第一章 新宿ビジョンと包丁女
ステージ、それは特別な者だけが上がることを許される場所。
そして、その真ん中、フロントに立って光を浴びることができるのはその中でもほんの一握りだ。
――その光の中に居続ける人間なんて、一体どのぐらいいるんだろうか?
*
『今日はVVVの三人に来ていただいています! 小沢プロデューサーの新しい人気配信ユニット! すごい人気ですねー!』
『小沢さんのお陰ですーっ!』
新宿歌舞伎町前のビジョン、そこには三名の若者と穏やかな男性が四人で並んでいた。
カメラがパーソナリティの女性に切り替わる。テンションの高い若者の声が街の喧騒の中にもよく響いた。
ビジョンから道路を挟んだ喫煙所、そこにいる数名がそれをぼうっと見上げていた。それにつられるように高良琥珀は顔をあげ、そのビジョンに映った男性の顔を見てギョッとしてしまう。
琥珀は慌ててうつむき、誰も見ていないのに誤魔化すようにタバコを吸い直した。心臓の音が高鳴る。けれど、若い女性の高い声が耳について、そちらが気になってしまう。
『小沢さんといえば、私、STONESの大ファンで! Refrainが大好きでした!』
『はは、ありがとうございます。随分古い話ですが』
そう答えて柔らかな笑みを浮かべる童顔の男性の下には「小沢蛍 音楽プロデューサー、元「STONES」のベーシスト。昨年のベストプロデューサー賞受賞」との説明テロップが流れている。それを見た隣の男たちが話し始めた。
「すげーな、小沢蛍」
「小沢ってあれだろ。暴力事件で解散したSTONESの……ベースもすげえうまかったよな」
「ああ。ボーカルがめちゃくちゃだったアレなー。売れて絶頂期に干されて大変だっただろうな」
隣から聞こえてくる何気ない会話に琥珀はびくりと体を震わせて、タバコを吸っている手を止めた。信号待ちのみんなが見上げているビジョンをチラチラと見るも、昔馴染みの顔が気になって、直視することができない。
古いタバコの苦味に胸の奥がつまるようだった。横にいる男たちの会話に顔を隠し、タバコを潰してそそくさと喫煙所を抜け出そうとする。
「そういや、あのボーカルって今何してんだろうな。琥珀? だっけ?」
「歌舞伎にいるらしいぜ。TDグループでホストやってるってよ」
「まじ? もう四十過ぎ? 手前だろー? まあ、顔だけはよかったけどなー流石に劣化してんじゃね?」
後ろから聞こえてくる雑音が心をざわつかせる。琥珀は長く伸ばした前髪を下ろして、猫背で歩いた。
ブリーチで痛んだ金髪の毛先は枝毛だらけだった。今月は美容院にも行けていない。汚くなっているだろう根元も気にしなくなり始めてきている。さっきテレビの中にいた男とは大違いだ……。
俺も本当はあんな風に「向こう側」にいるはずだったのに。心の小さな波が琥珀の僅かに残ったプライドを傷つけていた。
チッと小さく舌打ちをした後に店への道を歩いていると、コートのポケットの中でスマホが鳴った。ちょうど日が沈み始め、歌舞伎町が騒がしくなる時間帯であった。
「ねえ、このおじさん誰ー?」
「奈美子、おじさんとか言うなって。琥珀さーん、奈美子がボトル開けてくれたから、水割り人数分作ってくれる?」
「えー、このおじさんに飲ませていいなんて言ってなぁい」
歌舞伎町の夜はいつものように更けていく。そして変わりなくくだらない日常が繰り返されるだけだ。
ヘルプについた卓の女性にそんなことを言われて苦笑いを返した琥珀だったが、女性は琥珀の存在などないもののように、担当ホストである海斗に寄りかかっている。体つきから風俗嬢かな、などと思いつつも黙々と水割りを作っていると、耳に馴染んだイントロの音にびくりと体が震えた。
「おっ、この曲、琥珀さんのじゃんー」
