表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜の海とリフレイン  作者: きはや
4/6

第四章 ドラムスティックとフラペチーノ



 琥珀の予想通り、タイトの動物密輸販売が警察に知れ、その捜査中に売春斡旋と芸能事務所の関係が明らかとなった。

 関係者であった佐伯は、会社に犯罪の片棒を担いでいたことがばれ、そのために役員を辞職。実質解雇となったため、矢賀が音楽配信部門とイベントライブ部門の役員を兼任することとなる。

 琥珀たちのバンドも影響を受けるには受けたが、まあ、所詮はすげ替えのきく話である。それに、そんなことに構っている暇はなかった。

 目の前に迫っているスケジュールもあって、ライブ関係者の間では、佐伯のことは話題にしてはならないという暗黙の了解になっていた。

 結果として、蛍と彼の間にトラブルがあったことなど、誰も予想しなかったであろう。蛍の記事についても「あんなデマをよく書けたものだ」と世間からバッシングを受け、そしてそのまま忘れられていった。

 新しい担当役員である矢賀は着々と話をすすめてくれ、STONESはアルバム発売とツアーに向けて本格的に進み始めていた。

 今日は久しぶりにメンバー全員がそろっての打ち合わせである。琥珀が部屋に入ると、扉の一番近くに透輝が座っていた。マネージャーはそばにおらず、少し眠そうにしながらフラペチーノのストローを噛んでいる。奥ではすでに蛍と大弥が話していて、軽く視線で挨拶を交わすぐらいだ。

「透輝くん、おはよう」

「おはよう、琥珀くん」

「眠そうだけど大丈夫?」

 琥珀の問いかけに、透輝はへらっと笑う。

「ちょっとゲームで夜更かししすぎちゃった」

「なんだ。心配して損したな」

「新しいステージが難しいんだってー」

 気の抜けるような返事に琥珀も笑い返した。

 透輝は確かゲームが好きで、オンラインゲームでいろいろと楽しんでいるらしい。琥珀はあまり詳しくないのだが、何かの時に蛍と話題が盛り上がっていたことを思い出す。自分はあまりそっち方面には詳しくないので、よく分からなかった。

 ちらっと透輝を見ながら、琥珀は彼のことを考えていた。

 透輝とは上京してから知り合った。蛍と琥珀が意気投合し、バンドメンバーを探している時に、バンドが解散してフリーになっている腕のいいドラムがいると紹介してもらった相手が透輝だ。

 彼は当時から口数が少なく、あまり何を考えているかわからない。目つきは厳しいタイプだが、笑うと幼い顔が見えたりするぐらいで、あまり感情的になるようなタイプではなかった。たまにホワっと柔らかな表情で笑ったり、バンドマンのわりに穏やかでゆっくりとした口ぶり。そんななので、琥珀と同い年なのに、彼と接していると、まるで弟か妹がいるような気分になったりもする。話していると、口調が少し柔らかくなるよう、つられてしまうのだ。

 しかし、そのドラムスタイルは力強くも繊細、そして正確で芯が通っている音で有名だった。

 響きが硬く、綺麗に通る音は、いつも気持ちよく琥珀の後ろを支えてくれている。その音は生できくと、ぞくぞくと体の奥に響いてくるのだ。

 ライブで熱くなるとドラムソロで走ることもあるが、非常に正確なリズム感、けれど、それだけでは収まらない勢いのあるドラムを叩くことで、同業者のファンや男性ファンが非常に多い。手数の多いドラムが特徴的で、二つのバスドラムを中心に要塞のように囲む真っ黒なドラムセット。それが彼の細い体を取り囲んでいる様は、ライブで見てもかなりの迫力だ。

 それが、ロボットみたいで恰好いいんよね! そう、いつだったか蛍が言っていた。ベースでリズムをとるときに、よく振り返るのだが、彼のドラムセットのいかつさを見ると、テンションがあがるらしい。

 身長は琥珀と同じぐらいなのに、体重はとんでもなく軽く、そして、体脂肪率は測定不能という筋肉質。吹けば飛びそうな体で猫背なのに、その実、誰よりも筋力があるのに、よく驚いたものだ。

(透輝くんは問題ないのかな……いや、でも蛍の時と同じく、俺が何も気づいてない可能性だってあるよな)

 実は透輝のことをあまりよく知らない。下戸らしく酒も飲まない、女性関係についても聞いたことがない。趣味としては、ゲームが好き、ぐらい……個人的にあまり話したこともないが、居心地はいい人、という認識だ。

 彼女はいたりいなかったりのようだが、蛍が打ち上げで「最近どうなん?」なんて話を振っても、うまく躱されているところしか見たことがないので、まあ、誰もそのあたりはよく知らないのだろう。

 実家は千葉だったと思うが、中学から都内に出ているらしく、遊び方が都会の人、という印象だった。神奈川の端の方から出てきた琥珀は、最初都会の夜には馴染めなかったが、透輝は同い年なのに全然その場に馴染んでいたように思う。

 かといって、夜遊びを激しくする方でもないと思う。バンドも好きだし、クラブミュージックや打ち込み系も好きで……けれど、音楽だけを純粋に楽しんでいるという感じだ。

(透輝くんが感情的になったところなんて見たことないしな……それを言うなら大弥もそうだけど)

 次に、琥珀はちらっと部屋の奥にいる大弥を見た。

 蛍とライブの位置について話し合っているようだ。舞台の具体的なイメージがあがり、セットリストや演出についてもイベンターから送られてきていた。

 演出は透輝がメインで相談してくれているが、どれもこれも光の演出が美しく、とても楽しみな仕上がりになっていた。そのデモを見ながら二人で話しあっている。

「大ちゃん、ここの曲の時の立ち位置やねんけど、この時だけコーラスマイクいらんから、俺も上手側に自由に動きたいんよなー」

「ああ。ええよ。俺、ここでそっちに行くわ。交差しよっか」

 そんな会話をしているのが聴こえてくる。

 蛍と大弥は一つ歳の違う幼馴染らしい。こうやってたまに二人で会話する時には関西弁が出ることもあるが、大弥は早くに引っ越したらしく、今ではほとんど関西の訛りは出ないようだ。

(大弥と最初に会った時は、なんか冴えない感じだったんだよな)

 最初に見た大弥は、いかにも真面目な大学生という感じで、目までかかった髪ももさっとしていたし、服装も派手ではなかった。彼がまだ名古屋で大学生をしていた頃だっただろうか。確かに目つきは昔から鋭いので強面と言えなくもないが、今ほど尖った印象はなかった。

 けれど、のちに彼が奏でるギターの音、そして作曲してきた曲の美しさに魅せられたのは琥珀だけではない。蛍は昔から大弥の才能を心酔していたし、透輝も「彼、すごいね」と目を見開いてそのギターの音に聞き惚れていた。音作りについてはそのぐらい次元が違う。正に天才だ。

 都内の大学院に進学した頃から、本格的にバンドのサポートに入ってくれたが、バンドはあくまで趣味。就職か大学に残るつもりだったという。

 けれど、STONESに本気で加入してほしいと、彼のことを三人で口説き落したのだ。結果、大弥は決まっていた内定を蹴ってバンドに正式に加入した。

(まさか「決意表明だ」ってあんな広範囲のタトゥー彫ってくるとは思ってなかったけど)

 大弥の胸元から右腕には大きなトライバルのタトゥーが彫られている。それを見せながら「これで後戻りできねえだろ」と笑った顔を、琥珀は今でも覚えていた。

 まったく、そういう意味では予想もつかない男ではある。本音は何を考えているか分からない。

(大弥は大学院卒業してからは、こっちに本腰入れてくれてる。音楽業界の交友関係も広いし……ビジネス的なことは全然だけど、変な奴は切ってるみたいだもんなあ。その辺が超常識人というか……問題が見当たらない)

 そういえば、さっさとタイトを切れと苦言を呈されていたことを思い出した。そういう意味では大弥はいつでもしっかりしていたように思う。

(やっぱり、分からない……ってなると、透輝くんの方だけど。音楽オタクでゲームオタク……ううん、俺、ゲームも下手くそだし、今更共通の話題なんて)

