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南の街のキーンさん

「お嬢さま、今日はどちらにお出かけになるんですか?」


朝日が差し込む、宿屋の客室。

水差しを持ってきた宿屋の娘アデリンが、ミトに()いた。


アデリンは、まるで貴族の屋敷のメイドのようにチョコチョコと部屋を駆け回っては、あれこれ世話を焼いてくれる。

ハッサンが、わざわざ市街から離れたこの宿を選んだ理由がわかるわね……とミトは静かに感謝した。


家庭的な雰囲気の小さな宿ではあるけれど、この朝霧亭は、まるで大公家の夏の別荘のように快適だった。


「お約束があって、またグラン・パレにうかがうのよ」


ミトが言うと、アデリンがカーテンを束ねながら、ええっ……と心配そうな声を出す。


「また、ですか?」

「あら、どうして?」

「いえ……ただ、近頃、あのホテル、いい噂を聞かないから」

「まあ、どういうこと?」


エプロン姿のアデリンは、ミトに近づくと、さも重大な秘密を話すかのように声をひそめた。


「……あそこは、『人喰(ひとく)いホテル』なんですよっ」

「人喰い……? 『お見合いホテル』と聞いたのだけれど──」

「お貴族さまの間じゃ、そう言われてるみたいですけど、庶民にとっちゃ、そんな縁起のいいもんじゃありません。お嬢さまみたいな、きれいでかわいい女の人があそこに出入りしていると、いつのまにか……ヒュイッ!」


アデリンは、虫でも捕まえるように、パッと宙で手を握ってみせた。


「行方知れずになっちゃうんですから」

「行方知れず……?」

「そうですよ。旅行者だけじゃありません。ここ何年かで、有名なソプラノ歌手のシャルロッテとか、ミンコフスキー・バレエ団のプリマとか、いろんな人がいなくなってるんですから」


たしかに、美貌のソプラノ歌手シャルロッテ・ダーエが失踪したという記事は、ミトも新聞で見た記憶があった。

まさか、その舞台があのグラン・パレだったなんて。


アデリンは、鏡台に映ったミトをのぞきこんで、惚れ惚れしたように言った。


「こんなにおきれいで……だからあたし、お嬢さままでそんな目に()うかもと思ったら、心配です……」

「ありがとう。でも、ちゃんと守ってくれる人たちがいるから、わたしはきっと大丈夫よ」

「うーん……それなら、いいんですけど……」


午前いっぱい、ミトは大公家への手紙を書いたり、詩集を読んだりして過ごした。

グラン・パレのカジノを訪れたのは、午後になってからだった。

建物の外はまだ、晴れ晴れとした午後の日差しが明るく照らしているのに、カジノの中には夜と変わらぬ妖しい熱気が満ちていた。


ミトをエスコートするフェアディナントが、甘い声でささやいた。


「許してください……こんな、わがままを言って。でも、どうしても先日、お目にかけられなかった場所もお見せしたくて」

「いいえ、お誘いいただけて、うれしかったです」


中断してしまったカジノ案内に、どうしても再挑戦したい……そんなカードをもらって、ミトは再びカジノにやってきたのだった。前回はあまり遊べなかったスキュラと、警護を外れることを渋るカクタスには、休暇のつもりで楽しんでほしいと強く言っておいたから、今頃フロアのどこかで賭けに(きょう)じていることだろう。


「フロアの奥は、カードゲームのテーブルです……ポーカー、ブラックジャック、こういう遊びはご存じですか」

「ポーカーくらいは少し……でも、みなさんと勝負できるほどではありませんわ」


そのとき、ポーカーのテーブルを取り巻いていた人垣から、わあっと声があがった。


「盛り上がっていますのね」

「いい勝負は、見るだけでも面白いものですよ。のぞいてごらんになりますか?」


フェアディナントは、遠巻きにテーブルを見つめていたフロアスタッフに声をかける。


「どうだい」

「あっ、支配人……それが、またキーンさまの連戦連勝で……」

「ああ、キーンさんか……」


フェアディナントが苦笑しながらミトに言った。


「あの、奥に座っている金髪の男性がトーマス・キーン氏ですが……実に遊び上手な方なんですよ」

「こちらの常連客でいらっしゃるの?」

「そうなってくれればと思っています。実に気持ちのいい方ですから……港湾都市のポルトの南の(まち)に、サクラメントという場所があるそうですが、そちらの大きな商家がご実家だとか。もしかして、ご存じですか?」

()()()()()()()()()……うかがったことのあるお名前のような気もしますけれど──」


そのとき、プレイヤーのひとりがグッと(くや)しそうに声をあげた。


「フルハウスだと……あんた、いったいどうなってるんだ!」

「どうもこうもない。勝利の女神が、俺に味方しているだけさ」


《あら? この声……?》


ミトは、喝采を送る人々の間からどうにか顔を出す。

遊び上手だというその男の顔が、見えるか見えないかというとき、キーンは派手なドレスの女性をいきなり抱き寄せて膝に乗せると、熱い口づけをしてみせた。


「まあまあっ……!」


ミトが口元に手を当てると、フェアディナントがスッとやさしくミトの腕を引き寄せた。


「彼も少し、勝負の熱に当てられたようですね。普段は、あんなことをするような方ではないんですが……」

「残念だわ。お邪魔にならないようなら、ご挨拶したかったのに」

「キーンさんに、ですか?」

「ええ、どこかでお会いしたことがあるような気がしたものですから……」


VIPルームに案内されると、フェアディナントが手早くシャンパンのグラスを持ってきた。


「ふたりの出会いに」

「フェアディさまのご健康に」


言い交わしてグラスを口に運ぶと、トントンとノックする音がした。

フェアディナントは、溜め息を吐いて言う。


「なんだ一体……すみません、少しよろしいですか」

「ええ、どうぞ、行ってらして」


ドアを開けたフェアディナントは、意外そうな顔をすると、何かを小声でまくしたてている。

ミトは、視界がジワッとぼやけるのを感じた。


《どう……したの……かしら……すごく……ねむ……い……》


ポスッ……

ミトがソファの上に倒れ込むと、ぼやけた視界の向こうで、フェアディナントが駆け寄ってくるのが見えた気がした。

暗い海に沈み込んでいくようにミトの意識はボヤけて、やがて目の前は真っ暗になった──

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