「えー? どういうこと? これ、奈美子も小さい時に聞いたことあるぅ」
「琥珀さん、STONESってバンドのボーカルだったんだよ」
「えー、うっそ。元芸能人ってこと? わー、すっごぉーい」
このすごーいは一瞬で「何かがあってここまで落ちた」を理解した声だ。もう何千回と送られ慣れた視線を見るのも嫌で、いえ、昔の話です、と琥珀は長い前髪に表情を隠していた。
「奈美子、聞いてみたぁい」
「じゃあ、ラスソン歌えるようにシャンパン入れてよ。そしたら、俺のラスソンで曲入れて、琥珀さんにサビだけあげるから。この曲、サビだけ高音やばくて俺だと絶対に出ねえし」
「えっ、そんな難しい曲なんだね。すごぉい!」
「いや、それは……」
女性客と海斗が盛り上がっている中、琥珀は薄く冷や汗をかいた。自分がこの今の曲でヒットしたのは嘘ではない。嘘ではないが……。
「じゃあ、このサビを今歌ってくれたら考えてあげるー」
「おっ、奈美子がこう言ってる! 琥珀さん、頼むよー! 売上アップ!」
店の上位ホストと女性客に言われ、いや、あの、と視線を動かしていると、大きな舌打ちがされた。
「今月も最下位更新したくないなら、歌えってんだよ、なあ?」
耳元で海斗にそう脅された琥珀はやむなく、その場でサビを口ずさむことになった。
しかし……その歌声を聞いてきょとんとした女性客が、一瞬の間を置いて、ゲラゲラと笑いだす。
「歌えてないじゃん! ってか、声、ひっど!! なにそれ!?」
「……年でこの音域は出なくなってしまって……失礼しました」
それはひどい声だった。酒とタバコのせいか随分前に喉はほぼ潰れていて、とても歌えるような声ではない。海斗は既に知っていることだ。思った通りの展開に気を良くしたのか、彼は手元の水割りをぐいぐい飲んでいた。
別のテーブルのヘルプに呼ばれ、席を立った琥珀。女性客と海斗はそんな笑いのタネを一瞬で忘れたようにまた会話を続けている。
「今のじゃシャンパン入れられないよぉ」
「ラスソンでひどい声全部ききたくねえの?」
「いらなぁい」
――琥珀はぐっと拳を握りしめると、一度店奥に戻ってから、また別のテーブルへとヘルプにつくことになった。
「……どういう……ことですか」
「どうもこうもねえよ、琥珀。お前の客が飛んだんだよ」
「まさか……そんな……」
店の営業時間終了後、琥珀は愕然としていた。夕方にあった着信は、今目の前にいるこのホストクラブのオーナーからであった。店に最後まで残れといわれ、締日には程遠いのになんだろうかと思っていると、その内容は想像もしていなかったことだった。
長く細く支えてくれていた客が飛んだ……つまり、店へ名義だけでつけていた掛金を残したしたまま消えたというのだ。
琥珀は様々なホストクラブを転々としていた。若い頃は店とのトラブルも多く、最終的に、暴力団の息がかかっているこのTDグループで面倒になることになった。
経歴のこともあり、ずっとホストでの名前を本名から変えていた。しかし、年をとったせいもあり、あまりに客がつかず、集客を見込んでこの店ではバンドマン時代の名前にされ、経歴も晒されてしまった。
しかし、バンド時代から追っかけてきていたファンは、ホストになった最初の頃はどこで噂を聞いたのか客としていたのだが……トラブルばかり起こす琥珀に愛想をつかして去ってしまっていた。名前が元に戻ったところで、琥珀につく客などいなかった。
この店に来てからは、ほとんどが若いホストのヘルプだった。しかし、長年ついてきてくれていた深雪という客がいた。美人ではないし、おとなしく、最初の頃は邪険に扱っていたが、この店でも定期的に来てくれていた客なので大事にしていたつもりだ。その彼女が掛け金を残して消えたのである。