 蛍のことがあってから過敏になりすぎているのだろうか。気にしすぎか? と自分でも思ったりはするのだが、琥珀はどうにも不安を拭えないのだった。



 ツアーの初日・二日目を終え、ある意味予想通り何も起こらずに、琥珀たちは次の週末のライブに向けて準備に入っていた。

 武道館の次は大阪のオリックス劇場、名前は何度か変わっているが、歴史あるホールである。

 キャパシティ的には広さはないものの、音響が良くて楽しみな会場だ。前日には梅田の大きなショップでリリースイベントがあり、そこにも多くのファンが駆けつけていた。

 特典会などはないものの、そこでもミニステージがあるため、なかなかハードなスケジュールだ。大阪では土日だけでなく、次の平日にもライブがある。

 そして、そのあと、もう一箇所でリリースイベントがあって、年末年始をはさんでから、次の名古屋に移動……今度は平日のライブから始まって、中日をあけてから土日の連続ライブ。頭では分かっていたが、いざ始まるとなると負担がきつい。

 琥珀は現場であるホールに入り、リハーサルの準備をしながら、楽屋で鏡に向かって口をかぱっと開ける。どうにも口も喉も開きが悪い。

(喉きついな……色々ケアしてなんとかもってるけど、始まる前からもっと調べておくべきだった……)

 あーあー、と発声をしながら、裏で忙しそうなスタッフの合間を通り抜ける。

 楽屋から舞台に行くまでの廊下を抜けると、無人に見えた楽屋の奥で、うえっと誰かがえずくような音がした。それに驚いて中を覗き込む。そこには口元を押さえて俯いている透輝がいた。

「透輝くん!? 大丈夫!?」

「あ。琥珀くん……」

「なんかどっか具合悪い……?」

「違う違う。ちょっとこれがまずくてさぁ」

 苦笑いをこぼす透輝は、これ、とプラスチック製のボトルを見せた。ドロドロっとした液体が入っているそこからの異様な匂いに、うっと琥珀は顔をしかめる。

「何この匂い……!?」

「プロテイン。俺、ツアー入るとどんどん痩せちゃうから。でも、ライブ前後、あんまり腹に物入んないし。液体ならいけるかと思ったんだけど……味アレンジしすぎて不味すぎたんだよねー。飲むんじゃなかったよ」

「あー、いつもどんどんパンツがぶかぶかになってくもんな」

 そういえば、透輝はインディーズ時代からライブツアーが始まるとどんどん痩せていくことで有名だった。元から細いのに、腹回りなどぺたんこになってしまい、琥珀も驚いたものだ。

 蛍がよく「内臓どこいってんそれ……」と呆れていた。けれど、もう慣れた話なのか、透輝はへらっと笑いながら、これ、マジでまずいや……とボトルの中のプロテインを諦めたようだ。

「うーん、ライブ前後で体重かなり違うしね。二キロぐらい落ちちゃうことあるし」

「うそ!? ライブの前後で? それは……ちゃんと食べないと」

「次の日になったら食べられるから、ちょっとずつ戻してるよー」

 あははと透輝は笑うが、確かにこのツアーに入る前よりもだいぶ細くなっていることにハッとする。あまり日をおかずに会っているから、気づいていなかっただけかもしれない。

 本当に大丈夫なのかな……と琥珀が心配に思っているのを察したのだろうか、透輝が話題を変える。

「そういえばさー」

「ん?」

「大弥くんの新曲、どう思った?」

 春リリースの新曲を大弥が今必死で作っている。

 なかなか形が見えず、この前も二人でスタジオにこもって色々な話をしたが、最終的には大弥に任せるしかない。

 ようやく上がってきたデモ版を聞いたが、音域は「Refrain」と同じぐらいに広い。いや、低音を含めると新曲の方がより難しい仕上がりとなっていた。琥珀は素直に、うーん、と首を傾げた。

「いや、ちょっと難しすぎてライブで歌いきれる自信ないな。あれ、俺、ライブで声裏返っちゃうかもしんない」

「……そっか」

「? 透輝くん? どうかした?」

 今度の新曲はツアーの後半、凱旋公演でお披露目するつもりである。なので、ライブで失敗するわけにはいかない。

 変調子の箇所もあって、あそこなど、透輝が崩れたらライブではひどいことになるだろう。思ったことは一緒だったのか、透輝はまた眉をひそめて笑った。

「いや、俺も難しいなって思ってさ。でも、大弥くんの曲だから、頑張らないとね」

 そうだな、と琥珀が応えると、透輝はふわあっと大きな欠伸をする。その緊張感のなさに、琥珀は呆れて笑ってしまった。

「透輝くん、またゲームのやりすぎ? ちゃんと寝れてる?」

「大丈夫だよー」

「透輝さん、そろそろ時間で……あっ、琥珀さん」

 二人で会話をしていると、マネージャーの上田が部屋にやってきた。

 琥珀がいるとは思わなかったのだろう、遠慮している上田に「もう話終わったよ」と透輝の前を譲る。しかし、上田はその小さくずんぐりな体を揺らし、何かを琥珀に言いたそうにしていた。

「あの、琥珀さん……」

「ん? なに?」

「ねえ、上田くん、こっち? あっち側?」

「あっ、すみません! なんでもないです。失礼します! はい、そちらです!」

「?」

 上田の態度に妙だなと思いつつも、琥珀はちらっと透輝の置いていったボトルを見た。

 プロテインなんて飲んでたんだ。確かに食が細いもんなあ、なんて呑気に考えて、自分の喉に手を当てる。

 自分も何かケアを考えないと……震える喉を押さえながら、あー、と琥珀はまた静かに発声練習を繰り返す。


 そうした数週間後、琥珀は名古屋のホテルで「大変です!」と駆け込んできた伊藤の言葉に絶句することになる。


 それは、透輝が事故で入院したという報せであった。






 深夜の病院にバタバタと関係者が集まってくる。時刻は深夜の二時半、今日の昼から名古屋のホールに入ってリハーサルが始まるという時であった。

 昨日の昼、琥珀と蛍は名古屋内のショップでトークイベントしており、会場には大弥と透輝が入って、現場のチェックをするという分担だった。

 しかし、大弥と話しても前日は別に変わったところはなかったという。誰も何もわからないまま、バタバタとメンバーとマネージャーだけで病院に向かう。

「上田くん、透輝くんの様子は……!」

 病院の廊下にはガタガタ震えたままの上田がいた。

 上田も自分たちより先に病院についただけで、おそらく、状況についてはほとんど分かっていない。それを琥珀も他のみんなも分かっていたが、焦れた蛍が思わず叫ぶ。

「上田!! 透輝くんはどうなってるんや! あと、車の事故て、他に被害者は!?」

「蛍、落ち着け。病院だぞ」

「っ、ごめん……」

 大弥に抑えられ、蛍は黙ったものの所在なく爪を噛んでいる。奥にある部屋の入り口では、手術中のランプが光っていた。

 上田がどの状態の透輝を見ているのかも分からない。しかし、上田はなんとか呼吸を整え、その小さく丸い体を縮めて、震える声で話し始めた。

「と、透輝さんは……手術中です……自損事故で、他に被害はなく、深夜だったので……気づいた近所の方が救急車を呼んでくださいました……っ! い、命に別状はないそうです……っ」

 その言葉に全員が、はーっと大きな溜息をついた。けれど、大弥が静かに次を尋ねる。

「手術って……どの程度の? 頭を打ったとかじゃないだろうな?」

 そう訊くと、上田の体はガタガタと震え出し、必死で口元を抑えて何かを堪えている。それに全員が緊張して言葉を待つと、上田は言葉をかすれさせながらも続けた。

「車が転倒して……み、み、右の腱が……危ないかもって……」

 その言葉に全員が息を飲んだ。空気が止まった瞬間、上田がその場に崩れ落ちる。

「僕が、僕がちゃんと止めていれば……っ! 透輝さん、ずっと、ずっとオーバーワークで、だから……っ」

「上田くん、落ち着いて……どういう……?」

 はっと琥珀はこの前の上田の視線を思い出した。もしかして、あの時、上田は自分に何かを相談したかったのではないだろうか。

「透輝さん、ずっと別借りしてるスタジオで、練習してて……、ライブの日程もきついのに、眠れてなくて! 睡眠薬も効かないって飲んでくれないし、でも、この前やっと処方変えてもらって、だから、自分で車は運転しないでくださいって……」

 上田の言葉をどう捉えたのか、思わず蛍が叫ぶ。

「っ、なんのためのマネージャーやと思ってるねん! 俺らに一言ぐらい言えや!」

「蛍!!」

 激昂した蛍をまた大弥がなだめている。その場にうずくまって、丸い体を震わせ、すみませんすみませんと繰り返す上田。琥珀は彼の体を支えると、手術室から離れたところに連れていくことにした。

