ばあば、悪役令嬢を知る
みずきは、ミトの孫だった。
もちろん、まだ17歳のマリア・アントーニアには、孫どころか子供さえいない。
お気づきだろうが──それは、彼女の前世の話だ。
そのことを思い出したのは、12歳のときだった。
皇宮の大階段で足をすべらせたミトは、たっぷり2階と半分の高さを転げ落ちて、瀕死の重傷を負った。
傷は腫れて熱を持ち、ミトは来る日も来る日も、ベッドの上で高熱にうなされつづけた。
そんなとき、ふいに、あるはずもない記憶が甦ったのだ。
妙に低いテーブルの前で、床に座って茶を飲んでいる光景。
隣近所の家がギュウギュウと混み合って建つ、街並み。
2階の部屋の、閉め切られた扉の前に、そっとお盆に載せた菓子を置く日々。
「みずきちゃん、おまんじゅういただいたのよ。よかったら、食べてね」
「……うるせえよババア! 来んなって言ってんだろ!」
ドア越しに、乱暴な少女の声が返ってくる。
「それとね、あなたの買ってる……通販、今朝ポストに届いていたのだけれど」
「なんだよ、だったら、さっさと持ってこいよっ」
「ごめんなさいね。最近の通販って、文庫本みたいな小さな荷物は、封筒みたいなものに入ってくるのね。ばあば、知らなかったから、郵便だと思って開けちゃったのよ」
「クッ……ふざっけんな、死ねっ、クソババア! あたしの買ったもん見てんじゃねえ!」
「そんなに恥ずかしがらなくても、ばあば、とっても可愛い表紙のご本だと思ったわよ」
「……」
「『悪役令嬢』って、これ、貴族のお話なのね。ばあばも、昔は少女小説が好きで──」
ガチャリと扉が開いて、ボサボサの油ぎった髪を振り乱した、孫のみずきが顔を出した。
「ばあば……」
「みずきちゃん、ほら、これおまんじゅうを──」
「マジうざいわ。死んでよし」
バンッ。目の前で閉まった扉の風圧に、よろけそうになる。
みずきが、中学校でいじめにあったらしいことは、次男夫婦からも聞いていた。
高校では心機一転、新しい生活をはじめられるだろうと期待していたけれど、なぜかまた、みずきはいじめのターゲットになっていた。
「はあ、そうですか、中学校でも……まあ、なんと言いますか、いじめられやすいタイプの子というのが、どうしてもいるものでして──」
家庭訪問に訪れた教師の言葉に、次男が殴りかかろうとするのを、嫁とふたりで必死に止めたりもした。
みずきは、次第に学校に通わなくなり、通販で買ったゲームや小説に没頭するようになっていた。
何かを理解して声をかけようにも、80歳を超えた自分には、なかなかついていけない現代の遊びの世界。
けれども、その日、間違って開けた封筒の中に、可愛らしい絵柄の入った文庫本を見つけて、心が踊った。
《本のことなら、わたしにも、何か……》
共働きの次男夫妻は、いくらみずきを気遣っていても、そうそう家庭のことばかりに時間を割いてはいられない。
だったら、自分が少しでも、みずきに歩み寄ることはできないだろうか。
駅前の大型書店まで足を伸ばして、若い書店員に声をかけてみる。
「あの……なんていうのかしら、マンガみたいな表紙の、文庫本がありませんか」
「あー、ライトノベルのことっすかねぇ。あそこの、『ゲーム攻略』って書いてある棚の裏が、ラノベの棚っす」
店員が指さす先に足を進めて、圧倒された。
一面に並んだ、「ライトノベル」というジャンルの書物。今まで、書店を訪れることはあっても、このジャンルに目を向けたことはなかった。視界に入ったことがあっても、マンガと区別がつかなかったのかもしれない。
《魔術……電磁……スライムって何かしら。ああ! このあたりは……悪役令嬢がいっぱいだわ──》