先々月だったか、急にまとまったお金が入りそうだから、と何回かに分けて、数十万ずつの売上を立ててくれていたはず。長い付き合いでもあるし、いつもはちゃんと払ってくれていたから……。
まさか掛け回収の話など気にしておらず、そういえば今月は来ていない……と気づいて、琥珀はさあっと顔を青くした。売掛の回収は先月だったが、一度その時にも話はしている。
「み、深雪が……いくら……」
「ざっと三百万だな」
「三百!? ま、まさか!? だって、俺の売上なんてそんなに……っ」
「数回に分けてただろ。それに回収が遅れりゃ利子がつく。先月の回収漏れの時に俺は確認したよな? 回収しなかったお前が悪い」
ナンバー争いなんて全く関係ないところにいた琥珀は、すっかり数字に対する意識を失っていた。また、深雪は長く細い客だったため、その金額の扱いもぞんざいにしていた自覚はある。ここ数回のボトルには感謝していたが、まさか、そんな……と言葉を失った。
この店は経営のバックに暴力団がいることもあって、ホスト自体へのマージンは低いし、回収にはうるさい。そして、売掛金は当然回収できなければ担当ホストの債務となる。
なんだかんだで決算期までは店も待ってくれるのが慣習ではあったが、半期決算前でオーナーも待っていられなくなったのだろう。この回収催促は当然のことだった。
「お、俺が今から何としても回収します! 今月の締日までには……!」
「俺は深雪は「飛んだ」って言っただろ。身分証の住所はもう引き払われていた」
「えっ……」
「勤務先は知ってるのか」
「し、知りません……個人的な連絡先しか……」
「もう繋がらないだろうな」
琥珀も予想していたが、オーナーの目の前で慌てて通話をかけても、予想通りの虚しいメッセージが響くのみであった。
「……まあ、俺が紹介できるのは、うちのバックが経営してる消費者金融だけだが」
「!!」
ヤクザの消費者金融になど手を出せば破滅は目に見えている。ただでさえ、バンドマン時代とホストの最初の頃の豪遊癖で浪費してしまっていた琥珀には、今は生活する金だけでいっぱいいっぱいだ。
あの頃から比べれば、マンションもどんどんとランクが落ち、今は駅からも遠い安アパートに住んでいるぐらいである。貯金もなければ、金を借りるあてもない。絶望はすぐそこに近づいていた。
「今日、お前の債務はうちのバック企業に回したから、一日ごとに債務は膨らんでくことになるな」
「!! そ、そんな……!」
「うちはもう稼げねえホストを雇ってやれるほど余裕もないんでね」
クビだよ、とオーナーは琥珀に言い放った。そして、部屋の奥からスーツの男が二人、ぬっと現れてくる。身長170センチもない琥珀にとって、見上げるほど大きな男たち。
「こいつです。連れて行ってください」
「!!」
いやだ、と微かに抵抗するも虚しく、すぐにその男二人に両脇を抱えられて、琥珀の小さな体は無様に引きずられていく。
男たちがこの店のバックにいるヤクザであることは明らかだった。恐怖で叫ぶことすらできない琥珀を見下ろしたオーナーは、タバコを吸いながら哀れみの目をこちらに向けてきた。
「俺もお前の歌だけは好きだったんだがねえ。もう歌えねえんじゃなぁ……お前のような根性なしじゃ、底辺ホストにもなれやしねえ」
その冷笑とも嘲笑とも言えぬ視線、琥珀は惨めさに胸が詰まった。そして、扉の外に引きずられ、黒塗りの車に放り込まれたのであった。
「おら、降りろ!!」
「……ここは……?」
ハッと気づいた時には、車は都内の高級マンションの地下駐車場につけていた。内臓でも売れと言われるのか、何かにサインしろと言われるのか……。
琥珀は実家にはバンド時代のトラブルの件で勘当されており、親に頼ることもできない。そもそも四十手前の男が親に頼るなど、そこまで情けないことがあろうか?
