、病院にいたのは、長らく安定していた数値が急に悪化したため、忙しい合間を縫って検査に来ていたのだという。
そんな話を琥珀は黙って聞いていた。
自分のあの情けない未来。それを思い出しては顳顬が痛む。大木は淡々と話を続けた。
「あの三人が琥珀さんの事件に振り回されて大変だったことも、彼らの絶望もずっと側で見てきました。けど、貴方があの夜去った後、蛍さんの部屋でも三人はずっと飲んでらして……それでも三人とも言ってたんです。『琥珀が生きててよかった』って」
「え……」
思いもしなかった言葉に琥珀は驚いた。
今、やり直している現在ならともかく、最初に辿った人生だ。彼らに恨まれこそすれ、そんな言葉をもらうなんて想像もしていなかった。けれど、大木は小さな声でぼそりと呟く。
「蛍さんは酔うのが早いから……どうして琥珀にばかり無理をさせたんだろうって、当時を思い出して泣いてました。あの時、琥珀さんにひどい言い方をしたのも気にしてて……蛍さんは昔からカッとなりやすいから……」
「まあ、そうだよな。でも、俺が全部悪いから……」
「三人とも、やっぱりバンドを続けられなかったのが悔しかったようです」
「!!」
大木の言葉に琥珀は息を飲んだ。
後悔は自分だけではなかったのだ。
今はもう遠い過去、その時に自分がしたことを赦せる訳ではない。だが、三人が自分と同じ思いなのだという確信が、何よりも琥珀の支えになった。声がかすれそうになる。
嬉しい。……けれど、悔しい。
「私も若くて何もできなかった。いえ、たとえ私がどれだけスタッフとして優秀であっても、バンドを続けていくっていうのは難しいんだと、あの時の未来ではそう思ってました」
「そう、か……」
「けど……病院で、貴方のストレッチャーが運ばれていくのを見て、琥珀さんが死にそうなのを見て……切実に願いました。もう一度だけでいい。あの頃に私たちを戻してくださいって」
大木は小さく息を飲む。
「奇跡が、起きたんです」
そう言うと、大木は喪服のジャケットの内側から、小さな瓶を取り出した。
持ち歩き用の香水の瓶のようなもの。その中にはほんの少しの量の液体が揺れている。
「あの日……あの過去に戻った時、私の手にはこれがありました。何を引き換えにこれを手に入れたのか、どうして私の手元にこれがあるのかは分かりません。けれど、私はなぜかこれが過去に戻れる薬なのでは?と、悟ってしまったんです」
「それで、蛍の事件が起きた後に……」
過去に戻る前、いつでも大木に飲み物をもらっていたことを思い出す。大木はバツが悪そうな顔をして頭を下げた。
「実験のようにしてすみません。けど、私が戻っても意味はないと思っていたので。琥珀さんが過去に飛ぶたび、私も一緒に戻ってました」
「いや、結果としてはありがたい話だから」
そこまで言って、琥珀ははーっと大きな溜息をついた。いや、最終的にはよくなかった。大弥は自殺し、もうこの世にはいない。
「いや……でも、大弥がこんなことになったんだもんな……」
頭を抱えた琥珀だったが、悩んでいる時間はない。
瓶の中身をちらっと見る。今までの回数と考えるに、あと一回分あるかないかというところだろう。
……けれど、それに賭けたい。
「……もう一度、戻れるかな?」
「分かりません……大弥さんは、死……」
堪えていたのだろう。堰を切ったかのように、大木はボロボロと涙をこぼした。
「私は、大弥さんの曲と琥珀さんの歌詞に救われたんです。Refrain――あれを初めて聞いた時、本当に私の世界の全てが変わった気がしました」
そこで言葉をつまらせ、それ以上話せなくなってしまう。そんな彼女を見て、琥珀はゴクリと息を飲んだ。そして、彼女の持っている瓶をそっと撫でる。
「もしダメでも試してみたい。俺に託してくれる?」
「……はい」
大木から瓶を預かると、琥珀は自分の持っている缶コーヒーにそれの残りを全て入れた。そして、大木にまっすぐに向き合う。
「俺に何度もチャンスをくれてありがとう。何度も俺のタイムリープに付き合って、支えてくれてありがとう」
琥珀の言葉にハッとした大木は涙を溢れさせ、ふるふると力なく首を振った。そして、また下を向いて泣き出してしまう。
