第三章 金とオンナ
*
「デマやって。あれはただの飲み会帰り! 俺が不倫とかするわけないやろ。乱交とか……ないない!! なんでそんな目で見るねん!? ないし、マジで! その目、やめてって!!」
多くのマスコミの目があり、その日の夕方ごろになって、ようやく全員が集まることができた。
メンバーたちに囲まれた中で、蛍は、ハーーーーっと大きな溜息をつきつつも、皆に事態を説明する。その強い言葉に琥珀はホッと息をついた。
「焦らすなよ、お前……」
「とはいえ、撮られた責任は俺にあるからなぁ……。釈明会見とか? あかん。まさか俺がこんなことされるなんて思ってなくて、全然頭回らんわー」
どないしよ……と蛍は頭をかかえるが、そんな彼に透輝が、はい、と飲み物を渡した。
「青木さんが社長と相談してるって。蛍くんはとりあえずゆっくりしたら? ここまでくるのも大変だったでしょ。ちょっとこれでも飲んで」
「あー、ごめん。ありがと」
結局、自宅と事務所を囲まれてしまったメンバーたち。それぞれなんとか家を抜け出し、レーベルグループ会社の空きフロアに避難することになった。このフロアのいくつかの会議室を借りて、そこでそれぞれが待機していたのだ。
今は社長とマネージャーたちが会議中である。次のライブ会場近辺にもこのまま移動して、早めにホテルに入るのはどうかと相談しているところだ。マスコミ対応のため、ホテルも分散させるかなど、色々と策を練っているらしい。
琥珀たちは、メンバーと一部のスタッフで小さな会議室に入って座っている。
とりあえず蛍の顔を見られたことに琥珀はホッと安心をした。そんな中、透輝が持ってきた飲み物を一口吸った蛍だったが、ウエッと思わず舌を出していた。
「あっま! つめた!! 透輝くん、何これ!?」
「新しいフラペチーノ。美味いっしょ?」
「透輝くん、夏にマンゴーフラペ飲みすぎて、お腹壊してへんかった? 上田ー、透輝くんの糖分管理もちゃんとしといてや!」
すみませんーと笑う小太りな男は、透輝のマネージャーの上田である。
残りのマネージャーは会議中だが、上田だけはこちらでメンバーのケアをしてくれていた。のんびりした雰囲気だが、結構気も回るし、ぬいぐるみのような見た目なので、いるだけで場が和む男である。蛍は呆れたように溜息をつく。
「俺、コーヒーがええわ……なんか頭が回らんくて……後、サンドイッチかなんか腹に入れたい。外いけるかなあ……」
「いや、流石に蛍くんは動かない方がいいでしょ」
「無理かなぁ」
「じゃあ、俺が飲み物と昼飯買いに行くついでに買ってきてやるよ。ここ、地下に売店あるらしいし、人には会わねえだろ。ちょっと待ってて」
「うわー、ありがと、大ちゃん! 気をつけてな!」
蛍は、また、はあっと大きな息を吐き出して、あーっと顔を覆って天井を仰ぐ。琥珀は記事のことを思い出したが、さっき蛍の否定してくれた言葉を信じていたし、自分の事件の後のマスコミのことを思い出し、胸を痛めた。
「蛍、平気か?」
「あー。うん。まあ、好き勝手書きよるよな。ああいうの。いや、やられるなら琥珀かと思ってて油断しとったわー」
「琥珀くんが飲み歩きやめたからでしょ」
「ちょっとー! 俺が飲み歩いてるみたいに言わんでよー。俺のはお仕事やって! 接待! 俺かて体力取られるのに飲みに行きたくなんかないって!」
「分かってるよ。俺、酒飲めないから、ごめんね?」
「はー、でもなーどーしよーっ!」
フラペチーノを飲みながら透輝が軽く話してくれる。それに蛍は笑って答えていたが、ふっと表情を曇らせた。
「でも、ほんま笑い事ちゃうよなあ……ごめん……なんか色々書かれてもーたし、ちょっと……考えるわ」
しんっとその場のみんなは黙り込んでしまい、そして、透輝と上田は別件で部屋を出て行ってしまった。
その場に、琥珀と蛍が二人きりになる。
蛍から小さな溜息が漏れるのを心配したが、とはいえ、琥珀も彼にかける言葉が見つからなかった。
(なんであんな記事……タイトが言ってたのってあれのことなのか……?)