一体何を、ここはどこだ……? そう思っていると、男たちは「おい、来たぞ」と琥珀の腕を引っ張りだし、そして、そこにやってきた黒のワゴン車の前へと琥珀の体を放り出した。静かだった駐車場に車のブレーキ音が響く。ワゴンは停まり、大丈夫ですか!? と中から人が出てきた。
「!!」
「……琥珀……か?」
車から慌てて降りてきた男は、今日、歌舞伎町のビジョンで見た男、そしてかつての親友である。
小沢蛍。近年話題沸騰、気鋭の音楽プロデューサーだ。そして、琥珀の昔やっていたバンド「STONES」のリーダー兼ベーシストでもあった。
蛍は突然のことに唖然としたが、なんですか、と琥珀の後ろに立つ男二人を臆しもせず睨みつけた。車の運転席にいる女性はマネージャーのようで、突然のことに声も出ないのだろう。遠目でも震えているのが分かる。
君は出てこなくていい、と蛍はそのワゴン車の前に立っている。さっぱりとしたスーツを着た蛍を琥珀は地から見上げることしかできない。その冷たい視線は琥珀に向くことはなく、じっとヤクザの二人を睨んでいた。
「ほ、蛍……っ」
「どうも、小沢さん。私たちは高良さんの関係者でしてね」
「……」
どう考えても堅気でない男たち二人に囲まれた蛍だったが、コレがなんかしたんですか? とようやくまともに琥珀を見下ろした。
その目は呆れを通し越して何の感情もないように見える。久しぶりに聞いた彼本来の関西混じりのイントネーション。琥珀はぐっと俯いて、地にある痩せた手を握ることしかできない。
「いやね。私たちの会社が彼にお金を貸してまして」
「……そうですか」
「ほら、お前からも小沢さんにお願いしろ!」
「うっ……!」
男の足が琥珀の腹に重く入る。地に頭をつけるような形で琥珀はうなだれていた。
琥珀が周囲との縁がほとんどないことをもう調べていたのだろう。最初から元バンドメンバーであり成功している蛍に、金を集りにこさせるつもりだったのだ……。
琥珀は状況を理解しつつも、ショックから言葉を発することができずにいた。
(蛍には……蛍にだけは……迷惑は……!)
琥珀が黙っていると、男たちが琥珀の体を蹴り上げた。深夜で周りには誰もいないが、蛍はそれを「やめてください」と制して「いくらですか」と男たちに尋ねた。それに男たちはニコニコと三百ですと答える。琥珀は慌てて蛍の足にすがりついた。
「や、やめろっ、蛍……そんなの払わなくていい……っ」
「……三百ですね。大木さん、悪いんやけど部屋の金庫からとってきてくれへん? 俺のデスク脇になら、現金でそのぐらいあるやろ」
「は、はいっ、今すぐ!」
車の運転席から出て行ったマネージャーが慌てて部屋に向かう。その姿にひゅうっと軽い口笛を吹いたヤクザの足が、また琥珀の腹に入った。
「うっ……!」
「いい友達を持ってよかったなあ」
「ほ、蛍……、俺は……っ」
琥珀が蛍に謝罪しようとした時、車の扉がスライドした。
「蛍くん、どうかしたの?」
「あ……っ」
後部座席から顔をのぞかせたのはヘッドホンをつけたままの長髪の男……阿波野透輝であった。琥珀の姿に気づいて思わず車から出てきた透輝であったが、状況を把握できずに唖然としている。そして、その奥から出てきたのは……。
「琥珀……?」
「だ、大弥……」
喜多原大弥は若い頃と変わらず少しばかり地黒で、シャツを開いた首元に覗くタトゥーは消えていなかった。
車の前に立つ三人の男――小沢蛍、阿波野透輝、喜多原大弥。琥珀のいたバンド「STONES」のベース、ドラム、ギターである。三人はそれぞれにシックで上品なスーツに身を包んでいた。唖然としている琥珀をよそに、ヤクザの一人が、すげえと口笛を鳴らした。
「はっ、STONES勢揃いだな。俺も学生時代によく聞いてたわー」
「……っ」
言葉を失う琥珀に、蛍が淡々と告げる。昔のように砕けた関西弁が地下駐車場に響いた。
「たまたま三人で飯食いに行っててん。俺の受賞祝いをしてくれるって言うてな。俺の家でもう少し飲もうかって一緒に帰ってきたんや」
「そ、そうか……」
気まずい沈黙が流れる中、大木と呼ばれた女性がバタバタと駐車場まで戻ってきた。手渡された封筒の中身を確認し、蛍はその場にすっと座り込むと、まだ座り込んでいる琥珀にそれを渡す。