「上田くん、あっちに行こう。大弥、蛍のことは任せた」

「ああ」

 夜の病院は不気味なぐらいに静かであった。

 病院など滅多にくることはないが、と思って、自分運ばれた時に見た天井を思い出す。

 あの時は視界がほとんど潰れていて、何も覚えてないに等しい。そう言えば、あの時の自分の体はどうなっていたんだろう……そんなのも、遠い未来の話のはずなのに、もう無くした記憶のように薄れていくのだから、人間とは不思議なものだ。

 手術室から少し離れると誰もおらず、月の光が差し込む休憩所を見つけ、琥珀はそこに上田を座らせることにした。静かな夜に鈍く光る自動販売機。そこでコーヒーを二つ買うと、上田に向き合って、それを渡した。

 彼の涙はまだ止まっておらず、体はガタガタ震えている。一番ショックなのは、ずっとそばにいた上田だろう。蛍の気持ちも勿論わかるが、琥珀は彼に向き合い、大丈夫か? と声をかけた。

「上田くん、ごめんな。蛍は透輝くんとはリズム隊で仲がいいから……自分の気持ちが処理できずに、君に当たってしまっただけなんだと思う」

「っ……違うんです、僕が、僕が悪いんです……っ僕が、透輝さんの無茶を止められなかったから……!」

 まだ指の震えている上田に代わって、缶コーヒーのプルタブを開けてやる。それを受け取ってハッとした上田はコーヒーを一口飲むと、ポツリポツリと透輝のことを語り始めた。

「透輝さんは、す、すごく……ストイックな方で……僕もこんなに近くにつくまでは、ただ秀才肌なのかなと思っていたんですけど……」

 上田は、琥珀が予想もしていなかった「本当の透輝」を語ってくれた。

 メンバーとの仕事が終わったあと、必ずスタジオに寄って練習して帰っていること。毎日毎日ドラムを叩き続けていること。体力作りのために誰にも言わないでとジムに通っていること、それでも体重がどんどん減ること……若い頃の病気で食が戻らないのを気にしていること。

「病気……そんなの聞いたことなかった……」

「食道と胃腸が弱いんです……。栄養吸収にまだ難があって……甘くて冷たいものだけは飲めるからって、ああいうものしか。でも、本当はずっと本人も食べ物がしっかり食べられないのを気にしてました……。けど、バンドの活動が軌道に乗り出して、忙しくて生活改善が後回しになっちゃって……!」

 ツアーが始まってからの透輝の生活は、琥珀が想像していたものとは随分違った。

 ライブでどんどん痩せていく体を気にして、食べようと思っても食べることができない。元々のストイックさもあって、練習量は減らさず、オーバーワーク気味。休みたいのに休めず、眠れなくなっては部屋でドラムを叩いていたことも。不眠がひどくなり、どんどん集中力がなくなっていく。

 けれど、なんとかライブに力を注ぐために、無意識でも叩けるようにと、より練習をしてしまう。いつその緊張が途切れるのか、側で全てを知っている上田は気が気でなかったという。けれど、ライブだけは完璧にこなすものだから、メンバーは気づかなかった。いや、気づけなくて当然だった。

 上田はあまりに心配で、メンバーの誰かに相談した方がと本人に話したが、心配はかけたくないから誰にも言わないでね、の一点張りであったという。

 元々ストイックな部分を見せたくない人だから……と上田も思っていたらしい。しかし、今から思えば、心身ともに疲れた透輝には、もう正常な判断ができていなかったのかもしれない。

 睡眠薬が効かない、もし効きすぎて起きれなくても困る、と上田はツアー中、透輝の部屋に泊まり込んだり、地方のホテルでもツインにしてもらっていた。

 けれど、夜中に目覚めたら、透輝の姿は既に部屋になかった。こっちで借りている車のキーが消えていることに気づき、慌てて電話をかけた時にはもう……

 そこまでを語り、上田は嗚咽を漏らした。震える丸い肩、いつも明るく支えてくれていた上田が、こんなに取り乱すところは初めて見た。琥珀は、自分を責めすぎないで、という言葉をかけるのが精一杯であった。

 琥珀はもう今は見えない手術室のランプを思い出しながら、まだ手術台の上にいるだろう透輝に祈る。

「透輝くん、こんな夜中に車で一体どこへ……」

 睡眠薬で浮かされていたのか、それとも眠れなくて車で気分でも変えようと思ったのか。透輝が何を考えていたのか、それをまだ知ることはできない。



 数日後、ライブはもちろん中止となり、SNSには透輝を心配する声にあふれていた。

 本当ならば、もう数日あけて名古屋の別会場で二日間のライブを行う予定だったので、琥珀たちもそのまま名古屋に残っていた。

 透輝の意識は回復し、今日から見舞いもできるということだ。マスコミへの対応もあり、夕方の面会時間ギリギリになってしまったが、琥珀は伊藤と共に透輝の病室に向かった。個室にそっと入ると、透輝はベッドの上に起き上がっていた。その姿にホッとする。

「琥珀くん。……ごめんね」

 なんと言ったらいいものか、という空気が流れたが、琥珀は見舞いの花を見せて、それを伊藤に渡す。

 二人にしてほしいという意図はすぐに伝わったようで、彼はすぐに花瓶と花束を持って部屋を出て行った。

 ベッドのそばにある丸椅子に座る。包帯に巻かれたままの両腕が痛々しいが、彼の利き腕である右の方には更にいろんな支えが入っているようであった。それをあまり見ないようにして、透輝に話しかける。

「ファンが心配してるよ」

「本当に申し訳ないことになっちゃって」

 へらっと透輝は笑うが、琥珀が気にしていることに気づいたのだろう。右腕を少しばかり持ち上げると、力なくそれをベッドに落とした。琥珀は何も言えなくなってしまう。

「……」

「日常生活はリハビリ次第かな……。もうドラムは無理だと思う」

「そんな……今からそんなこと」

「自分の体のことだから分かってる。何年かかっても、もう元には戻らないよ」

 あっさりと諦めたように言う透輝だったが、上田くんとも話してくれたんでしょ、ありがとうね、と話を続けた。

「上田くんがずっと泣くんだよ。俺のせいなのに、自分を責めて……俺が全部悪いんだよね。上田くんはずっと気にしてくれてたのに、誰にも言うなって言ったのは俺だから。どうしても皆に置いていかれたくなくて、焦って、隠れて無理ばかりしてさ」

「置いていかれるって……何を言って……」

 透輝の発言に一瞬言葉を失ったが、琥珀は本気でそう思っていた。

 けれど、透輝は力なく首を振る。

「俺は不器用だから、人の何倍も時間がかかる。そのうち、大弥くんの目指したい曲は、俺では叩けなくなるかもしれないなって思ってた」

「っ、そんなこと絶対にない!」

「……琥珀くんには分からないかもね」

「え?」

「ごめん。まだ余裕がなくて、変なことばっかり言っちゃいそう」

 帰ってほしいかも、と言って、透輝は窓の方を向く。

 目もうまく合わせられなかった。自分も向こうも。きっとそれが全てを物語っている。

 うん……と力なく答えた琥珀は椅子から立ち上がり、あのさ、と小さく呟いた。

「ひとつだけ聞いてもいい?」

「何?」

「あの夜、車でどこに行こうとしてたの?」

 その言葉に透輝は一瞬ぴくりと震え、そして、窓の外を向いたまま、息をついた。空は冬の夕焼けに赤く染まっている。静かに時計の針が動く中、しばらくの沈黙の後に透輝が呟いた。

「……海だよ」

「え?」

「……もう、琥珀くんは覚えてないか」

 諦めたような声に、後ろ髪を引かれる思いだった。

 けれど、透輝は窓の方を向いたまま、琥珀のことを振り返りはしなかった。





 名古屋にいる間に、関係者で集まって今後についての打ち合わせが進められた。

 ツアー前半については中止を決定し、払い戻しや振替日程未定の旨は公式サイトやSNSで経緯説明をした。

 透輝の状態はまだ世間には伏せられている。

 ホテル内の一室を借りて、その報告会議が終わったあと、蛍が残りのメンバーとそのマネージャーだけを残して話があると切り出した。

 緊張した空気の中、蛍が重い口を開く。

「……昨日、お見舞いに行ったんやけど。透輝くんからバンド抜けるって言われた」

 全員が予想したことではあった。しかし、実際の言葉になると重みが違う。その重苦しい雰囲気を断ち切るように蛍は慌てて続けた。

「勿論断ったで!? もうちょっと時間をおいて考えようって。でも、透輝くんは……自分の目処の見えない先のために、今のバンドの流れを止めることはできないって……止めたくないって……」