記事には不倫報道!? のように書かれていたが、もっと重要なことが書かれていた。
蛍の過去についてである。
蛍は和歌山出身で大阪でインディーズバンドをしており、高校卒業と同時に上京してきた。
そして、二十一の頃だったか。別々のバンドで活動していた琥珀と意気投合し、今のSTONESを結成。その時に透輝を知人に紹介してもらい、三人でバンドをやってきた。
少しの間だけ、ギターはサポートを頼んでいたが、当時、名古屋にいた大弥が大学院に行くために上京してきた。大弥と幼馴染であった蛍の紹介もあり、大弥がそれからはレギュラーサポートとして入ってくれた……という経緯がある。
その数年後、大弥はバンドに正式に所属し、後に大ヒットとなるメジャーデビュー曲の原曲を作ることになる。最後まで就職か音楽かを悩んでいたのは大弥だった。三人は彼の学歴のことも考え、メジャーデビューという道には慎重になっていた。けれど、大弥は最終的に音楽の道を選ぶことになる。
蛍と大弥は同じ和歌山出身で幼馴染だが、大弥は高校の時に親の都合で転勤、受験し、大学も名古屋、大学院は都内と転々としていた。ただ、お互いに音楽のことで連絡は取り合っていたし、互いにやっているバンドのライブは見にいっていたという。
琥珀も蛍から大弥を紹介されたのは随分前で、ちらっと聞かせてもらったギターの音があまりに特徴的で美しく、その頃から大弥のことは天才だと思っていた。そんな経緯である。
話を元に戻すと、蛍には過去に大阪での下積み時代、そして、東京に出てきてからの下積み時代がある。
今はレコード会社がついたバンドだが、インディーズバンドの財布事情など、なかなかに厳しいものだ。事実、琥珀もバーテンダーや工場バイトの掛け持ちをしていた。透輝は実家が裕福らしいが、それでも、レコード屋のバイトをずっとしていたはずだ。
(あんな記事……)
さっと読んだだけだが、その部分には誰も触れなかった。まさか触れられるはずもない。
『小沢蛍はミナミ・新宿でウリ専の過去も?』
その記事の真偽は確かではないが、それを確かめるのも野暮というものであろう。
事実、蛍はその部分に関しては全く触れなかった。それに周りも気づいているが、本人の触れない部分を暴こうとするような無神経な人間はここにはいない。
しかし、琥珀は自分のかすれた記憶の中に、何かを見出そうとしていた。
(俺は何かを忘れてる……あの日、タイトは何を言おうとしてた? あの日、薬打たれて……ラリってたけど、俺があんなに怒ってあいつをぶん殴ったのは……)
「琥珀」
「あっ、何?」
しんっとした部屋の隅、小さな会議室とはいえ、少し離れた場所に座っていた琥珀は、蛍の声にハッとして顔を上げた。
蛍は……今まで見たことがないような表情で、その形の良い唇を噛んで何かを耐えていた。
「……こんなことになって、ごめん」
「えっ、でも事実じゃないんだしさ。蛍は何も……」
悪くないだろ、と言う前に蛍はその言葉を制するように手をあげる。それに琥珀はどきりとして言葉を飲み込み、彼の話を待った。
蛍は少し黙っていたが、はあっと顔を覆って、無理や、と一言つぶやいた。
「このツアー、俺は降りるわ。サポートの人選はさっき社長にこっそり相談した。ちょっと時間かかると思うけど……週末のライブは急遽中止になるかもしれん。ごめん……まだ大ちゃんと透輝くんには言えてへんけど……」
「え……」
「……人前に立つのが怖い。もしかしたら、もう立てなくなるかも」
そう言った瞬間、ぼろっと彼の手の間から涙がこぼれ落ちるのが見えた。それに琥珀は動揺し、彼に駆け寄る。
「ほ、蛍……? 大丈夫か? いや、大丈夫じゃないよな、でも、今は落ち着いて……」
今までこんな蛍を見たことがなかった。
いつだって蛍はリーダーとして明るく、そして時には厳しく自分たちを率いて行ってくれていた。彼がバンドのことで怒るところを見たことはあるけれど、こんな風に悩みを吐露もできず、感情だけが溢れているのを見るなんて……。
「今は……何も言わんといてほしい……」
好奇の目にさらされることの辛さ、琥珀はそれをよく知っていた。そして、自分のせいで他を巻き込む辛さも。
あの頃の琥珀は自分のことしか考えられなかったが、今の蛍の辛さや罪悪感、そして傷ついた心はよくわかる。
自分の場合は身から出た錆であったが、蛍のは……他人に繊細な部分を蹂躙されたのだ。
過去に何があったかは知らない。それを知ってはいけないのかもしれない。
同じバンドのメンバーであっても所詮は他人だ。そして、愛すべき仲間だ。踏み込んではいけない線がそこにはあって、それを越すのは良くないことも、琥珀はよく分かっていた。
少しの間、一人になった方がいいかな、と思い、琥珀はその部屋を出て行った。大弥には「ちょっとそっとしておいたほうがいいかも」とだけメッセージを送った。彼からはすぐに「分かった」と返事がくる。こういうところは楽でいい。
きっと今、蛍には誰よりも時間が必要だ。慰める言葉は出てこなくても、それだけは分かった。
部屋に誰か入るのも少し避けておくか、と琥珀は会議室近くの休憩スペースでその様子を見守る。そして、ほうっと大きな溜息をついた。
(大弥と透輝くんになんて言おう……。そうだ、イベンターにも話をつけなくちゃ……社長もまさか蛍があそこまで追い詰められているとは思ってもいないだろうし)
自分には何ができるというのか。いつも自分より前に立ってくれようとしていた彼を支えることなど、想像もつかなかった。できるのだろうか、自分に。いや……
(蛍があれだけ傷ついてるんだ。俺がしっかりしないと……!)