「三百入っとる。確認せえ」
「……わ、悪い……」
よかったなあ、とぽんぽん肩を叩いて琥珀の体を引き上げたヤクザたちは、そのまま琥珀を引きずろうとしていく。三人の元メンバーがじっと見ているのがわかり、琥珀は焦るように叫んだ。
「ちゃんと、ちゃんと返すから!」
その言葉に唇を噛んだ蛍が、ふざけるな、と喉奥を震わせた。
「二度と俺らの前にそのツラ出すな、ボケ! お前が俺らに何したか忘れたんか!!」
蛍の豹変ぶりに隣にいた大木が震える。細かく震えている蛍をかばうように大弥が肩を抱き、透輝は琥珀に一瞥をくれただけであった。そして、琥珀はまた男たちの車に乗せられて、別の場所へと連れていかれることになった。
事務所での借金返済手続きを終え、琥珀は蹴られて痛む腹を抑えながら、自宅までトボトボと歩いていた。
深夜二時は過ぎているだろうか。ヤクザの事務所で言われた言葉が今も頭に残っている。「こいつ、STONESの琥珀ですよ」「ああ、あの事件を起こしたやつかぁ」「サービスで歌っていけよ」……情けなく年齢よりも嗄れた声で「もう歌えません」と答えるのが精一杯であった。
(蛍、透輝くん、大弥……)
久しぶりに見た面々だ。蛍はテレビに出て活躍しているが、透輝はスタジオミュージシャン、大弥は配信メインのコンポーザーと裏方に回った。しかし、それぞれに業界では成功していると聞く。そんな三人の先ほどの姿を思い出し、琥珀は自分のよれた安物のスーツを情けなく思った。思わず口元を抑える。
蛍に言われた言葉が何度も頭の中でリフレインしている。呪いのように耳に残っていた。懐かしいあの声が、昔は優しく明るかったあの声が……自分をきつく責め立てる。
『お前が俺らに何したか忘れたんか!!』
忘れたことはない。一度も忘れたことはない。忘れたくても忘れられない栄光と挫折だ。
琥珀のいた「STONES」はバンドブーム再来のきっかけとも言われたバンドだった。
もうCDは売れないと言われた時代、それでもCD現物でも配信数でも売上ランキング一位を攫い、デビューシングルである「Refrain」で多くの記録を樹立。メジャーデビューアルバムを引っさげてのアリーナツアーチケットは即完売、配信の予約数も凄まじく、落ち込んでいた音楽業界を救う存在ではないかとも言われていたぐらいだ。
その日々は恐ろしい目まぐるしさと忙しさだった。様々な番組に呼ばれ、細かなイベントからライブまで。どこに行っても人人人……。
そんな話題の中心にいたカリスマボーカル「琥珀」。
その声はバンドサウンドに合いつつも、恐ろしく伸びやかな音域を出し、歌い手殺しと言われたほどの難曲も歌いこなせる――まさにスーパーボーカリストであった。
中性的な見た目、穏やかな人柄……いや、それを取り繕っていた。
多忙な日々に心が蝕まれて、琥珀は芸能界の闇にあっという間に擦れ、人間不信に陥り、睡眠薬と栄養剤に頼る日々を送っていた。それでもバンドは輝かしい話題の中心にいた。
――あの事件が起きるまでは。
アルバムツアーの始まる前日に起きた、ボーカル琥珀の暴力事件と薬物疑惑。
当然、琥珀たちはマスコミに追われ、世間からはバッシングを浴び、中止となったツアーのせいでレコード会社とイベント会社には大損害。
バンドとして持っていた楽曲の著作権までもを抑えられ、バンドは解散……。まさに天国から地獄への転落であった。
琥珀が暴力事件で留置所にいる間、メンバーはそのことを知らなかった。
ツアー初日の最終リハーサル前に琥珀のことを知り、出来上がっているステージを目の前にして、そこへ上がれなくなったのである。
もちろん、すぐに活動できるわけもなく、三人とも数年は厳しい状況に晒されたのは明白であった。
特に蛍はバンドのリーダーでもあり、金銭関係や契約関係を全て引き受けていたため、金銭的にも精神的にもかなりの負担があったことは分かる。
そう、今なら分かるのだ……。それなのに、琥珀は、事件を起こした後、とんでもない失言をした。
事件について反省しないボーカル、作曲のことしか考えていないギター、職人気質のドラム……。今後のバンドのことをビジネスとして考えて、関係者と議論できたのは蛍だけだった。