ごくごくとそれを飲み干すと、「しばらくしたら眠くなるんだよな、これ」と琥珀は笑う。そう、いつだって、ゆっくりと夢に落ちていく。
琥珀は壁側にもたれるようにして、ぼうっとその時を待った。
うとうとと意識が薄れていく。その時、かすれる大木の声が耳に響いた。
「……あなたたちの未来が、何よりも輝いていますように」
その、少しか弱く幼い声、確かにそれには聞き覚えがあった。
どうして気づかなかったのだろう。
バンドの物販に毎回並んでいた派手な女子高生。いつだって満面の笑みで、長い睫毛を揺らしながら、琥珀に言ってくれていた。
「私、STONESに会えて本当によかった!」
その言葉にどれほどの重みがあったかなんて、あの時は知らなかった。
小さな声は数を増して、ファンが多くなればなるほど、ノイズばかりが増えていく。けれど、その純粋な言葉が、数が、どれだけ自分たちを支えてくれていたのか。本当にきらめく小さな宝石が、その中にあったはずだ。
琥珀は瞼の裏を熱くした。
何度も繰り返す夢のような話。けれど、夢であってはいけない。
自分は、自分たちは……この四人で音楽を続けていきたい。
ただ、それだけを切に願った。
*
何度目だろう、こんな風に目を覚ますのは。
けれど、琥珀は今までとは違う感覚で過去に飛んでいた。
自分の部屋であることを確認し、ゆっくりと体を起こす。
整えられた寝室は気持ちよく、カーテンから一筋の光がさしている。一見、穏やかな「いつもの朝」。
日付を確認しているうちに、伊藤から電話がかかってきた。起きてるよ、と穏やかに返事をする。
(ツアーの初日……)
全ての始まりは、この前に起こした自分の暴力事件だった。
けれど、自分だけじゃダメだった。
このバンドを続けていくには色んな問題がどこかに隠れていて……その大きな最後にぶつかっている気がする。
今回、もし大弥を助けることができたとしても、またダメかもしれない。琥珀はふと矢賀の言葉を思い出した。何気ないその真実が胸に突き刺さる。
『どんどん形を変えていって、ダメになっていくバンドを星の数ほど見てきた』
たった四人、それでも、その人間が、これだけ周りに巻き込まれて、いつの間にか壊れていく。様々な苦難がどこからかやってきて、自分たちがしたかったものを見失っていく。
まるで、終わらない悪夢のようだ。
(けれど、今度こそ必ず幸せな夢にしてみせる)
もし、これが死んだ自分が見ているただの夢であったとしても、それでも最後には……この頃思い描いていた幸せな夢を見て、死にたい。
パンっと乾いた音が鳴るほど、自分の両頬を叩いて目を閉じる。
「……よし」
顔を洗って目の前にある鏡を見つめた。
声の調子は悪くない。
この日のコンディションは最高に持っていっていた。
今は目の前のことをやるだけ。失ったものを取り戻せることなんて奇跡だ。
……けれど。
(必ず……大弥の自殺を食い止めてみせる)
鏡の中の自分は、初めて過去に飛んだ時とは随分と違って見えた。
(しかし、原因なんて分かんないんだよな……大弥に変わったところはないし……)
大弥の素行がよすぎたこともあって、週刊誌だって、何のスキャンダルも暴き出せなかった。
琥珀は楽屋でメイクを受けながらも色々と考える。自分の周りをせわしなく動いているスタッフたち。もうこのツアー初日も何度目か。周りの動きも分かって、思考に余裕が出てきているのはありがたかった。
しかし、大弥のことを考えても何も思い当たるところがない。
週刊誌に書かれていた内容も全て「~~か?」としかなくて、何の確信もない記事ばかり。その陳腐な内容はファンに叩かれただけだった。
死んだ数日後までしかいなかったので、それから真相が分かったのかもしれないが……琥珀の記憶の中ではヒントになるようなものはなかったと思う。
(いや、大弥が人間関係や金銭でトラブルを起こすなんてありえない。病院にも通っていた形跡はなかったようだし)
一年前にモデルの彼女と別れてから、恋人はいないはずだ。