バンドの金関係や契約関係、そういうビジネスめいたことは全て蛍が受け持ってくれていた。いろんな苦労をさせていたんだと思う。
けれど、どうしてこうなってしまったのだろうか。琥珀は沈む気持ちを支えながら、うん、と考え込む。
(俺が過去に飛んだから? 未来が変わって蛍が傷つくことになっちまったのか? そんな……そんなことを望んだわけじゃない)
「あっ、すみませんっ!」
影になって見えていなかったのか、琥珀の存在に驚いた声を出したのは大木であった。
短めの黒髪を無造作に束ね、若い顔にも疲労が見える。どうやら社長たちの会議でコーヒーを作り直しにきたらしい。コーヒーポットを給湯スペースに置いているのを見て尋ねた。
「それ、ポットの中ってまだある?」
「? ええ。少しだけですが、今からまた入れて……あっ、ちょっと待っていただければ、下のコーヒーショップでお好きなのを買ってきますよ?」
「いや、残ってるなら、それくれない? あと、ここでちょっとだけ休んでるから、誰か探してても十五分ぐらいは黙ってて欲しいんだけど」
琥珀の言葉に、大木は化粧っけのない顔を歪めて苦く笑った。皆疲れているのだ。
「分かりました。まだ社長たちの打ち合わせも長引きそうですから、しばらく誰も出てこないと思います。カップに入れるので少し待っててくださいね!」
「悪い」
紙コップに残ったホットコーヒーを入れてくれたようだ。砂糖とミルクをつけて、どうぞと渡されたそれを琥珀は口にした。程よい苦味が口に広がって心が落ち着いていく。
昨日も大弥の音がなかなかできなくて、それを待っている間に溜めていた雑誌インタビューなどの対応をしていて、ほとんど眠れなかった。一気に気が緩んだのか、急な眠気に襲われる。
(俺も昨日はほとんど寝てないからな……でも、俺がちゃんとしないと……)
ちゃんと……? ちゃんとってなんなんだろう。
けじめをつける? 蛍は何もしていないのに?
けれど、あの状態の蛍を人前に出すなんてこと、絶対にできない。
どうすればいいのだろうか。
あのタイトという男と、もっと早くから手を切るべきだった? それとも……
考えても考えても答えは出ない。それにもう全部世間には知られてしまったことなのだ。それが真実であれ偽装であれ、その疑いを知らなかった頃には戻れない。人とは一度知ってしまったことを忘れることはできないのだから。
――もし、もう一度過去に戻れたら?
そんなことを思いつくも、眠気の中で、ぶんっと頭を振る。
(でも、俺に蛍の問題なんて解決できるんだろうか……自分のことだけで精一杯だったのに)
なんでもいい、誰でもいい、誰もがあの記事の内容を知らない時間に巻き戻して欲しい。
蛍が傷つかずに済むようになって欲しい。ただそれだけだ。
琥珀は少しの疲労の中で目を閉じ、ゆっくりと眠りに落ちて行った。
『お前らのバンドなんて、蛍の体を売ってデビューさせてもらったくせによ』
「!?」
いきなり自分の頭の中に響いた声。その嗄れた声は、タイトのものであった。
下卑た笑いと卑劣な言葉。それにガバッと体を起こし、琥珀は頭を抱える。
(思い出した……!)
耳の奥でどくどくと自分の鼓動が響く。
そうだ。この声は妄想ではない。琥珀の中にある現実の記憶である。
記憶が混濁する前、つまり一番最初にあった「過去の事件」。琥珀はタイトに連れて行かれたパーティーで薬物を混ぜられ、意識が朦朧としていた。
もうどこだったか思い出せない、六本木辺りまでの記憶しかなかった。どこかの店の奥まったラウンジ……。変に煙臭く、それもタバコの匂いと混じってなんだか妙な匂いがした。
アルコールで痺れていたと思っていたなけなしの理性は、薬物によってわけが分からなくなっていた、もう二度と味わいたくない気持ちの悪い浮遊感……。
そんな中、女をそばに侍らせたタイトが、薬物で吐きそうになっている琥珀に向かって、吐き捨てるようにこう言ったのだ。
『ここのバンドのリーダーがよ、女みてーな綺麗な顔してんだよな。こいつとはまた違って、もっと可愛い系でさぁ』
『ベースって蛍? だっけ? 私の友達の店に接待できてたって~めっちゃ紳士だって言ってたけどぉ?』
『はっ、あいつ、金ねー時代に親父相手にパパ活みてーなことやってたからな。女に興味なくて、そっちなんじゃねえの』
そんな会話にも腹が立っていた。けれど、その時、琥珀の体は思うように動かなくて、ただ拳を握るのが精一杯だった……気がする。頭が痛くて、どうにかなりそうで、ただその場から逃げ出したかった。
こんなやつと一緒にいるとダメになる。そう分かっていても逃げ出せなかったあの過去を思うと苦しい。自分が馬鹿で悔しくて、後悔と情けなさばかりだ。
そんな情けない自分なのに、蛍のことを言われて腹が立った。ふざけるな。お前が蛍の何を知って……と思っていたときに、タイトがこう続けた。
『この前、レコード会社のあいつ……。おっと、琥珀がいるから名前は出せねえけどさ。でかい車でそのままホテルにつけてたからよー。あれは絶対にやられてんな。腰抱かれてたし』
そんな勝手なことを言い、自分の大切な親友が汚された気がした。
けれど、琥珀の意識は朦朧としたままで体は動かない……その三白眼の鋭い目つきが琥珀の方を向いてあざ笑う。
『大した曲も作れねえ、歌も下手くそなバンドなのに、蛍のおかげでよかったな』
それにキレて振るった拳は虚しく空振りをした。タイトはケラケラと声をあげて笑い、けれど、その後の言葉に琥珀の体は怒りに沸き立ったのだ。
『お前らのバンドなんて、蛍の体を売ってデビューさせてもらったくせによ』
(そうだ……俺は……知ってたんだ……あの日、タイトに蛍のことをあんな風に言われて、腹を立てて……)
蛍の件について、真偽は確かめていない。
もちろん、そのあとは琥珀の暴力事件でそれどころじゃなかった。
けれど、あの侮辱が許せなくて、薬でフラフラな中、タイトを殴りつけ、近くにあったガラス製の灰皿や花瓶を使って暴れて流血沙汰になり、そして琥珀は留置所に入ることになったのだ。
(蛍……そうだ、蛍、一人にしすぎたら危ないかも……っ!)