バンドをこれからどうするのか、ボーカルだけをしばらく自粛して、また四人でバンドでできる道はないのか、それを模索して真剣に議論する蛍とスタッフ。
何も言う気力もなく疲弊した大弥と透輝。それを前にして、全てに腐りきっていた琥珀は反省もせずにこう言い放った。
『フロントの俺が居なければ、このバンドなんて価値がない』
言葉を失った蛍が琥珀に殴りかかるのをスタッフが止めたが、隣で黙っていただけの大弥が琥珀に乗り上げて殴りつけた。それ以来、三人と顔を合わせたことはない。実に十数年ぶりの再会がさっきである。
全て事務所と弁護士を通してでしか話をせず、淡々と金銭と契約の関係を整理され、そして、バンドは解散……四人の道はあの時に分かれてしまったのだ。
(俺は……どうしてあんな発言を……)
分かっていた。バンドをやる以上、主にボーカルに負担が来るのは理解していた。
メジャーに上がる時に覚悟を決めたはずだった。自分はあまり作曲ができない。歌うことしかできない。だから、言われるがままに働いたつもりだったし、それを自分の役割だと理解していたはずだった。
けれど、自分は自分が思うほど強くはなかった。
いきなり現れたバンドを持ち上げてくるメディアの恐ろしさを理解せず、花に群がる蝶のふりをした害虫に気づかず、薬物パーティーに巻き込まれ……そして、あの事件を起こした。
なぜ自分だけがこんなに働かねばならないんだ、という思いがどこかにあったのも、自分がフロントに立つことで、自分ばかりがバッシングを受けているのも分かっていた。
ライブでの歌が下手、低身長、顔だけ、整形疑惑……心が擦り切れて、何も見えていなかったあの頃。琥珀はあの渦の中で溺れていたのだ。けれど、自分が潰れそうだということにすら気づいていなかった。
ぐうと突然鳴った腹に現実に戻る。タバコとビールとカップ麺を買ってコンビニに寄ると、今日、歌舞伎町で聞いた曲が流れてきた。
蛍がプロデュースしているユニットだったか。相変わらずポップな曲調を書くのが上手い。それを聞きながら夜道に戻る。心がざわついている。こんな所まで落ちた自分でも嫉妬という醜い感情はあるんだな、とますます自分を情けなく思った。自分にはそんな権利がないと分かっているじゃないか。小さく首を振って、なんとか気持ちを落ち着かせる。
そして、今日久しぶりに歌った曲をもう一度口ずさんでみた。自分の耳に響く汚い声。やはりサビは出ない。
――悔しい。
何度だって思い出した。あの頃の自分の声。
自分の喉はもう壊れた楽器なのだ。今日はそれを何度思い知らされたことだろうか。あまりの情けなさに強く唇を噛むことしかできなかった。
もう、自分は歌えない。音楽をやめ、酒に溺れ、タバコの量も増えていった。荒んだ生活の中で喉はどんどん衰え、容姿も醜く老いてきている。もう自分には歌もない。何もないからっぽの男だ。
駅から二十分近くかかる道を力なく歩き、アパートの階段を登っていくと、そこに小さな影がうずくまっていた。
細く折れそうな体は、ふらり、と不気味に揺らめいた。まるで生きていないモノのような不穏さに、ヒュ、と琥珀は息をのむ。
「み、深雪……?」
「……琥珀くん……」
それは今日オーナーから消えたと言われていた客であった。正確にはバンド時代からのファンの深雪という女性だ。
相変わらず地味な服装でどこにでもいそうな外見。やたらと細く、ガリガリで、手首なんか折れそうだな、といつも思っていた。年齢は自分より二つ下だと言っていたが、おそらく嘘で四十代半ばであろう。
売掛金のことは片がついたが、今更なんの用だと睨もうにも気力がない。しかし、相手の持っているものを見てギョッとする。
深雪はその震える両手に包丁を握っていたのだ。刃先が深夜の暗い闇にぎらりと鈍く光る。それに琥珀は思わず後ずさった。
「な、何を……!」
「琥珀くんの、琥珀くんのせい……っ」
「はあ!? お前が逃げたから俺が借金を背負う羽目に……っ」
「だって何も返してくれないじゃない!」
「!?」
包丁を持った深雪は、その刃先を琥珀に向けたままジリジリと迫ってくる。琥珀は体を後退させるが、もう後がない。古いアパートの錆びた階段の端に靴のかかとが引っかかった。
首元をつうっと冷たい汗が伝う。
どうして、どうして今日はこんなについてないんだ!?