 蛍がそう告げたあと、全員が黙り込んだ。誰が口を開くのか、どうにも空気が変わらない。けれど、大弥が一番最初に小さな溜息をついた。

「それはそうかもな」

「大ちゃん!!」

「俺が透輝くんでもそう言うと思う」

 その言葉に、蛍が大弥に掴みかかった。

「誰もが大ちゃんみたいな天才じゃないってこと、分かってるんか!? よく、そんなことをあっさり言えるな!?」

「……俺は天才じゃないよ」

 その言葉に更にカッとなったのか、蛍は大弥の頬を殴りつけた。それに焦って琥珀が彼を止める。周りのマネージャーたちは呆然としていた。

「っ、蛍!! お前、この前からおかしいぞ!」

「ご、めん……社長にはツアーサポートとしてのドラムでいけないかって話をしたところやったから……透輝くん自身が諦めるなんて、ちょっと、俺には受け入れがたくて……」

 蛍の混乱も戸惑いも分かる。けれど、彼はこんなに不安定ではなかったようにも思う。

 琥珀は自分の最初の未来、もう遠い過去、自分はいったいこのメンバーたちの何を見ていたのかと悔いた。

 それとも、やはり自分が過去を変えてしまった影響なのだろうか。

 このツアーはやっぱりなかった方が良かったのか? 

 自分の過去を、未来を、変えるべきではなかったのか? 

 やはりこのバンドは何かに拒まれる運命だったのだろうか……。

 蛍に殴られた箇所を抑えている大弥は冷静に見える。そばにいる彼のマネージャー、石田はオロオロしているだけであった。

(大弥は……前と変わりないように思うけど……)

 蛍や透輝にこんなに弱い部分があるなんて思ってもみなかった。しかし、知らなかっただけで、元からあった人間の性の一つなのかもしれない。琥珀は自分の過去と今を省みた。

(俺は……自分がフロントマンだからと虚勢を張っていただけで、自分に自信があったわけじゃない)

 人から褒められる声も歌も……どこか半信半疑だった。

 だから、デビューして叩かれたのも、ボロが見え始めたのも、自分の才能がないからだと思って。

 問題を起こした時に、あんな心にもない虚勢を張ったのも、弱さの表れだ。

 この前の透輝の言葉を思い出す。まるで過去の自分だ。目の前のことをやるしかないとがむしゃらに突っ走り、信頼していた人たちに弱さを見せられず潰れていった自分。形も経緯も違えど、蛍も透輝も自分と同じような悩みが、酷い結果となって現れてしまった。

(どうして、俺も蛍も透輝くんも、弱さを受け入れられないんだろう)

 だから、こうやってねじれていく。

 人が人であるからこそ、素直に支えあうことができない。

 それは虚栄か? 意地か? 不信か? 

 ……これだけ近くにいた四人ですら、何も分からないのだ。

 所詮は他人。……けれど、どうにかして支えたいと思う。琥珀は机の下で硬く拳を握りしめた。

 蛍は琥珀に止められたことで少しは落ち着いたようで、頭冷やしてくるわ、と部屋を出て行った。マネージャーの青木がそれを追う。

 残った四人の間に沈黙が流れた。大弥に、平気か? と尋ねると、ああ、と軽く手をあげて応えられる。大弥は何かを考えて、ふとその会議室の窓から外を見つめた。

「名古屋の打ち上げは、どうせなら四人で海に行きたかったよな」

「え?」

 不意に聞こえた大弥の言葉に琥珀は顔を上げる。

「……なんでもねえよ」

 そう彼は言ったけれど、透輝も言っていた。「海に行きたい」……どうして? 

 その海のことを、琥珀はまだ思い出すことができなかった。



 先の見えない暗雲の中、琥珀はもやもやとした気持ちを抱えたまま名古屋を発つことになった。

 何が起きても時は流れていく。伊藤に言われるままのスケジュールをこなすのに精一杯で、他には何も考えられない。それは蛍や大弥も同じかもしれない。

 そうしているうちに名古屋滞在の日程が終わり、予定通り都内に戻ることになった。名古屋で借りたレンタカーは伊藤が運転しており、そこにはちょうど同じタイミングで移動する大木も乗っていた。

 名古屋の間、あまり会わなかったね、と話していると、どうやら彼女は名古屋でのリリースイベントの広報がメインで、ライブ現場にはあまり来ていなかったらしい。たくさんの荷物を持って、少し疲れた顔をしていた。

「本当はセントレアでもライブでしたよね。あそこって、音響いいんですか?」

「いや、ハコ的には微妙かな……今回は結局セット組んでないけど、まあ、名古屋でキャパ考えたらあそこかガイシに……」

 そこまで言って、琥珀はふと気づいた。

 ――海。そうだ。海だ! 

 名古屋市内を走っていたが、思わず伊藤に声をかける。

「伊藤、新幹線って時間変えてもいい?」

「? ええ、大丈夫ですが。どうかしましたか?」

「大木さんは、時間って平気?」

「あっ、はい! 全然平気です!」

「……海に行きたい」

「え?」

「海に行きたいんだ」

 琥珀の言葉に、伊藤も大木も一瞬言葉を失ったが、はい、と車は進路を変えた。



 結構な時間、車を走らせていた。

 愛知県って結構広いんだね、いつだったか……そう、「あの時」、透輝も四人を乗せた車を運転しながら言っていた。

(どうして忘れてたんだろう……)

 伊藤は長い付き合いなのもあって、琥珀に理由を聞かなかった。大木も疲れているんだろう。うとうとしていたので、遠慮せず寝ていいよ、と言うと秒で寝てしまった。

 琥珀はずっと起きたまま、ヘッドホンでアルバムの曲と大弥からあがってきた新曲を聴き直していた。車は静かに進んでいく。

 昼も過ぎようとしている頃、海が見えた。

 なんで忘れていたんだろうか。別になんの変哲も無い海である。

 けれど、昔確かに来たその場所には、大切な思い出にあふれていたはずなのに。

 琥珀はやはり過去の自分を恨んだ。大事なことまで酒と薬で忘れてしまったこの脳。一瞬の栄光と挫折を忘れたくて、もう靄のかかってしまったアルバムは、大事なページまでをも閉じてしまっていたのだ。

 冬の海というイメージとは裏腹に、その静かな海は波も立っていなかった。昼の日差しが乾燥した空気を通って水面を煌めかせている。

 そんな風景は思い出の中にはない。琥珀たちが海に来るのは、いつだって夜だった。

 インディーズのツアーを回っていた頃、自分たちで運転していたあの頃、小さなワゴン車に機材を積んで、打ち上げでラーメンをすすり、そして、海があればそこまで車を走らせたりした。

(思い出した……やっと……)

 前にきた季節は思い出せないが、ここまで寒い頃ではなかっただろう。

 名古屋のライブハウスでの公演を終え、当時はまだサポートメンバーだった大弥の案内で、名古屋飯を食べに街を回った。高校・大学を名古屋で過ごしていた大弥はいつものライブよりもテンションが高くて上機嫌だった。

 一人だけ下戸で酒の飲めない透輝は、いつも車を運転してくれていた。彼は運転がうまくて、荒れることもなかった。いつも運転手なのも、文句も言わず、俺、運転好きなんだよね、と笑っていたことも思い出す。

 その夜、他の三人は結構酔っていた。その酔っ払いの誰かが「海に行こう!」と言い出すのに呆れつつも、透輝は海を目指して車を走らせてくれた。

 透輝の髪はまだボブぐらいの長さで、大弥はまだ黒髪で真面目な格好をしていた頃だったんじゃないだろうか。

 しかし、勢いで来てみたものの、当時、夜の海なんて何もない。それに若干酔いをさまして、四人で並んでコーヒーを飲みながら、ただただ静かに海の音に耳を傾けていた。

 白い息が上がる中、寒いな、帰ろうかと思った瞬間だったように思う。

 ボソッと大弥が「曲作ってみた」と言ったのに驚いたのは、三人ともだった。

 今までサポートに徹してくれていた大弥。彼に正式加入をお願いしたいのは三人の共通意志だったが、大学・大学院と順調に学歴を重ねる大弥に、それを言うのを戸惑っていた頃だったのだ。