ハッとして体を起こすと、頰にひやっとした感覚が当てられて、思わず体を跳ねさせた。
「うわっ!?」
「? どうしたの、琥珀くん。うたた寝てた?」
「あ……? え?」
目の前には透輝がいた。その手のプラカップはうっすら汗を掻いている。
しかし、驚いたのは透輝の格好だ。
薄手の……夏服。
そして、その手にあるのは、この夏、ずっと透輝が飲んでいた期間限定のマンゴーフラペチーノ。
「……え」
びっしょりと、違う汗を掻いた気がした。
琥珀は手元にある自分のスマホを震えながらひっくり返す。そのロック画面にある日付は……八月。
ガタガタっと慌てて体を起こして、部屋をでる。「琥珀くん?」と不思議そうに尋ねる透輝の声はもう聞こえない。
部屋を開けると、そこには半袖をきた蛍と佐伯がいた。
「いや、この日程はきついんちゃいますかね……俺や大ちゃんはええとしても、琥珀や透輝くんの負担が……」
「でも、この時期に一気にファンを掴まないと」
「あれ、琥珀? どうしたん?」
何か打ち合わせをしていた彼らの前のホワイトボードには日程表が貼られており、何案もあるそれが並べられている。
まだツアー日程案の第一弾が出ていた頃だ。その後ろ側、ブラインドからは強い夏の日差しが照りつけていた。
「戻った……」
「は? 何が?」
不思議そうに蛍が眉をひそめた。けれど、琥珀はただ手元にあるその日付を見直す。
琥珀は、またあの夏の中にいた。
*
信じられない気持ちでいっぱいだったが、琥珀は確かにまた「あの夏」をやり直していた。
その日々は、最初にタイムリープした時と同じく、淡々と過ぎていく。
(もう一度やり直すのは面倒かもしれないけど、俺が最初にタイムリープした時点よりは後……ここからもし蛍のことがフォローできるなら……!)
何かヒントがあるはずだ。蛍の気持ちを軽くできること、あの記事を世間に出させないこと。そんなことを考えながら過ごしていくが、蛍とはプロモーションで一緒の時以外は互いの仕事があって、なかなか話もできない。そのなんとも言えないもどかしさに琥珀は少し参り始めてもいた。何も変わっていないような気がする。これだと同じ未来になってしまうのではないだろうか。
気持ちばかりが焦るが、琥珀はもう三度目になる過去を、緊張しながら過ごしていたのだ。
そうしているうちに、特典会などのプロモーションが始まる。
またも出会った深雪に複雑な思いはあれど、淡々と仕事を終わらせてふと気づいた。
(そういえば、あの時……蛍から久々に飲みに誘われたんだった)
酒もタバコも避けていた。あんな生活に戻ってはいけない……。けれど、自分は弱いから、何かのきっかけでまた酒やタバコに逃げてしまうかもしれない。だから、一切手を出さないぞ! という気持ちが大きかったが、もうしっかりと禁煙・禁酒もできているので、大丈夫な気がする。
よし、と心に決めて、特典会後に琥珀は自分の方から蛍に声をかけた。
「なあ、蛍。久々に飲みに行かない?」
その言葉に蛍は一瞬きょとんとしたが、ぱあっと顔を明るくさせて、ええやん! と笑って応えた。
「行く! いや、俺も今日、琥珀の予定どうかなーおもててん!」
前向きな答えにホッとして、こそっと耳打ちをする。
「たまにはサシ飲みでどう? マネージャーたちも疲れてるだろうし」
「ええな! じゃあ青木と伊藤には飲み代渡して、ここで解散しとこか」
「うん。そうしよう」
そんな話で盛り上がり、そのまま二人はタクシーで目黒のお店に向かった。蛍がたまに使うところらしい。
お店は完全個室の奥まった座敷になっている。高いんじゃないのか、と琥珀は少し気後れしたが、京料理でまじで美味いねん! と蛍が嬉しそうに案内してくれるので、そのままついていくことにした。
二人だけの静かな空間で、蛍が嬉しそうに飲み物のメニューを開く。日本酒の種類も多いらしい。最初はビールでいいかな、と蛍に任せることにした。
「琥珀、酒もタバコもやめたっていうから、ご飯無理かなって。誘うの悩んどったんよー。久々にこういうのもええよな!」
「俺だってメンバーとぐらい酒は飲みたいよ」
「それなら嬉しいわー! あ。すんません。オーダーお願いします」
蛍はさっとビール二つと料理はお任せでと頼むと、スマホで「このバンドに最近ハマってんねんけどー」といろんな配信曲を教えてくれたりする。
二人きりで過ごすのは確かに久しぶりだが、いつだってこうやって蛍から話題を振ってくれて、楽しい時間が過ごせていたのを思い出した。
(そうだ……こんなだったよ。蛍とは。特にデビューするまでは……)
琥珀はまだもう少し前……デビューより前の過去に想いを馳せては、蛍と最近はあまり話せていなかったことを思い出した。それがこんな形で時を過ごせるのを嬉しいとも思う。
心の奥底が少し暖かくなるような気持ち。懐かしさだろうか。すぐにきたビールのグラスを軽く合わせ、そしてまたいろんな話に花が咲く。
「今日も常連来てくれとったね。関西の子もおったよ。俺らも数相手にせなあかんけど、向こうも短いイベントのためにわざわざ来てくれてんねんもんな。遠征マジでお疲れ様やわー」
「本当に。ありがたいよな」
琥珀がそう答えると、蛍が少し驚いたように目を見開くので、何? とそっちを向く。
「琥珀、あんまりファンのことって考えてへんのかと思ってた」
「おい、そんなわけないだろ。そりゃ、支えてくれる人たちや聞いてくれる人がいなきゃ、俺らは活動できないんだから」
この頃は確かにファンを大事にしていなかった……という反省はある。しかし、一度未来を経験した今の自分は、離れていく「数」の恐ろしさをよく知っているのだ。
自分から目に見える範囲にそれはいなくても、自分の知らないところで大きな数が動いている恐ろしさを身を以て知っている。
そして、支えてくれていたものを失った時に気づいても、もう遅いということも。琥珀が少し考えを巡らせていると、蛍がぼそりと呟いた。
「そっか。なんか大人になってんなあ」
「?」
「いや、俺はさ……音楽の才能がないから、そういうこと考えるけど、琥珀みたいに才能あるやつは、そういうのなくてもええよなとは思ったりしてもーてて」
「え? いや、俺には才能なんかは……大弥とは違うし」
琥珀は蛍の発言に純粋に驚いた。そして、未来で見た蛍の姿を思い出す。
(お前、一番成功してたのに?)