こんな人生が、一体いつまで続くのだろうか?
深雪はその化粧っ気のない顔を、涙でぐしゃぐしゃに濡らしながら、包丁を持つ手を震わせていた。
「ずっとずっと支えてきて、もう私しかいなくなったのに」
「そ、それは感謝してるけど……」
「あれだけ払えば、もうホストなんて引退して結婚してくれるって思ったのに……っ」
「はあ!?」
いきなり何の話だと仰天したのは琥珀であった。深雪は金額こそずっと細かったが、おとなしく楽な客であったし、そんな色恋の話はしたことがない。
なのに、相手はブルブル震えながらも「会社のお金にまで手をつけたのに……っ」と言った。そこで琥珀は「もうすぐまとまったお金が手に入る」の意味に気づく。深雪は何かの時に小さな会社の経理をしていると話していた。それを横領してホストに貢ごうとしていたのだ。
「そ、そんなこと、俺は頼んでない!」
「う、う、う、う、うるさいっ、うるさいうるさいうるさいっ!! ずうううううっと! ずうっとよ! 琥珀のことを支えてきたのは私だけなんだから! 私、会社もクビになって、全部全部琥珀のせいっ!!」
今まで見てきた彼女とは別人だ。錯乱している相手を落ち着かせる術も思いつかず後ずさると、コンビニ袋を落としてしまい、そこからタバコと酒が転げ落ちた。それを見た深雪が包丁を持ったまま、すうっと表情を無くしていく。
「……琥珀くんの、あの声が、あの歌が好きだったの。あんなにキラキラしてる人、この世にいるんだ……って全部捧げたくなった」
「っ……」
「なのに……っ、全部全部全部っ、全部ぜえええええええんぶあんたのせいよッ!! 大好きだったバンドも! 私の青春も!! 恋も婚期も人生も全部全部ダメになった!! 全部全部あんたのせいぃいいい!!」
「なっ……!?」
言いがかりにもほどがあるが、今日全てを失った琥珀にその言葉は深く刺さり、ふらりと体が大きく揺れた。そして、その凶器の刃先が徐々に迫ってきた。琥珀の……喉に向けて。
「あんたが自分の才能を大事にしなかったから……全部あんたが壊したのよぉっ!!」
その刃先が琥珀の喉元をかき切ろうとした瞬間、アパートの隣の住人だろうか、バタンッと扉が開き、若い男の声で「うるっせえんだよ、ジジイババア!」と聞こえた。
瞬間、ふわりと琥珀の体は宙に浮き、その古いアパートの階段から落ちていく。
一瞬の浮遊感の後、ガンッとした後頭部への衝撃。
遅れた深雪の悲鳴は、まるで別世界の音声のようだった。
若い男の声、女の叫び、救急車のサイレン……体が動かない。
意識が遠のいていき、視界は真っ暗な闇の中へと閉ざされていく――。
ガラガラガラという振動で、ハッと反射的に一瞬だけ視界が開く。
血が張り付いているのだろうか、ほとんど開かないそれは薄暗くぼやけていた。
暗い、暗い廊下。
病院だろうか。自分は助かるのだろうか。
いや、もうこんな人生を終えてしまった方がいいのではないだろうか。
もう自分には何もない。
あの声も、若々しかった姿も、自信も、他人を思いやる心も。
途端、耳元に「音」が聞こえた。
初めてバンドで作ったあの曲のイントロ。今日も流れていた……大ヒットしたデビュー曲である。
原型はインディーズ時代からあったもので、このバンドの始まりの曲とも言えるものだった。
大弥が作って持ってきたあの曲を聞いたとき、このバンドで生きていきたい、そう心の底から琥珀は願い、素晴らしい未来を夢見ていた。
インディーズ時代から定番のライブ一曲目。
自分がもう二度と歌えない、切なくも美しい高音のメロディ。琥珀が人生で一番愛した曲。
そして一番傷を抉られる曲だ。そう「Refrain」――。
掠れゆく音の中、誰かが囁いた気がした。
「お願い。もう一度、やり直して……」
琥珀は血に濡れた目の内側をその涙で濡らした。もう歌えない喉が震える。その切実な願いは声にはならない。
――俺だって、全部やり直してえよ。
『琥珀、もう一度やり直して』
「………えっ?」
『琥珀。聞いてるのか? もう一度。今のところだよ。よろしく』
ハッと目を開くと、眩しい光にくらくらと視界が揺れた。琥珀は目の前にあるものを見つめて驚く。そして、その空間に唖然とした。
クリーム色の壁、分厚いガラス、少し息の詰まる緊張感。何度も何度も入った、ここは……そして、目の前にあるこれは……。
(スタジオのマイク……?)