「俺、今の家にギターしかないから、ギターの録りだけなんだけどさ。聞いてみてくれねえ?」

 そう言って、普通に動画で撮ったギターの曲を聴かせてくれたわけだが。そこで琥珀は、いや、三人同時に震えたことを思い出す。

 その時、大弥が聴かせてくれたのは、のちにRefrainの原曲になるものであった。

 どう曲をアレンジしたり音足したりしたらいいか全然わかんねえんだけど、と笑う大弥に唖然としていた。

 それまで、大弥が曲を作るというのは聞いたことがない。

 昔、中学の頃からギターアレンジは上手かったんよなーと蛍は言っていたが、今は琥珀や蛍の作る曲のギターソロを作ってくれるぐらいだ。そのソロの音階も独特で、それもまた三人とも好きだったのだが……これはそのイメージとも違う。

 繊細で、それでいて広がりのある音の幅。

 そう、例えるなら、この目の前の夜の海のよう。

 真っ暗な海、ぼんやりと浮かぶ月光に、一つの小さな小さなガラス玉が煌めいている。そんな絵が琥珀の心の中に広がった。

 大弥が曲の出来を気にしているのは分かるが、琥珀は「バンドにギターとして正式に入らないか」という言葉を言い切れずにいた。

 大学院で建築を学んでいる大弥の学歴、その約束された未来のことを思うと、その言葉を無責任に発することができなかったのだ。

 そんな沈黙の中、最初に口を開いたのは、意外にも透輝だった。

「大弥くんは、もっと曲を作るべきだよ」

「え?」

「STONESに正式に加入してほしい」

 その言葉をまさか透輝が言い出すとは驚きで、酔っていた琥珀と蛍は慌てて「俺が言いたかったのに!!」となぜかそれを争った。

「えっ、いま!? 今、言う!? 言うなら、リーダーの俺からちゃうの!?」

「俺だって、今言おうとして迷ったのに!? 透輝くん、ずるいな!?」

 そんな風にやいのやいの言っている三人。大弥は少し困った顔をして「考えとく」と言ったけれど、そのしばらくした後、最終的には就職内定を蹴ってバンドに正式加入することになる。

(そうだ……あの日、いろんなことが変わったんだ)

 近くにある展示場、そう、そこから見えるセントレアの展示場は、愛知県ではドームやガイシホールの次に大きなキャパシティを持っている。

 あそこを使うぐらい広い会場でできるバンドになろうぜ、と蛍と琥珀は言っていたような気がする。

 本当は今回、ここにもツアーの後半で来るはずだった。

(あの時、透輝くんは大弥の才能に触れたんだな)

 ずっと分かっていた。

 大弥だけは特別だということ。

 蛍は幼い頃からそれを知り、透輝はおそらくこの海で大弥の才能に魅入られたのだろう。

(そんなの……俺だって)

 初めてあのギターの繊細な音を聞いた時から、この海でRefrainの原曲を聞いた時から、初めて本格的なレコーディングをした時から……何度だって大弥と自分は違うと思っていた。

 過去に思いをはせる琥珀に、伊藤が何気なく問いかけてくる。

「琥珀さん、海好きなんですか?」

「昼は嫌いかな。焼けるし」

「じゃあ、なんで……」

「夜に皆で来るべきだったなって思い出した」

「え?」

「なんでもないよ」

 伊藤と話していると、昼間とはいえ、風の冷たさに震えた。

 ちょうどいいタイミングで大木が缶コーヒーを持ってきてくれる。琥珀が手袋を外す間も無く、プルタブを開けながら、どうぞ、と渡してくれた。

「サンキュ」

「今の時期はホットで大丈夫ですよね」

「流石にアイスだと困るかなー」

 あの頃も飲んだ缶コーヒー。商品は変わらないはずなのにパッケージはこの数年でだいぶ変わっていた。あの時も透輝くんは甘いカフェオレ飲んでたな、なぜだかそんなことだけは鮮明に思い出せた。その過去を思い描きつつ、車に戻る。

「ごめんな。二人とも付き合わせて」

「いえ、全然大丈夫ですよ! ドライブでいい気分転換になりました!」

「私もご一緒できて嬉しかったです」

「あっ、そういえば、大木さん、**の収録の代理の件なんだけど……」

「ちょっと待ってください。資料出しますね!」

 伊藤と大木は気分転換になったのか、仕事モードに入っている。

 琥珀は逆にドッと疲れが出たのだろうか、それとも過去への回想に頭も心も疲れたのか、急にうとうとと眠くなってきた。

(これからどうなるんだろう……)

 透輝以外のドラマーを見つける? そんなことができるだろうか。

 サポート前提でと社長と蛍は代理のメンバー探しに動いてくれているらしいが、正式なメンバーに迎え入れるとなるとまた違う。ファンの抵抗もあるだろう。そんな未来を想像しては、体が寒さとは別の理由でぶるりと震えた。

 やはり、琥珀の中で、バンドの中で、透輝はやはり替えのきかない人物だという気持ちが大きくなっていく。

 特にライブに演出であったり配信MVの見せ方であったり、バンドの感性の見え方は透輝が作ってきたものだ。なくてはならない存在なのに……。

 透輝の言葉を思い出した。……「このままでは置いていかれてしまう」

 どうしてそんな風に思わせてしまったんだろう? 

 全員が全員、このバンドにはかけがえのないものなのに。

(どうして気づけなかったんだろう。透輝くんがあんなに弱っていたことに)

 思い出せば、クマを濃くしていた彼に「本当にゲーム?」と聞けばよかったのではないか。

 何か言いたそうにしていた上田に、どうしてこっちから声をかけなかったのだろうか? 

 どうして、自分はここまで気づけなかった? 

 一体、なんのために、ここに戻ってきたんだ。

(クソっ……なんで……こんな……この四人じゃなきゃ意味がないんだ! このバンドは……!)

 目を閉じると後悔ばかりだ。鼻の奥がじんわりと熱くなる。

 泣いても仕方がないことは分かっている。今は自分にも休息が必要だ。そのぐらいは分かっていた。

(疲れた……少し、疲れたな……)

 俺が倒れたら元も子もない。

 そう思った琥珀は、静かに揺れる車の中、ゆっくりと目を閉じた。



「琥珀さん? 着きましたよ」

「ああ、ごめん……すっかり寝てて……」

 伊藤の声に琥珀は目を覚ました。ぼうっとしながら助手席を見ると大木はいない。もう新幹線に乗ったのだろうか。

(……ん?)

 自分の座っているシートを見ると、さっきまで乗っていた車ではなかった。

 見慣れた車内。自分のいつも使っているティッシュボックスカバー。

 ……いつもの移動車だ。

 それに気づいた瞬間、どくんどくんと胸の音が跳ね始める。――まさか。

 伊藤はそれには気付かず、車を停めると、キーを抜いた。

「昨日、遅かったらしいですね。蛍さんから僕にも連絡来てましたよ~今日は遅れても大丈夫だから寝かしてやれって。遅刻にうるさい蛍さんがですよ? 珍しいですね」

(これって……)

 琥珀はそっとスマホの画面を見た。

 通知には蛍からのメッセージ。「昨日はありがとう。今日もよろしく」……蛍の問題を解決した翌日の会話だ! そう気づいた瞬間に日付を見る。日付は十月十日を示していた。

 その数字に琥珀は目を見開き、そして確信する。


(また……戻った……!?)