プロデューサーとして成功していた蛍。
確かに作曲という才能だけを見れば大弥には及ばないかもしれない。けれど、蛍は曲も作れるし、それだけに関していえば、琥珀とは同じようなものだと思う。
それに、蛍はコミュニケーション能力も高いし、ビジネスに様々な人を巻き込んだり頼ったりするのもうまくやれるから……だから、商業的に蛍が成功したのは、琥珀からしてみれば当たり前だと思っていた。
あの新宿ビジョンで見上げた蛍に対して嫉妬もあったが、「まあ、蛍ならそうだよな」という納得もあったのが素直な気持ちだ。けれど、蛍は琥珀には才能があるよ、と呟いた。
「俺は大ちゃんみたいな天才がそばにいたからよう分かるねん。悲しいけど、才能ってもんには明確な線引きがある。壁っていうよりは、絶対にそこから先に行けない境界線みたいなもん。大ちゃんみたいに既に花咲いてる才能もあれば、琥珀みたいにまだ蕾のものもあるかもしれないけど……俺と二人には明確に差があるのは、自分がよく分かってんねんて」
「そんなわけないと思うけどなぁ……」
「あるんよなあ……。まあ、俺はさ、それなりに人付き合いとかうまくできるから、そっちで立ち位置見てこうとは思っとるけどさぁ。大ちゃんや透輝くんはビジネス的な人付き合いは器用な方じゃないから……俺がうまくやらんとって思ってるのもあるんやけど!」
(それは……俺も……)
琥珀は当時から思っていたことを思い出した。
俺には歌うことしかできない。大弥のような曲はどうひっくり返っても作れないのだ。だから前に立って、働いて、バッシングを全部自分で受けるのが、自分の、ボーカルの役割だと思っていた。
蛍は琥珀と自分は違うというように主張しているが、どこかにある才能へのコンプレックス、それは共通していたのかもしれない。
そんなこと、当時は思いもしなかったけれど。
すぐに出てきた冷菜の盛り合わせをつつくと、疲れている体に美味しい料理が沁みた。どう? いけるやろ? ここ、何でも美味いし! と嬉しそうな蛍に心も緩む。
蛍は「もうすぐやね、ライブ」と、まだ数ヶ月先のことながら、嬉しそうに顔をほころばせた。
「ツアー、成功させたいよなあ。マジで楽しみやわぁ。俺、武道館とかマジで緊張してとちりそうやー」
柔らかに話す蛍の口調を久しぶりに聞いた気がする。
仕事中の蛍は、やはりどこか気が張っているのか、きつめの関西弁に聞こえるのだが、本来は少しテンポのゆるい、まったりとした話し方をする。そんなことを思い出しながら、琥珀はビールを口に含んだ。
蛍は商業音楽として成功する未来を持っていた。
けれど、その未来は、もう琥珀が変えてしまうことが決まっている。
あの日、打ちひしがれる自分の目の前にスーツで立っていた蛍を思い出す。彼の表情はこのような柔らかさはなく、ただ冷たい視線が琥珀を突き刺していた。それを思い出すと胸が痛い。
そうだ、せっかくこの関係に戻れたんだからという思いと、自分が「蛍が成功する未来を変えてしまった」という思い。複雑な感情に耳の奥が熱くなってくる。
(もしかして、蛍の未来は……俺と離れていた方が成功していたんじゃ……)
どくどくと大きな心音を耳奥で響かせながらも、琥珀は小さく首を振る。蛍と一緒に、四人みんなで成功したい。それは琥珀のワガママなのかもしれない。そんな悩みや靄もありつつ、蛍とはいろんな話をした。
くだらない、メンバー間の冗談やら、ツアーでの演出について。演出面については透輝が色々と仕切ってくれているが、蛍にも色々と意見を聞きにきているという。
仲良いもんな、リズム隊、と思いつつ、この過去に戻ってくる直前、大弥と自分の作曲がうまくいっていないことを思い出したりもした。あっちも今回は早めに仕上げないと……そんな焦りもあるが、ただ、こういう話を蛍とできるのが嬉しくて、次第に緊張も落ち着いてくる。
メイン料理の魚が出た頃、蛍は結構な量の酒を飲んでいた。琥珀は久しぶりの飲酒なこともあって、ビールの後は、蛍の頼んだ日本酒を少しもらった程度だ。
白い肌を赤く染めた蛍が、残っていた日本酒を飲み干し、楽しみやなあ、とその大きな瞳を細めて笑った。
「俺、このバンドがほんまに好きなんよー。ずっと好きに続けたいなぁ」
「!」
そんな言葉を蛍から聞くのは初めてだった。
蛍はメジャーデビューの厳しさや、レーベルが入ることへの懸念についてもかなり慎重だった。けれど、ビジネスに疎い残り三人の代わりに、様々なことを勉強したらしく、契約や条件についても相手側に負けないようにいつも強く立って議論をしてくれていた。
金にもかなり細かい方だったし、数字へのこだわりも強い。レーベル相手に話をする蛍は、少し気負いすぎてて怖い印象もあったぐらいだ。
そんな彼から純粋な気持ちを聞くのは、インディーズ時代から考えても滅多になかったことのように思う。
蛍は赤い顔を少し揺らしながら、気分良さそうに目を閉じた。