適当に遊んではいるんだろうが、そこまで恋愛や個人に入れあげるようなタイプでもない。メンバー全員、仕事が忙しいのが好きだから、曲を作ったり、スタジオに通ったりで、今は正直恋愛関係にうつつを抜かしている暇なんてない。
(それを思うと、最初の俺はよくあれだけ夜遊びしてたな……ランナーズハイみたいなもんか。今はもう中身が一周回ったおじさんだから、どれだけ体力があっても遊ぶ気にはなれないが……)
自分の過去に呆れている暇はない。大弥、大弥について考えなくちゃ、と思いはするが、なかなか彼についての問題点を思いつかなかった。
よくある醜聞でなければもっと根本的な……そうだ、音楽のことを考えよう。
一応、蛍も琥珀も曲は書くが、かなりポップに寄っているのが蛍、琥珀はゴリゴリのロック。透輝はたまにアレンジやSE用の打ち込みを作るが、メインの作曲はほとんどないと言っていい。
大弥がSTONESのほとんどの曲を書き、琥珀がそれに歌詞をつけるのが通常の流れだ。
今度のアルバムの収録曲もインディーズ時代の曲がメインだが、ほとんどが大弥作曲のものだ。そこでハッと気づく。
(まさか、新曲に対しての俺の歌詞が気に入らないとか……!? あり得るよな!? あの曲は歌詞が浮かびにくかったし、俺もすごく苦労して捻り出したような……)
そこで少しの違和感を覚えた。自分は大弥の曲にはスラスラと歌詞を書ける方で。なぜなら、彼の曲を聴くだけで、頭の中に風景が広がるからだ。なのに、今回は……
(そうだ……あの曲、何か違和感があったと思ったら……風景が見えなかった……)
矢賀の言葉を思い出す。
人間には感覚をどう捉えるかの特徴がある。
おそらく、矢賀や琥珀は刺激を映像で受け取るタイプなのだろう。その感覚は人それぞれで、文字であったり音であったり、その人物により感受の特徴があるらしい。琥珀は音で聞いたものを映像で受け取り、それを文字にするのは得意だった。
大弥の曲の特徴は美しく繊細なメロディーラインにある。
絶妙なバランスで紡がれる音に耳から刺激されるのか、琥珀はその音から風景を読み取って言葉にすることが多い。
大弥にはその感覚があまりないらしく、琥珀が表現する風景を、気に入ってくれていたようだとは思っていた。
(透輝くんが何度も俺に聞いてたのって、その違和感を透輝くんも感じてたから? 蛍も言っていたし……)
自分の疑問が確信に近づき、どくんどくんと心音が高まってくる。
いや、そんな、まさか……あの大弥が? とも思ってしまう。
ちらりと部屋の隅を見ると、音響スタッフと笑い合っている大弥が見えた。……今は何も変わりないように見えるのに。
(もしかして、スランプ……?)
あの天才が? と琥珀は思う。けれど、そこで自分の前提を否定した。ぞくりと背筋が寒気が走った。大弥は何かしらで自分の命を絶つまで追い詰められたのだ。外に原因がないなら、自分の中……と考えられなくはない。
(いや、今までの俺は皆のことを全然分かってなかった。蛍があんな過去を抱えていたことも、透輝くんがあんなにストイックだったことも……大弥だって分からない……)
そう、分からないものなのだ、他人なんて。
本人から語られるのはほんの一部で、それも真実か分からない。
全ての真実を知って、それを理解し合うのが最善とも限らない。
そのことを、琥珀はもう知っていた。
けれど、大弥が何を抱えているのか、その一部だけでも知りたいと思う。あんな最悪な結果を引き起こさないために、何か足掻けることがないかを知りたいのだ。それは切実なる願いにも近かった。
(そうだ……。最近、大弥と話をしてないな)
曲作りの期間に入れば、自然と二人の会話は増える。
けれど、最近、琥珀は蛍と組んでの告知仕事で忙しくて、バンドとしては会話が少ない。もちろん打ち合わせはしているが、前のように侃侃諤諤と音楽について議論を交わすこともなくなった。
ある意味信頼をしていたのだけれど、あまりに分業化してしまっていたのかもしれない。
(このライブが終わってしばらくしたら、その間に大弥が新曲を持ってきて、俺が合間で歌詞を書いたんだった……)
違和感については蛍から指摘が入っているが、過去のタイムリープではそこに変化はなかった。
(大弥も、もしかしてあの曲に悩んでいるのか?)