 それからの流れは琥珀の記憶の通りであった。

 佐伯は退任、その後任を矢賀が引き受け、もともと進んでいたSTONESの今期のプロジェクトを進行してくれることになる。

 矢賀は現在配信畑ではあるが、元はイベンターからレコード会社に転職したという。そんな彼は現場のこともよく知っており、ライブについての話はスムーズであった。

 今度のアルバムはデビューシングル「Refrain」をメインとしたインディーズ時代の曲のリメイクがメインである。十一月十一日のアルバム発売日と同時にライブツアーの緊急日程発表、翌日からチケット先行販売、十二月十二日からツアースタートという異例のサプライズが行われる。

 蛍と佐伯の問題が解決した頃は、ちょうどツアーの日程について最終調整をしている頃であった。

(佐伯さんと蛍が調整中に揉めてて……確か結構なハードスケジュールをなんとか蛍が調整しようとしてくれたけど、年末だし会場の抑えがどうのこうのって話でいつの間にか決まってたんだよな)

 毎週平日一日、土日の二連続、たまには三連続のことも、というツアー日程。それに加えて、アルバム発売販促のためのミニライブが各ライブの前に現地のショップ開催として入れられており、鬼のような忙しさで年末年始を駆け抜けたことは覚えている。

(矢賀さんは確かに話が分かる人だけど、日程については勝手に佐伯が進めてて、俺たちのところに降りてきた時にひっくり返せなくなってたたはずだ)

 蛍の件で借りを作った気持ちもあるし、矢賀にこれ以上迷惑をかけられないと飲んだところもある。しかし……

(このチャンスを逃すわけにはいかない……!!)

 琥珀がまた過去に戻って数日がたち、矢賀の正式着任後、顔合わせ兼今後についての大きなミーティングが開かれることになった。確かそこでスケジュールが最終確定したはずである。

 アルバム発売、チケット周りの手配についてもギリギリで、事後通達のような形だったことを思い出す。

 そんな会議を控えた中、会議前に立ち寄った事務所でたまたま蛍に会えた。何のプランもないまま、琥珀は蛍に話しかける。

「琥珀。この前はほんまにありがとう」

「いや、お前こそ大丈夫か?」

 蛍はまだ少し疲れた顔はしているものの、大丈夫、と笑っていた。あまり負担はかけたくないが、つい、こういう話は蛍に相談してしまう。琥珀は、ちょっと、と事務所の端に彼を連れて、座って話し込んだ。

「佐伯のことを思い出させて悪いんだけど……お前、ツアー日程のことってどこまで聞いてる?」

「あー……いや、最終固める前のは見せてもろたけど……」

「どんな感じ?」

「いや、正直店舗でのイベントがきつい。ミニとはいえ、数曲ずつライブせなあかんし、特典会とかつくところもあるしなぁ」

 はあ、と蛍が溜息をつく。前に多少調整するとはいっとったけど、事前販促もあるし、最終的には店舗販促イベはかなりねじこんでるやろな……と蛍は視線を泳がせた。琥珀の記憶では、正にその通りである。

 蛍に、あまり佐伯のことを思い出させたくはない。彼との仕事の話をすることは少し気が引けたが、琥珀は、佐伯の作った日程の件、事前に確認して、矢賀さんに相談するか? と話を振る。

「今回の件でお世話になりすぎてるからなあ……なかなか言いづらいとこやわ……」

「そうだよな……」

 琥珀は少し考えたが、その後、ふと話を変える。

「あのさ、透輝くん、どう思う?」

「へ? どう思うってなんや?」

「いや、ちょっとさ、疲れとか」

 そう尋ねると、蛍は、うーん? と首をひねったが、ライブがないと、今は忙しくて絡み少ないからなあ、と本音を言った。

「ライブに入ったら調子のいい悪いは、すぐに分かるんやけど」

「そっか……」

「何? なんか気になることでもあったんか?」

「……」

 琥珀も「目に見えての」透輝の不調は感じていない。しかし、ライブが始まるとすぐに透輝の不調は出てくるはずなのだ。それに対しての焦りもある。まさか未来でトラブルが起きるなどと蛍に言えるはずもない。頭がおかしくなったと思われてしまうだろう。

 琥珀が少し言いよどんでいると、蛍は、そういえば、と顎に手を当てつつ呟いた。

「なんか、今年の夏場はえらい調子悪そうやったなー。俺はあのフラペチーノを飲み過ぎやと思うんやけど」

「透輝くんって食が細いから、どこからあんな体力あるのかって心配になるよな」

「それはそうやな。栄養とか全然考えてなさそうやし。上田のあの肉分けたったらええのに。なんとか三食食べさす方法考えるか? でも、横で上田に「あげるー」とかしれっと流して、本人が食わなさそうやしな。上田をあれ以上肥えさせてもなあ……」

 いけない、蛍のオカン的世話焼き癖が出てきそうだ。いきなり蛍がそうなっては透輝も不自然に思って、ますます自分だけでこっそり……と思ってしまうかもしれない。琥珀は、まあ、本人が元気ならいいんだけど、と言いつつ、ドラムってしんどいよな、と話し始めた。

「いや、スケジュールで一番負担大きいの透輝くんじゃないかなって思ってさ」

「あー、透輝くん、音楽については妥協がないっていうか……完璧主義者やもんな」

「え? 蛍から見てそう思う?」

 琥珀は自分が全く気づいていなかった彼の一面に、蛍は思い当たるのかと少し驚く。

「うん。ライブになると「いつ練習しててん!?」って思うぐらい技術上がってるし。コソ練タイプやもん。その辺、極端なんかなー。俺と違って、ストイックやから、触れて欲しくなさそうやなあとは思ってるけど。まあ、なんせ線が細いからなー! 体力面は確かに透輝くんが一番きついのは間違いないわ」

「だよな。でも、それを理由に日程減らしてって言うのは、透輝くんも嫌がるだろうし」

「それは絶対そう。その辺、頑固っちゅーか譲らんっていうか……。前もツアーでどんどん痩せてくと思ったら、ライブ前後で数キロ落ちとったんやで? マジでビビる」

「……」

 具体的にどうやって日程の調整に入ろうかという案は出てこなかった。しかし、透輝への心配だけが増す。蛍は、これ以上、矢賀に迷惑をかけられないと踏み切れないようだった。その気持ちもよく分かる。

 焦る気持ちだけが増しているうちに、事務所からレコード会社のビルに移動する。矢賀との顔合わせ、そしてスケジュールの最終決定がされる会議となってしまった。ノープランのままである。

 休日だったが、その会議室にだけ結構な人数の関係者が集まっていた。大きなビルの二階にある大会議室。そこにライブ関係者がずらりと並び、真ん中あたりに座っていた矢賀が、さっと立ち上がって琥珀たちを迎え入れてくれた。

 琥珀はもう彼のことを知っているが、ここで初めて矢賀に会う人物も多い。事務所の社長やマネージャーも佐伯の後任については緊張しているようだった。

 しかし、矢賀はとても穏やかな笑顔で、これからよろしくお願いします、また佐伯が大変なご迷惑をかけて誠に申し訳ありませんと、会議の冒頭で全員に向かって頭を下げた。

 蛍と佐伯の件については勿論触れず、ただバンドに迷惑をかけたことをしっかりと詫びてくれた態度に、その場の緊張が緩んだのも分かる。

 それからは事前にしっかりと用意された資料にそって、これからのスケジュールやツアー後の中期的な話についても説明がなされた。

 直近のツアースケジュールについて、全員がさっと確認しようとした時、矢賀がちょっと待って、とページをめくる手を止める。

「佐伯の組んだツアーと店でのイベントスケジュールなんだが、これ、結構厳しくないか? あいつ、こんなの通したのか?」

「!!」

 一つ前の過去ではこんな話は出なかった気がする。琥珀がそれに口を挟もうとしたが、矢賀はタイミング悪く、逆側にいる大弥の方を見て、どう? と向こうに話を振っている。

 大弥は矢賀にはほとんど面識はなく、今日が初対面に近いはずだ。戸惑いながらも「俺は大丈夫ですけど……」と答えた。琥珀は思わず拳を握ってしまう。そして、ハッとしたように透輝の方を確認した。透輝はスケジュールの紙を見つめながら、口元に手を当ててブツブツと何か言っている。その顔色は青く、どう見てもその時点でキャパオーバーを自分で分かっていたのだ。

(どうしてこの時気づかなかったんだろう……!)