「大ちゃんの作曲能力は天才やしぃ、透輝くんのテクニックや力強さは誰にも負けん。もちろん、琥珀の声と音域なんて、世界中のどこ探したってあらへん」
「蛍、お前、結構酔ってるだろ? 褒めすぎだよ」
「そうかもしれんーでも、ほんまやもんー!」
蛍自身は酒にはそこまで強い方じゃなかったのを思い出した。なのに、色々仕事関係の接待を任せきりだったことも。
一つ一つの小さな反省が琥珀の心に突き刺さってくる。
今度こそ蛍が傷つかないようにしたい。そのためにはどうしたらいいのだろうか。
琥珀が思案を巡らせていると、蛍の酒を飲む手が止まった。
「蛍? 次なんか頼むか?」
「……」
「蛍?」
「俺には……STONESの成功が全てなんや」
「……蛍」
ぼそりと呟いた声に琥珀はぶるりと震えた。ここで何かを言わなくては。
そう感じたのは彼との間にある空気が、琥珀に何かを告げたのかもしれない。
琥珀は思わず、俺に何か隠してることないか? と蛍に問いかける。すると、蛍は、ハッとしたようにその顔を上げた。
「え……」
「お前に、契約関係とか金回りでさ、色々とすげえ苦労かけてたって思ってるんだよ。ちょっと体を休めて色々回りを見たら、お前が一番負担がでかいとも思ってるし……俺にでもできることがあれば、俺に振ってほしい」
「……」
「ほら、大弥や透輝くんは、こういうの苦手だだから。俺とお前でうまく分け合わないと。俺じゃ頼りにならないかもしれないけど……うまく言えなくてごめん」
不自然だっただろうか、焦って琥珀がそうフォローすると、蛍の右目からポロっと一筋の涙が零れ落ちた。
何かの感情が溢れ出した瞬間、それを見た気がして、琥珀は思わず息をのむ。
蛍はハッとしたように涙を指で拭い取ったが、ボロボロと両の目から溢れ落ちるそれは止まらない。本人も戸惑い、あれ、あれ、と震える手の甲で必死に拭うけれど、追いつかなかった。小さな嗚咽が漏れる。琥珀は呆然とそれを眺めることしかできない。
「蛍……」
「どうしてこうなっちゃったんやろ」
「蛍……? どうした?」
「……ごめん。ごめんな、琥珀……」
ポツリポツリと蛍は話しだした。自分の過去と現在について。
琥珀は大きく息を吸う。
もうすぐ、もうすぐだ。
高級な絨毯には足音が響くことはない。けれど、その足取りがこちらに向かっているのを、肌で感じているかのようだった。緊張している。
自分は……こういうことは得意ではない。けれど……。
(蛍をもう泣かせたくない……)
硬く拳を握りしめた瞬間、高級ホテルの割には少し古いインターホンが部屋に鳴り響いた。
ガチャリとホテルのドアを開けて、相手を招き入れると、相手は自分に抱きつこうとしてきた。その瞬間、彼が「琥珀」に気づいて目を見開く。
「蛍くん? え……」
「……」
「これは……どういうことかな、琥珀くん」
「……俺が相手じゃ不服ですか? 佐伯さん」
琥珀は自分より少しだけ高い位置にある彼の目を睨みつけた。
佐伯は一瞬の戸惑いの表情の後、いつも通り人の良さそうな顔に戻る。どうぞと中に入るよう促すと、まだ扉の前に立ち止まっていたが、場の空気を察したのかホテルの部屋の中へと入ってきた。
そしてジャケットをそのソファーにかけると、どかりとそのソファーに腰掛けた。
「どうして琥珀くんがここに? 私は蛍くんとの打ち合わせでここに来たんだが?」
「わざわざこんなホテルの高級スイートで、ですか?」
「……」
「蛍は何度も貴方からの誘いをお断りしているはずです」
こっちは内容を知っているんだぞ、というのを最初に見せようと琥珀はそう言い切った。
数日前、蛍は戸惑いながらも琥珀に話をしてくれた。
蛍が過去にしていたこと、そしてそれをネタに脅されていること。そして、その脅しの相手は……今の仕事のパートナーである佐伯だということを。
デビューの直前ぐらいだったらしい。蛍は佐伯に誘われて、仕事後に二人で飲んでいた。ようやくメジャーデビューに関しての契約や様々な条件で折り合いがつき、彼に心を許した時期だった。
そんな時に、佐伯にとあるものを見せられ、蛍は絶句した。それは、過去に男性相手に色々な条件で金を無心してもらっていた時期の盗撮写真であった。
一体誰がそんなものをと思ったが、おそらくタイトからだと思う……と蛍は言っている。新宿でのことならともかく、大阪にいた頃の写真まで持っているなんて、今の知り合いではタイトぐらいしか思い浮かばなかったらしい。
そして、佐伯はそのことを脅しに使い、蛍に深い関係を迫ってきていた。
蛍は流石にそれをのらりくらりと躱していたものの、一度酒に何かを混ぜられたのか、意識のないうちに何枚か写真を撮られたという。
流石に琥珀はその詳細までを聞かなかった。蛍が顔を青くして震えているのを見て、聞くべきではないと思ったし、その蛍の反応だけで、佐伯を許せないと思うには十分だった。
