温泉の街にやってきました
「ああ、美しい街ね」
街道を走る荷馬車の中から、銀髪の少女がまぶしそうに顔を出した。
オーレリア・アクエンシスは、山々に囲まれた観光都市だ。
谷間の平地に広がる、細長いこの都市の建物は、みな古代帝国風のしつらえで統一されている。
街道には街路樹が整備されて、木漏れ日が行き交う人々をやさしく照らしていた。
馬車の手綱を握った商人のハッサンが、ミトを振り返って言った。
「同盟戦争のあと、荒れ果てていたこの一帯を、オーレリア辺境伯が再建されたんですよ。街並みが古代風に揃っているのも、辺境伯のご趣向だとか」
「この音楽は……野外演奏会かしら」
「ああ、あそこの、広場の噴水の前に人だかりができているでしょう。たしか、日に3回、音楽隊の演奏があるはずです」
「素敵だわ。まるで遊園地みたい」
「ゆう……なんですって?」
「毎日が、お祭りみたいねと言ったのよ」
屋台の立ち並ぶ一画に差し掛かる。
山と積まれた、黄金色の丸い揚げパン。
雪のように白い砂糖が振りかけられて、干し葡萄やベリーが色とりどりにトッピングされていた。
「……ミトさま?」
屋台村を見つめているミトに気づいて、赤髪のスキュラがいたずらな顔で笑った。
「少し散策されますか?」
「ええ、ぜひ──」
黒衣のカクタスが咳払いをする。
「今宵の宿は、街はずれです。あまり市中で時間を食っては──」
「カクタス。貴様、ミトさまのこのお顔を見てなお、そのようなつまらぬことが言えるのか」
「なに……?」
スキュラの言葉に眉をひそめたカクタスを、指をくわえたミトが振り返った。
銀髪の少女の訴えるような瞳に、黒衣の剣士は赤面して、むぅ、とうめく。
「ひめ……お嬢さまっ、そっ、そういうお顔を、みだりに街中でなさってはいけません……」
「あの市を見物してはいけないでしょうか、カクタス」
「ゴホン……お望みとあらば、お供いたします。ハッサン、馬車を停めてくれ。商隊の者たちに我らの馬を預けてよいか」
「へいっ、お安い御用で──」
そして……午後の日射しが、ゆるやかに傾いた頃。
指に残った、甘い揚げパンの粉をこっそり舐めたミトは、噴水の向こうにできた行列に目を留めた。
「何かしら、人が……」
スキュラはポニーテールを揺らして、ミトの視線の先を振り返る。
「ああ、この街の名物ですよ。のぞいてご覧になりますか」
「ええ、行ってみたいわ」
行列の続く先にあったのは、ひときわ大きな古代風の建物だった。
魔除けの魔獣のレリーフが嵌め込まれた、アーチ状の入り口を抜けると、不思議な光景が広がっている。
細長い回廊の先にあるのは、大理石の彫像だった。
巨大なイースターエッグのようなタマゴ型の像にはクジャクが彫り込まれていて、そのクチバシから絶え間なく、透明の湯が流れ出ている。
彫像のまわりには5、6人の少女。
流れ出る湯をカップに汲んでは、行列に並んだ人々の前の、石の台に置いていく。
「あれは……?」
ミトが騎士たちに問いかけると、ふいに足元から、かぼそい声がした。
「飲む温泉だよ」
首から木の箱を下げた幼い少女が、不思議そうな顔でこちらを見上げている。
「お姉ちゃん、知らないの?」
「まあまあ、飲める温泉なのね。何に効くのかしら」
「食欲不振、胃腸虚弱、慢性便秘、産後の不調、神経痛、リューマチその他」
少女は立て板に水で、効能を言ってのける。
「よく覚えているのね。えらいわ」
「ご婦人に特有の悩みや神経症、ヒステリーにもどうぞ」
細い腕で箱を突き出すと、ジャリと音が鳴る。どうやら、料金の徴収をしているらしい。
黒衣のカクタスが、苦笑いしながら投入口にコインを入れた。
「こら、ちゃんと意味がわかって言っているのか?」
「おじさんこそ、男のくせに意味がわかるの?」
「おっ、おじさんだと……」
台の前まで来ると、スキュラがサッとカップをふたつ手に取った。
片方に素早く口をつけて、舌の上で湯を転がす……すぐに目だけでうなずくと、赤髪の騎士は口をつけたほうのカップをミトに渡した。
注意深く観察してでもいなければ、ただカップを受け渡しただけに見えるであろう、流れるような動き。けれども、その間にスキュラは毒見を済ませている。
「ありがとう」