 もうこの頃からきっと、ツアーに向けての体作りや自主練で透輝の心も体も脆く崩れかけていたのだ。

 矢賀はまたスケジュールに目を落としたが、勢いもあるしな、とぼそりと言った。そう、勢いがある時に走らなくてはいけないのは、この世界の常。……けれど。

「まあ、まだみんな若いしな。勢いでいけるなら……」

「あの!!」

 琥珀は思わず声を上げた。会議室全員の視線が自分に向かってくる。一瞬、事件の時の視線を思い出したが、今はそんな後ろめたさもない。琥珀は一息ついた後に矢賀に話しかける。

「このタイミングで申し訳ないのですが……正直、この日程だと俺の喉がもちません」

 事務所の社長が一瞬「何を言っている」と言おうとしたのも見えたが、それを隣から伊藤が抑えてくれたのも分かった。

「本当に申し訳ありません。スケジュールを見直していただきたいです」

 琥珀が深々と頭を下げると、しばらく部屋の中がしんと静まった。

 そして、その後にざわざわと各所で「どうする?」「いや、今のタイミングじゃ……」という会話が聞こえてきた。しかし、それに蛍が助け舟を出す。

「ちょっと、リズム隊としても体力的に厳しいってのが正直なところです。なあ、透輝くん」

「……はい」

 蛍から振って、透輝の本音が聞けたことに琥珀は胸のつかえが軽くなったような気がした。

 けれど、そんな簡単な話ではない。

 どうして、もっと手前の日程まで戻れなかったんだ、そうも思いはするが、祈るような気持ちで会議室の中央にいる矢賀を眺めた。

 彼はしばらく黙った後に、そうだな、うん、と手元の資料に何かを書きはじめた。

「うん、そうか。なら、リリースイベントは、年末から年始のこのタイミングはなしにしよう」

「えっ、調整いただけるんですか?」

 大胆な提案に全員がざわめく。特に広報担当リーダーである合田の顔は真っ青であった。この場にいない大木など、アシスタントの仕事にも影響は出るだろう。

 矢賀は広報担当の合田に向かって、ごめんね、と手を合わせた。

「向こうには私から頭を下げておく。優先事項としてはライブの成功だからね。仁義切るのに、別日程で調整は入ると思うけど、琥珀くんたちはそれでもいいかな?」

「も、勿論です!」

 まさかリリースイベント全てを無くしてもらえるとは思わず、琥珀は呆然としていた。けれど、矢賀はじっとまた日程表を見つめて、ここかな、といくつかに丸をつける。

「それと、平日のこことここ……このホールなら今のタイミングでも後ろに日程をずらせるかもしれない。よく知ってるところだし、関連企業とつながりがあるから……別で埋める手当もできるかも。二日ほど私に預けてくれないか? キャンセルや変更での費用含めて直接交渉してくる。向こうにも不利益は出さないようにするから」

「!! 助かります! ありがとうございます!!」

「いや、こちらこそ前任が申し訳なかった。心よりお詫びさせてくれ。合田君、リリースイベントの件はすぐに打ち合わせよう」

 矢賀はそういうと、じゃあ、これで一度休憩かな、と笑って、広報担当と打ち合わせをし始めた。

 部屋を出た琥珀は、慣れない会議と緊張で凝り固まった体を動かして、廊下から休憩室の方に向かう。しばらくぼうっと飲み物を飲んで、大弥と蛍と話していた。

 こんな風にホッと一息つけたのはいつ以来だろうか。

 誰も言わなかったけれど、あのスケジュールを見て「走らなければ」と緊張感が走っていたのは事実で、それが少し緩むとなると、ホッとしたのも全員の本音だろう。

 しばらくそこに座っていると、外に出て買ってきたのか、それとも上田が買ってきてくれたのか、透輝がまた甘そうな飲み物を持って近づいてきた。

「それ、新作? なに、それ……黄色と紫……?」

「うん。焼き芋のフラペー。上田くんが買ってきてくれた」

「甘そうだな」

 うえっと大弥が舌を出すけれど、うまいよーと透輝はそれをずずずと飲む。そのうち、蛍と大弥が社長に呼ばれていって、その場には二人になった。

「琥珀くん」

「ん?」

「さっきありがとう。実は俺もあの日程かなりきついなって思ってて」

 ほわっと柔らかな笑みに琥珀はホッと胸をなでおろす。けれど、不自然でないよう、ううん、と首を振った。

「俺の喉が本当にもたないし……ミニライブや平日が抜けるとかなり助かるよな。矢賀さん、頑張ってくれるかなあ……」

「俺もレコード屋でバイトしてたから、店のこと考えると複雑だけど、別日程でもイベントあるなら助かるし。今回は発売とツアーが被るからきついなって思ってたんだよね。俺が言い出せなかったから、琥珀くんが言ってくれて本当に助かったよー」

 さっき一瞬見えた表情とは違い、透輝はかなり安心した顔をしている。

 こんなに違うもんなんだ……と、無表情だと思っていた彼への考えを改めた。自分にちゃんと見えていなかっただけなのだ。

「日程見てびっくりしたよな。無理ってなっちゃったからさ。ほんと、情報リリース前でよかった!」

「うん」

 よかった。俺だけじゃなくて……、と呟く透輝の言葉には気がつかないふりをして、琥珀は思わずボソッと漏らす。

「透輝くんってライブ前と後で体重変わるぐらい落ちるって前言ってたし……」

「えっ、その話したっけ?」

「あっ、いや、インディーズの頃からそうじゃなかったかって思ってて」

 しまった、と焦りながら答えるも、透輝は少しだけ神妙な顔をして、情けないよねえ、と続ける。

「実はそうなんだよね。食も細くなっちゃうしさ」

「食べれないとか?」

 琥珀がそう問いかけると、透輝は少し言葉を濁らせたが、実は、と首元を掻きながら俯いた。

「あんまり言ってないんだけど、俺、中学までかなり虚弱でさ。消化器系弱いから、今でも薬とかサプリで色々補わないと栄養足んなくて」

「それは……大変だな」

「あ、これ、蛍くんには内緒にしてて。あの人、健康オタクだし、母親みたいな心配の仕方するだろうからさ」

「うわ、なんか分かる。蛍、めっちゃ管理しそうだもんな」

 二人の間の空気が緩み、思わず微笑み合う。蛍もこんなところでネタにされているとは思わないだろう。琥珀はもう一度透輝を見つめた。

「本当に平気? 今のスケジュールでもきついだろうしさ。矢賀さんなら色々聞いてくれると思うけど」

 それには透輝は首を振り、大丈夫だよ、と告げる。

「矢賀さんもあれだけ男気見せてくれてるんだから、俺も自分でケアのこと考えるよ」

「そっか」

 これ以上は言わない方がいいよな、と琥珀は思う。何事もあまり言い過ぎるのは良くない。

(本当は陰の努力も知ってるって言いたいけど、透輝くんはそういうの嫌そうだし……実際、全然知らなかったし)

 けれど、何かしらサポートはしたい、と琥珀は一瞬思いを巡らせ、あ、と思いついたように話し始めた。

「俺、喉のケアで蛍に鍼紹介してもらってさ。あいつ、色々知ってるから、透輝くんなら……整体? いや、スポーツトレーナーとかか……?」

「まあ、そうかもねー。俺、スポーツやってないからよくわかんないけど、多分そっちの方が合うかも。蛍くんにも聞いてみるよ」

「うん」

 会話を終えて、琥珀は再びホッと胸をなでおろした。これなら、なんとかなるのではないか……という希望が早めに見えてホッとしたのもある。

 話題を変えるように透輝が琥珀に尋ねる。

「そういえば、琥珀くんさ。大弥くんの新曲聴いた?」

「え? ああ、うん」

 この会話……前は別の時にしたな……と思いつつ、琥珀は事故にあった時に漏れた透輝の本音を思い出していた。

(そうか。透輝くん、大弥の才能についていけないって……)

 この時は確かまだデモしか聴いてない。

 琥珀はほぼ完成版を知っているが、色々といじった割には最後まであまり変わらないものとなった。正直、大弥らしくない楽曲だと思ったのもあるし、蛍からは直接指摘したと話を聞いた。

「うーん、とりあえず難しそうなことは分かった。音域がやばくて。俺、あれ、生で出るかな……?」

「あー、そうだよね。後、サビ前のあそこ、変調子になるの、ライブでお披露目難しいよね。どうやってカウントを取るべきかなあ」

(あれ? この前とはちょっと反応が違うな……)

 心配事が軽くなって前向きな捉え方になってるってことかな? とも思ったが、もうすでに未来が変わり始めているのかと思うと、少しばかり緊張が走る。

 透輝は癖のようにストローを噛みながら、うん、と大弥の曲のリズムを思い出しているようだった。

「あとは?」

「あと? そうだな……大弥っぽくないな、とは思った。ちょっとポップに寄りすぎているというか」

「そうだよねー。なんか音楽の趣味変わったのかなと思ったけど、本人に聞いたらそんなことはなかったし」

「そういう話もした?」

「まあ、俺に話を合わせてくれたのかなあ。いつも通りだったから、今はああいう曲作りたい気分なのかな? 面白い構成だったけどね」

 透輝は首をかしげて、ぼそりと本音を呟いた。

「大弥くんはそのままでいいのに」

(……確かに、大弥はそのままでいい)