その相手が、今、目の前に座っている。琥珀は沸き立つ怒りを抑えながら、なるべく冷静になるように努めていた。しかし、佐伯は琥珀の言葉にとぼけるような返しをする。
「何のことだかさっぱりだな」
「貴方がタイトというヤクザから買った写真、そして蛍を脅して撮った写真、すべて消していただけますか」
震えることもなく、はっきりとそう告げられたのは、偏に蛍のために自分が盾になるという決意からだ。たくさんの苦労をかけた、失望をさせた。琥珀の何重もの罪悪感と、今度こそはという義務感。いや、希望。
そのためには、自分より上の相手であろうと臆することはない。
おそらく、佐伯は琥珀がそこまで強く出てくるとは思わなかったんだろう、戸惑いからか視線が部屋の中を移ろっている。その反応で、写真の出所がタイトであるということも確信がもてた。
「君……どこまで」
「蛍が過去に男性との関係で金を無心してもらっていたのは事実です。けれど、だからと言って、それを脅しの材料にするなんて許されません」
「……」
「普通にセクハラ、パワハラですよ。男性同士でも」
はっきりとそう告げると、佐伯は少しだけ考えて、あーあ、といつもセットしている髪をぐしゃりと乱した。
普段は温和な表情も消え、鋭い目つきになった彼に、こっちが本性か、と思い、緊張が走る。佐伯は体勢を崩してソファーの端に体を寄りかからせると、だからなんなんだ、と首元を掻いた。
「じゃあ、君たちが本当に実力だけで今の位置まで辿りつけたと思ってるのか?」
「……」
「がっかりだな。来期の予算も多く積んでやろうと思っていたのに。君も蛍くんもここまで聞き分けがない子だとは。私に手を離されてどうなるか分かっているのか?」
素直に体ぐらい渡せばいいものを、そんな風に軽く相手が言うことに琥珀は大きな決意をする。そうしてゆっくりと深呼吸をした。
「配信部門トップの矢賀さん、同期だそうですね」
「……なぜ、君が矢賀を知っている?」
「バカなバンドマンは、サラリーマンの序列や権力争いなんて知らないとでも思ってましたか? 俺たちだって、貴方だけと繋がっているわけじゃないんですよ」
突如でた役員の名前に佐伯の顔色がさあっと変わった。琥珀は努めて冷ややかに話を続ける。
「ま、さか……」
「矢賀さんとは随分昔……貴方が声をかけてくるより前にお話をしていたことがあります」
「!! 矢賀はそんなことは一言も……!」
「久しぶりに連絡をとって、今回の件を既に相談させていただきました。俺たちも配信メインに切り替えて売っていってもいいそうです。まあ、貴方がこれで責任を負うことになれば、矢賀さんがこっちのトップになるのも分かっていますが」
同レベル、いや、役職的にはそれ以上の人間を出されて、佐伯の膝が所在なく震えている。こんな風に貧乏ゆすりをするのは考えに焦っている証拠だ。琥珀は淡々と話を続けた。
「どれだけ権力を持ってもまともな人っているんですよ。貴方とは違って」
「!! なにを……!」
「後、あのタイトってヤクザは今頃動物密輸の件で逮捕されているはずなので、貴方との関係がバレるのもすぐですよ。ペット密輸と売春ビジネスがあいつの本職ですよね。各事務所の売れないアイドルやアーティスト……貴方が売春ビジネスに斡旋していたことも、すぐに分かるでしょう」
「!! あれはアイツから持ちかけてきたことだ!」
そこまで言った佐伯に、琥珀はすっとスマホの画面を見せた。そこには、矢賀との通話中のマークが表れている。
「!!」
「いつもは冷静な貴方が珍しい」
呆然としている佐伯を放置し、琥珀は通話先に話しかける。
「矢賀さん、今ので大丈夫でしょうか」
『……ああ、十分です。今後の話はこちらで処理しましょう』
「お時間とっていただき、ありがとうございました」
琥珀は矢賀にも佐伯にもそう告げると、すぐにホテルの部屋を出ていった。
いまだに状況に理解が追い付いていないのだろう、佐伯が呆然としているのだけは理解できたが、その顔など見ていたくもなかった。
部屋からでてエレベーターホールに向かうまでに、ジャケットの中に忍ばせておいたボイスレコーダーの録音を確認し、ほっとする。
こっちの声も向こうの声もちゃんととれている。矢賀がちゃんと動いてくれなかった時用の保険だ。琥珀は小さな溜息をついて、ホテルの高層階のボタンを押した。
「……慣れないことはするもんじゃないな……」
普段は敬語もまともに使わないし、人を脅すようなこともしたことがない。
途端に心臓の音が大きくなってくるが、きっとこれでよかったのだ、と自分を鼓舞して、震える足をなんとか耐えた。
高層階にあるホテルのバーラウンジ、その一番奥のソファーではスマホをじっと睨んだままの蛍がいた。
しまった、すぐに連絡すべきだったなと思いつつ、後ろから優しく声をかける。
「蛍。終わったよ」
「!!」