大弥が死んだのはツアー後半が始まる前、つまり、新しい曲がファンに披露される直前だった。正式なレコーディングは後で、原曲・アコースティック版でのお披露目を予定していたのだ。どうしても、あの曲を世に出すことを拒んだのかもしれない。
天才の孤独は誰にも分からない。
話す前に理解を諦めてしまうこともあったかもしれない。一緒に曲を作っていたのは、一番そばにいられたはずなのは自分なのに。
(大弥と話そう……ちゃんと気持ちを聞いてみないと)
琥珀は鏡の中で出来上がっていく自分の顔を、厳しく見据えたのだった。
(い、忙しくて、全然二人での時間が取れない……っ)
大弥に何度かコンタクトを取ろうと思ったが、流石にライブ初日・二日目は忙しい。なんだかんだと仕事やマネージャーとの話が入り、うまく二人で話せる機会が取れなかった。
……何かを間違えれば、大弥は死ぬかもしれない。
そのプレッシャー、一度見てしまった未来が琥珀に緊張を走らせる。けれど、なんとかしなくてはいけない。琥珀は大きな溜息をついた。
大弥はサシで飲むようなタイプじゃないし、付き合いで仕方がなく打ち上げぐらいにはくるけど、という感じなので、自然に二人の時間を作るのが難しい。
いや、もう自然じゃなくても強引に時間をとるか……と思いもする。
琥珀は、いろいろなことを考えすぎたのか、武道館の楽屋でぐったりと突っ伏してしまっていた。伊藤にはしばらく一人にしてくれと言ってある。
今日のライブも良かった。けれど、仕事は山積みだ。自分も休んだりしないといけないし、でも、大弥をなんとかしないと……と色々考えてしまう。
鏡台の前にあるメイク落としでとりあえずクレンジングは済んだが、何もする気になれない。疲れに流されそうになり、その場に溶けてしまいそうだった。
(昔は四人だけで飯食いに行ったりもしたのにな……)
このままだと大弥が今の曲を完成させてきてしまう。
その焦りだけが琥珀の中で大きくなる。あと数日後にはスタジオに缶詰になってしまうし、その一週間後には「これに歌詞つけて」と移動前に曲を渡された気がするのだ。
今なら時間も空いてるかな、大弥にメッセージするとか久々だけど、とトークアプリを前に悩んでいると、コンコンッと楽屋をノックされた。
「琥珀、今いいか?」
「!!」
大弥の方から琥珀を訪ねてくることなど滅多にないし、前にタイムリープした時はこんなことはなかったと思う。なに? と振り返ると、大弥はすっと小さなプレイヤーを取り出した。
「これ、曲」
「!?」
(えっ、記憶より早くないか!?)
ああ、もうできたんだ……と琥珀は答えたが、予想よりも早く出来上がったことに驚いた。
自分が過去に飛んでアクションを起こす前に、何かが変わり始めている。そんなことに緊張感が増す。大弥は琥珀が一瞬戸惑ったことに首を傾げたが、とりあえずだけどな、と首のあたりを掻いていた。
「一回先にお前に渡すわ。感想聞きたいし、歌詞書けそうかどうか聞いてみてくれ」
「う、うん。今聴いてみてもいい?」
「……ああ」
自分のヘッドホンにつないでその曲を聴く。それは記憶の中にあるものと同じであった。
(変わってない……悪くない。うまくまとまってる。けど、違う)
大弥の音楽じゃない。
曲を聴き終わってからもしばらくぼうっとしてしまい、大弥に声をかけられたことでハッとしてヘッドホンを外す。
彼を見ると、いつもとは違って、少しばかり不安そうな顔つきであることに気がついた。
「……どう思う?」
(前の時は、確かライブの移動前に渡されて、こんな会話はなかった。俺もスタジオでは何も言えなかったし、曲渡された時も早く歌詞を書かなくちゃって焦っただけで……)
これはチャンスだ、と琥珀は拳を握り、大弥に向かい合った。
大弥も鏡台の近くにあった丸椅子に腰掛けて琥珀の言葉を待つ。
「正直に言うと、大弥らしくないかな、とは思う」
「……」
しばらく黙った大弥は、俺らしいって何? と問いかけた。しかし、琥珀の中に、その答えの具体的な表現は出てこない。
「うまく言えないんだよな……でも、なんか違うというか……」
「俺らしいってのはRefrainのことを言ってるのか?」
「ああ、そう……それもしっくりくるんだけど、それだけじゃ……」
琥珀が言いよどんでいると、大弥は、はあと大きな溜息をついてうなだれた。
そして、その右手で顔を覆った。こんな大弥見たことがなく、琥珀はどう声をかけるべきなのかを悩んだ。
自分の中で「大弥らしい曲」とは何だと問いかけても、それをうまく言葉にすることができない。無責任な言い方をしてしまったかもしれない。けれど、なんと言うべきか、言葉が見つからないのだ。
「……超えられない」
「え?」
「あの曲を超えることができない」
「!!」
どーすっかなあ……と大弥はその場に突っ伏した。
本当に悩んでいたのだ。しかし、曲のことでこんな風に悩む彼を見たことがなく、琥珀は黙ることしかできなかった。
いつだって、大弥はいつの間にか曲を仕上げて、作り上げていた。
ポンポンと、それこそ魔法のようにあんな美しい曲ができ上がったあとしか琥珀は知らない。
そして、それは大弥の美学でもあるのだろうと思っていた。経過をなるべく他人に見せたくない。彼なりの美学なのだろうと。
しかし、確かに今回の曲は前よりも細かく何度もメンバーに曲について聞いてきていたように思う。忙しさの中で、まあ大弥に任せておけばと思っていたが、いつもとは違うといえば違ったのだ。
大弥はセットされた髪を乱しながら、ああーもうどうなんだろ、と、またも顔を覆ってしまった。
「俺だって分かってんだよ。あの曲は俺にとっても特別だ。初めてまともに作った曲だしさ」
「あれ、本当に最初の曲なんだ?」
「ああ」
(ギターでの即興が昔から上手かったとは聞いてたけど、あれが、実質の処女作だって?)