 穏やかで賢くて、ノリもいい。そのくせ、音楽のことになると神経質で、思ってもいないような観点から指摘をしたり、驚くようなアレンジをしたり。彼の頭の中はどうなっているのかと思うことがよくある。

(その実、一番何を考えているか分からない……ってのもあるんだよな)

 どちらかといえば、琥珀と蛍は文系脳で感情的な方だ。透輝と大弥は理系脳で論理派とも言える。

(俺には分からない違和感も、透輝くんには分かるんだろうか? 二人は音楽の趣味の近いし、知識も幅広いしな。俺に分からないことも分かるのかも)

 透輝に大弥のことをもっと聞いてみようか? そんなことを思っていると、上田がその丸い体を弾ませながら、透輝の方に走ってきた。

「透輝さん、ちょっと機材のことで確認したいんですが……」

「ん。なにー。じゃあね、琥珀くん」

「うん」

 琥珀にすまなそうに会釈する上田をみる。今度こそ大丈夫なはずだ、と琥珀はあの日震えて泣いていた彼のことも思い出して拳を握った。



 しばらく待機ですと言われて、琥珀は気分を変えるのにレコード会社のフロアをうろついた。休日なので、自分たち以外に人は少ない。

 フロアをつっきっていくと、外側に喫煙スペースが見えた。低層階だからか、外につながっていて気持ち良さそうだ。

 そこのベンチに矢賀が座っているのが見えたので、声をかけに行く。

「矢賀さん、お時間いいですか?」

「うん。平気だよ。あれ? 琥珀くん、吸う人?」

「いえ、今は禁煙中で……もう吸わないと思います」

「偉いなー。私は何度も挫折してる」

「喉が俺の商売道具なので、大事にしたいなと思いまして」

「そりゃそうか」

 そんな会話を交わして矢賀の隣に腰掛ける。

 匂い大丈夫? 気にしないでください、そんなやりとりすらも紳士的だ。琥珀は改めて矢賀の方に体を向けて背筋を伸ばした。

「矢賀さん、本当に何から何までお世話になって……ありがとうございました!」

「あんまり煽てるのやめてくれ。私は私で君たちと本当に仕事がしたかったんだから。君からあの相談がきた時は驚いたけど……少しでも力になれてよかったよ」

「そういえば、矢賀さん、だいぶ前にデビューの話を持ってきてくれてましたもんね」

「はは、そう。あの頃はまだ大弥くんが音楽の道に進むか分からないってことで、君と蛍くんにあっさり振られたっけね」

 懐かしい時期だった。確か、大弥が作ってきてくれた原曲をもとにRefrainを書き上げ、ライブではそれが定番になっていた。ライブでのクチコミから、その曲がかなり評判になり、結構な時間をかけてレコーディングをした。それをインディーズ盤でリリースした少し後のことだったんじゃないだろうか。

 大弥は実質的にはバンドのメンバーだったが、まだ就職活動などもしていて……音楽の道に絞るかを悩んでいた頃のように思う。佐伯からメジャーデビューの話がくるよりも随分前だった。

 キャパ三百もないライブハウスでのライブ後、楽屋に現れた矢賀は、レコード会社の名刺を出し、蛍と琥珀と話をしにきた。担当部門に繋ぐから、デビューを考えてほしいと言い出したのだ。急なことに琥珀たちは驚き、また、大弥の状況が不確実だったこと、蛍が慎重だったこともあり、当時はそれを断った。

 矢賀はふと視線を空に向け、まるで遠い日を見るかのような目で語った。

「私が入社した頃もバンドブームでね。メジャーデビューの後、どんどん形を変えていって、ダメになっていくバンドを星の数ほど見てきた」

 その実感のこもった言葉に琥珀はどきりとする。

 そうだ、自分たちもそんなバンドのうちの一つだった。けれど、今回こそは必ずこのバンドを成功させて……そう思っていると、矢賀は琥珀の方を振り向いた。

「だけど、君たちは変わらないでいてほしい。このまま四人で」

「……はい。俺もそう願ってます」

 矢賀の顔を見つめてそう告げると、矢賀はその視線に気圧されたように少しそれをそらし、タバコの火を消した。

「琥珀くんも変わらないな」

「え?」

「私はね、君たちを初めてライブハウスで見たとき、もっと強い光の中にいてほしいって思ったんだ。そういうビジョンが私には見えていた」

「……!」

「まあ、当時はあっさり振られちゃったわけだけど」

 ははっと声をあげて笑う矢賀だったが、琥珀は当時のことを思い出して青ざめた。失礼はなかっただろうか? もう思い出せない。けれど、あの頃は、自分たちも大弥がどうしたいのかも分からなくて……けれど、彼の作曲とギターの才能を欲しがっていた。そんな時期だったように記憶はしている。

「す、すみません! あの頃はまだ、大弥が本気で音楽を続けるのか俺たちも分からなくて……迷っていたんです」

「そうだね。大弥くんは天才だ。間違いなく誰もが認める才能を持つコンポーザーだろう」

 矢賀はベンチにもたれかかると、ふーっと大きな息を吐く。琥珀も当時を思い出していた。

「Refrain、あの曲を聴いた時、なぜだか頭の中に風景が生まれた。もう五十近くなったおじさんが、柄にもなく涙を目に浮かべて聴くんなんておかしいんだけど。多分、そんな曲に出会えることなんて、人生の中でそうそうないんだ」

「……」

「私の人生の中でも、あの日の出会いは色濃く残っている。本当だよ? 君達にはそのぐらいの力があるんだ。だから、私はそれをもっと広く人に知って欲しかった」

 そんな言葉を言ってもらえることが、人生の中で何度あるだろうか。

 琥珀は矢賀の言葉を噛み締めながら、ありがとうございます、と拳を握った。

 そうだ。だから、このバンドを続けたい。今度こそ成功させてみせる、その気持ちが強くなっていく。

「そういえば、矢賀さんってどうして俺たちのことを知ったんですか? もうあの頃は配信部門の担当役員でいらっしゃいましたよね……なのに、バンド・ライブイベント部門に繋ぎたいからってわざわざお声かけてくださって」

「ああ、それはうちの姪が君たちの大ファンで。Refrainのインディーズ盤を持たされて、ライブ見に行けってせっつかれたんだよ」

 初めて聞いた話だ。そんな縁もあるのかと琥珀は驚いてしまう。

「それは……本当に姪御さんに感謝しないと」

「そうだ。そういえば、その姪が……あ、失礼」

 矢賀が何か言いかけた時、彼の電話に着信があった。どうぞ、とそれを促すと、矢賀は立ち上がって通話先を二言三言交わして電話を切る。

「会場の件、なんとかなりそうだ。早速、直接交渉しに顔出してくるよ」

「!! ありがとうございます!」

 琥珀は立ち上がって矢賀にまた頭を下げる。

 どこかで何かが繋がっている。そんなことを感じるのは人生の中でも少ない。

 けれど、蛍の件や透輝の件を通じて、琥珀は人との縁の良い部分を感じ始めていた。

 最初の未来、どうしようもなかった自分。

 その自分の周りはどれもこれも汚くて、自分を取り込んでいく悪魔の渦のようにさえ思えていた。

 事件の後、琥珀は人を信頼できなくなったし、人とも深く関われなくなっていた。

 ……昔はそうじゃなかったはずなのに。

 あの頃、どこかでプツリと切れた糸。そして絡まって解けなくなった糸たちが、綺麗に繋がってきている気がする。

 きっともうすぐ。

 もうすぐ自分たちは、また自分たちの音楽を奏でて、あの光の中にいけるのだ。

 そういった希望が琥珀の心をじんわりと温め、そして、前を向かせていた。



 矢賀によって日程を調整され、忙しい中でもライブツアーは順調に進んでいった。

 そして、年を超えて、一月の名古屋のライブ、透輝の事故も起こらずに無事にツアーの前半戦を終えた。

 凱旋公演は日本武道館でのセンターステージから始まる。360度の客入れと最新の音楽機器。その場で次回シングルの初お披露目と発売発表――のはずだった。



 ――その前日、大弥が死んだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