ぱっと琥珀の方を振り向いた蛍は、一気に泣きそうな顔になる。緊張状態のまま待たせてしまったことに申し訳なく思いながら、琥珀は蛍の前に座った。
「お前、別に家で待っててよかったのに」
「琥珀……ごめん……ほんま、俺……」
うなだれて謝る蛍の姿。琥珀はその姿に、さっきまで対峙していた相手に再度怒りをおぼえた。
どうして蛍がこんな目にあわなくちゃいけないんだ。
自分が走り続けていたあの間、自分はわけもわからぬまま光の中にいた。
勿論、忙しかったし、体も心も削られて、一番最初の経験ではあんな事件まで起こしてしまった。
けれど、蛍が自分の知らないうちにこんな闇の中にいたなんて、全然気づけなかった。ずっと同じ方向をむいて、同じ光の中を走っていたと思っていたのに……この怒りはあの佐伯相手にでもあり、何も見えていなかった自分に対しても、だ。
琥珀は蛍に顔をあげてくれ、と声をかけて、その手をとる。
「お前が謝る必要なんてないだろうが。俺の方こそ気づけずにごめん」
「いや……その……俺、誰にも言えんくて……」
「……うん。だから俺にももう詳しくは言わなくていいよ。何もなかった。そうしよう?」
「うん……!」
琥珀は詳しくは何も聞かなかった。
昔、蛍が男性相手にどの程度の関係で金をいくらもらっていたのかは知らない。
それが生活のためだったのかバンドのためだったのか、はたまた全く別の理由なのかも、今はどうでもいいことだ。
けれど、その過去をダシにして、佐伯に脅されていたこと。蛍は詳しくは言わなかったが、流出させたくないような写真を撮られたこと。そして、関係を迫られたこと。
メンバーとして怒る理由はそれだけで十分だろう。
話に巻き込んだ矢賀は、本当に昔一度話したことがあるきりだった。まったくメジャーなどを考えていなかった頃に一度話をくれた男である。
デビューしてからはレーベルの窓口でありトップは佐伯だったので、しばらく連絡をとっていなかったが、思い切って連絡をしたことで光が見えた。蛍のためにできることはないか、それを必死に考えた結果、縋ったものに救われて、琥珀は心底ホッとした。
これでうまくいったかはわからない。
これが蛍のために尽くせた最善だったかは分からない。
けれど、あの結末よりは幾分かはマシだと信じたい。
琥珀は、最初に歩んだ道を思い出しては、また深く心を痛めた。
(きっと、あの時は俺のせいでもっと苦労させたはずだ。俺の方にきた違約金はそこまで大きな額じゃなかった。……今なら分かる。蛍が調整してくれて、痛みもメンバーで分け合ってくれてた。俺に全部を背負わせてよかったはずなのに……蛍はあんな俺のことまで、ずっと考えてくれてたんだ)
あの時の未来、蛍には恨まれたままかもしれないけれど。
今、目の前にいる蛍には、少しは頼りにされたい。
この男が、好きだというバンドで音楽を続けていけるため、そして、自分もそのそばにいるために。
震え続けている蛍の手をとり、琥珀は静かに話を続けた。
「蛍はずっと俺たちが気のつかないところまで調整してくれてたんだよな。金回りも契約関係も……全部お前に頼ってた俺らのせいでもある。それにあんなの向こうが悪いんだから」
「!!」
「大弥や透輝くんには勿論言わない。俺ももうちょっと余裕持ってできるようにするから……ちょっとは頼ってくれよ」
「琥珀……」
蛍は力なくありがとうと言った。その言葉だけで琥珀には十分だった。
自分に何ができるかなんて分からない。けれど、今周りにいる大事な人たちのことだけは大切にして生きたいと琥珀は強く思う。
沈んだ空気をかえようと、少し明るい声を出す。
「っていってもさ、俺と蛍じゃ頭の出来が違うから、そんな役に立つこともないかも知んないけど。でも……お前だけのバンドじゃないんだから」
「……うん」
ぎゅっと握り返された手は汗で冷たく、そして、その指先はまだ震えていた。
「お前がおってくれてほんまによかった……」
その言葉に琥珀の心の内側に波が立つ。
寂しさや悲しさではない、今までにない感情? いや、遠い昔にはあったはずのその気持ち。仲間とともに未来を見ていた、そんなころの初心が純粋によみがえってきたのだ。
(俺はこの頃、一体、蛍の何を見てたんだろう?)
走り続けていたこの頃の記憶はない。激しい濁流に飲み込まれて消えてしまった光。
その時期のことを忘れてしまったのは、酒のせいだったのか、それとも罪悪感からか。
(昔はもっと蛍のことを分かっていた気がする。忙しさにかまけて、こいつが一人で奮闘してることも知らないで……。いや、心のどこかでは気づいてはいたのかもしれないけど、目を背けてた)
ありがとう、ともう一度縋るように握りしめられる手。見たことがない蛍の姿。
それに充足感とともに不安が頭をもたげてくる。
(……俺は、透輝くんや大弥のことも、どのぐらい見ていた?)
自分はまだ、何も分かっていないのかもしれない。