『琥珀? 聞こえてないのか。おい?』
スタジオのスピーカーから出てくる指示は、大弥の声だ。
ハッとして右側を見ると、ガラス張りの向こう側、そこには数名のスタッフと談笑している蛍、ドラムスティックを握ってヘッドホンをしたままの透輝、そして、こっちを見つめている大弥がいる。
琥珀は一瞬声を失った。……まるで、昔みたいな光景だ。
「え……、あ、ああ、どこだっけ?」
『サビだよサビ。Aメロからでもいいけど』
「えっと、何の……」
『お前なあ、持ってるのは何の紙だ?』
大弥の呆れた声に視線を落とすと、自分が持っている紙には歌詞が書いてある。
それを見て琥珀はびくりと体を震わせてしまう。それはアルバム用に一部歌詞を書き直した「Refrain」の歌詞であった。
『もう一回、音いくぞ』
「えっ、あ、ああ……」
あーあーと声を出す。自分の喉が軽い。声もなんだか若い気がする。違和感を覚えつつ、琥珀は夢心地のまま耳に届く音に合わせて息を吸った。
柔らかな声が、喉に、耳に響く。
まるで夢のような気分だ。
Aメロ、Bメロ、サビに入って喉が震える。腹の奥から、ゆっくり静かに息が通る。
サビに入って、少しずつ音階を駆け上がっていくこのメロディは本当に難しい。最終的にhihiAまで出すこのサビ。まさか今の自分に歌えるはずがない……。
(え……?)
声が、出る。
透き通るような高音が自分の耳の奥に響いた。
幻聴かと思うその声は、確かに自分の喉を通り、そして、その空気を細かく震えさせている。バカな、ともう何年も……いや、十年以上は経験していない喉の震え。
この場所が、こんな風に広がって音が響くだなんて。
いつだったか、もう自分の声が、喉が、壊れてしまったのだと絶望したことを思い出す。
あの日以来怖くて使えない、そんな場所が、心地よく開いていく。
(嘘だ……俺がこんな声で歌えるはずがない。そうか……これが走馬灯ってやつか)
死の直前、人はその人生を省みることがあるという。
この夢は、声は、いつしか溶けて、自分の意識はなくなっていくのだろう。それならば、思い切り喉を使っても良いのではないだろうか。どうせ覚める夢なのだから。
琥珀はその夢で歌いきった。昔のように声を美しく震わせて。
ガラスの向こう側で大弥が満足そうに微笑む。隣で蛍がすごいやんと言っているのが見えた。透輝はいつの間にかヘッドホンを外してこちらを見て、ヒョコっと会釈だけをした。
(どういう……ことだ……?)
喉もとを抑える。自分の首、喉仏、なんの違いもない。随分と幸せな夢が続くものだと思いつつ、ふとスタジオの壁にある鏡に気づく。
琥珀はそれを見て言葉を失った。
鏡の中、自分。そう、確かに自分なのだが……そこには、あのブリーチに傷んだみすぼらしいプリン頭や窶れた顔色ではなく、美しく整えられた金髪と艶やかな肌がある。
それは、確かにデビュー直前の頃、まだ若かりし自分の姿であった。