やわらかい笑顔でカップを受け取る銀髪のミトを、湯を汲む少女たちが目を丸くして見つめた。
さまざまな人が訪れる観光名所。
でも、こんな女神さまみたいな人、見たことない──。
回廊の出口を出ると、庭園だった。
街へと戻る通路を歩きながら、スキュラが訊いた。
「いかがでしたか」
「面白かったわ。ここの温泉は、少し、しょっぱいのね」
そのとき、ふいに男の声がした。
「塩化物泉……いわゆる、食塩泉ですからね」
振り返ると、栗色の髪をなびかせた、身なりのいい男が立っている。
柔和で、甘いマスク……左の目尻の下にある泣きぼくろが、どこか色香を感じさせる。
カクタスが、男とミトの間にスッと割り込んだ。
「失礼ですが、あなたは……?」
「申し遅れました、わたしはフェアディナント・シュライヒャー。この街で、グラン・パレというホテルを経営しているものです」
フェアディナントは、手を胸にあてて、うやうやしく会釈する。
ミトは、黒衣の剣士の背後から顔を出した。
「シュライヒャーさま……もしかして、南部のシュライヒャー男爵家にご縁のあるお方でしょうか?」
「うれしいな。麗しいご令嬢が、我が家門をご存知とは。とはいえ、わたしは三男坊で、爵位を継ぐあてもない気ままな身の上です。皇都でくさっていたところを、辺境伯に拾っていただきまして」
スキュラが、好奇心を抑えきれないように訊ねた。
「あの、グラン・パレというと、かの有名なカジノのあるホテルですね?」
「ええ、そう言っていただけて光栄です」
「カジノ……?」
ミトが聞き返すと、スキュラが勢い込んで答える。
「お嬢さま、オーレリア・アクエンシスといえば、温泉とカジノの街なんですよ」
「まあまあ、そうだったのね」
「なかでも、グラン・パレのカジノは、辺境伯がこの街の中心に開いた復興のシンボル……帝国でも指折りの最高級カジノと言われています」
フェアディナントは、艶やかな目を細めてミトを見つめる。
「ご令嬢は、カジノで遊ばれたご経験は?」
「いいえ、ありませんわ」
「それはもったいない。よろしければ、グラン・パレにご招待させてください。初めての方でも楽しんでいただけるゲームが揃っていますよ」
「まあ、どうしましょう──」
ミトが上目づかいに見上げると、黒衣のカクタスはむぅ、とうなった。
「お嬢さまが賭け事をなさるというのは……」
栗色の髪のフェアディナントは、肩をすくめて苦笑いする。
「これは厳しいお目付役だ。ではご令嬢には、雰囲気だけでも味わっていただくとして……よろしければ、お付きの方々が遊ばれてはいかがです。せっかくですから、いくぶんかチップも融通いたしますよ」
「よっ、よろしいのですかっ!?」
赤髪のスキュラが目を輝かせると、カクタスがムスッと睨みつけた。
フェアディナントは、ミトの目を真っ直ぐ射抜くように見る。
「不躾ながら、ご令嬢のお名前をおうかがいしても?」
「北部の織物問屋の娘で、ミトと申します」
「商家の方でしたか。驚いたな……あまりに優雅でいらっしゃるので、てっきり、どこぞの姫君かと」
「まあ、お上手ね」
「では、ミト嬢。明日の夕刻ではいかがですか」
「ええ、よろこんでおうかがいします、シュライヒャーさま」
「どうか……わたしのことは、フェアディと呼んでください」
「わかりましたわ、フェアディさま」
フェアディナントと別れて、街道筋に戻るとカクタスがぶつくさと低い声を出した。
「……あのナンパ男め……ミトさまに愛称など呼ばせてニヤケおって……」
「そう怒らないで。せっかく誘ってくださったのだから」
「しかし、ミトさま……」
「それより、せっかく温泉街に来たのですもの、明日は朝からみんなで温泉めぐりをしましょうね」
「なっ……まさか、市中の大浴場にお出ましになられるおつもりですか?」
カクタスの表情がこわばる。
「そうよ? まさか、温泉に入ることまで反対はしないでしょう?」
「そっ、それは……」
頭の後ろで手を組んだスキュラが、ニヤニヤしながら言った。
「どうする、ヘタレのカクタス。我らが主人は温泉めぐりをご所望だが……まさか、騎士たるもの主から離れて逃げたりはせぬな」
「むっ……おっ、おうっ」
「……?」
クエスチョンマークを浮かべて歩いていくミトの後ろ姿を、物陰からジッと見つめる影があった──。