Chapter1-3『迷子と謎の青年』
赤紅葉がほんのりと色づく季節だった。
紅葉に負けないくらいの青々とした草原に一匹の犬が、よたよたとおぼつかない足取りで走っていた。
産まれて間もない白犬ははっはっと息を切らしながら脚を前後に動かしている。
やがて「もう走れない」とそのまま草原にバタンと倒れた。
「ワルツ! もう、あと少しだったのに」
大人びた少女が白犬に駆けより、抱きかかえた。
「フラウ、あんまり無理させちゃまずいよ」
ハーヴはフラウと犬の元に駆け寄りながらつぶやく。
「ごめんね。『躾も教育も徹底的に』というのが私の方針でね」
フラウが傍らで犬を心配そうに覗き込んでいるマリーに犬を渡しながらにへへと笑った。
ハーヴ、フラウ、マリーの三人は近所の公園に来ていた。
先日、マリーが預かったばかりの子犬ワルツをトレーニングさせるためだ。
たしかに輝かしい陽だまりの中で十分な運動をするのは良いことだが、ちょっとスパルタすぎないか……、とハーヴは思う。
ハーヴは持ってきた水の入ったボトルを取り出すと、指で掬うように湿らせワルツに舐めさせた。
ワルツは指についた水を一心不乱で舐めている。
「美味しそうに飲むわねぇ」
フラウが喉を鳴らすように笑う。
「それだけハードだったってことだろう」
ハーヴはそう言いながらマリーに視線を移した。マリーは水を飲むワルツを興味深そうにじいと見つめている。
「美味しそうに飲むから私も喉乾いてきちゃった。私とマリーはなにか買ってくるわ」
フラウがマリーの手を取り言う。
「じゃあ僕とワルツはそこらで待機してるよ」
ハーヴがマリーの手からそっとワルツを取った。
「あ……」
マリーが愛犬と離れるのが名残惜しそうに手を離す。
ハーヴは笑って、
「別にとって食いはしないって。心配性さんだな」
と言った。
フラウとマリーが飲み物を買ってくるのを待っているハーヴは、水を掬ってワルツに舐めさせていた。やがてワルツがもういらない、と顔を背けるのを確認するとハーヴは芝生に寝転び空を見た。
雲ひとつない青空が果てしなく広がっている。あまりの陽気に寝てしまいそうだ。
ぽかぽかと降り注ぐ日光につい呆けていたのは一瞬だった。
目覚めたハーヴの傍らには子犬の姿はなかった。
「ワルツ……!」
ハーヴは舌打ち混じりに叫び、遠くでジョギングやピクニックをしていた人々は何事かとこちらを見てくる。
「ワルツ、どこだ?」
躊躇わずにもう一度声を放った。
「『ワルツ』って、この犬か?」
背後から声がし、ぎょっとハーヴは振り返った。
燃え盛るように豪快な髪色をした青年がそこにはいた。
青年の手にはワルツがまるでぬいぐるみを引っ張るように噛みついている。
「あ、そうそう! ウチの犬です! ワルツ!」
ハーヴは立ち上がり青年を見た。
刹那、得体の知れない戦慄が襲う。
青年の瞳には光がなかった。死んでいると表すべきであろうか。犬に手を齧りつかれているにも関わらず、底なし沼のような目で青年はこちらを見ていた。
ワルツは唸りながら青年の手を放さない。
「あ、あの……」
ハーヴはおそるおそる平然としている青年に問う。
「手、痛くないですか?」
青年の手は犬に齧られて、皮膚に牙がすでに食い込んでいる状態だった。
「僕のことはいい。君の犬だろう? 返すよ」
ワルツはハーヴ手に渡ってもなお、牙をむきながら青年を威嚇する。
青年は死んだ瞳の目尻を僅かに下げる。笑っている、とハーヴは思った。
「昔から動物に嫌われているのには慣れているのでね。じゃあ失礼するよ」
青年は踵を返し、足早に去っていく。
なぜそうしたのかハーヴはよくわからない。ただ、「待って」と青年を呼び止める。
そして、またハーヴは自分でもよくわからない言動に出る。
「僕、ハーヴ。君の名前は?」
お礼を言うはずが、思わず自己紹介をしてしまった。しかしこの青年の名を聞いておかなければならない。ハーヴはそう本能で確信していた。
青年は虚を突かれたように呆然としていた。その間、青年の死んだ瞳に光が宿ったかのように見えたのは気のせいだろうか?
「レイ・ターズ。レータスと呼んでいい」
これがハーヴと青年……レータスの最初の出会いだった。