その才能に今更おののくが、今の問題はそっちではない。
何とか大弥の気持ちを上げなくてはと琥珀は言葉を選ぶが、大弥はどんどんとネガティブな方に感情が向いているようだ。
「インプットばっかりして、全然アウトプットの才能ねえから……どこかで何かに似てるって引っかかるとそれ以上作れなくなっちまうんだよな。新しいものを目指しすぎて、意味が分かんなくなっちまってる」
「そんな……大弥はすごいって! 俺や蛍にはない音を持ってこれるし、あんなフレーズ誰にも思いつかない!」
「でも、今は書けない。書かなきゃいけないのに書けねえんだよ!」
いつになく大きな声。反射的なものだったのだろう。ハッとした大弥は、琥珀に怒鳴ってごめん、とうなだれて、また口元を隠して溜息をついていた。
琥珀は何と言うのが正解なのかをまだ導き出せていない。
今、何とかしないと、どうにかしないと、大弥はこのまま悩んで一人で抱えこんでしまうかもしれない。その焦りから唇が震えた。
けれど、それを必死で隠して言葉を紡ぐ。
「俺は、この曲で進むのもアリだとは思う。今までとは違う感じもするし、透輝くんに音をいじってもらって、より拡げる感じにしてもいいとは思うけど……」
その言葉にしばらく大弥は言葉をつぐみ、うん、と黙った。二人の影も鏡の中も、しんと全てが止まった数秒。
そのあと、大弥はゆっくりと琥珀の目を見て問いかけた。
「琥珀、正直に答えろ」
「っ」
「……この曲で何か見えるか?」
時計の針の音だけがやけにクリアに耳に響く。
琥珀はさっき聞いた、過去にも聞いた音楽を思い出し、そして、静かに目を閉じた。
「見えないよ」
傷つけるかもしれないけれど、正直に言うのが一番だ。
何よりも、それを大弥自身が望んでいる。
琥珀は後悔をした。大弥に曲を任せきりにしていたこと。それは信頼もあったが、あの時はきっと惰性であった。きっと大弥なら平気だと、そう思って、こんな細かな彼からのサインにも気づけなかった。彼の曲に向き合っていなかったのだ。
自分はなんて馬鹿だったのだろう。彼は曲でそれを示していたというのに。
琥珀の言葉に大弥は黙ったが、ふっと表情を緩めて笑う。
「正直に言ってくれてありがとう」
「いや、でも、大弥……! そうだ、新曲の発表は無理にライブに合わせなくても。矢賀さんにも相談すれば分かってくれるよ」
そうだ、無理に今曲を作る必要はない。そう彼に言ったが、大弥は力なく首を振った。
「問題を先延ばしにしても仕方がねえ。俺がこれからもこのバンドのメインコンポーザーとしてやってくなら、絶対に乗り越えなきゃいけねえ壁だし」
「っ……」
確かにその通りだ。
けれど、あの曲があれ以上変わるのか?
それで、また曲ができなくて、大弥は煮詰まって一人で悩むんじゃないか?
でも、次の曲に関してはメンバー全員が納得して……琥珀はそう思った瞬間、自然に口を開いていた。
「大弥。今度の名古屋のさ……セントレア前の空き日って時間あるか?」
「? ああ……別に予定は……」
「久々に時間取らない? 俺たち四人だけで」
「? いいけど。蛍や透輝くんも時間あるのか?」
いきなりそんなことを言い出した琥珀に、大弥が不思議そうな視線を送る。けれど、琥珀は、そうだ、と遠い昔を思い出し、あの海を見ていた。
「四人でさ、海を見に行こう」