冷血官僚、断罪される!?
シャンデリアの灯りが、夜の海を望む窓ガラスに反射して、星のようにきらめいている。
レストラン、オ・ポルト。
晩餐会の会場であるバンケットホールには、人々の談笑や食器の立てるかすかな金属音が響いていた。
磨き上げられた大理石の床は、チェス盤を思わせる白と黒のチェック模様。
ひとつに十数名もの客が着席できる大きな円卓が並んでいても、ホールの内部がゆったりと広く見えるのは、ゆるやかなアーチを描く高い天井のおかげかもしれない。
目を引くのは、この建物が貴族の邸宅だった頃から変わらない、豪華な装飾の数々だ。
なかでも異彩を放つのは、あざやかな青一色で描かれた、巨大な壁画──。
「……が気になるところですが……南部の海防については……提督のご意見は……提督、エンリケ提督?」
グラスを片手に壁画を見つめていた青年は、テーブルの客たちにゆっくりと視線を戻した。
礼服の濃紺の布地の上で、肩章の金モールがサラリと揺れる。
「失礼……今、なんと?」
銀海岸地方の領主アフォンソは、ふっくらした頬をゆるめた。
「いや……不粋な話です。それより、提督は芸術にご関心があられるようですね」
「なかなか興味深い壁画でしたので。あれは……タイル画ですね?」
「中央の方には珍しいでしょう。アズレージョと言いましてな。このあたりでは、屋敷や教会の壁画によく使われる技法なのです。色彩豊かなものもありますが、こうして青だけで描かれたものも、なかなか趣きがある。そうは思われませんか?」
「ええ……ところで、この絵のモチーフは、なんでしょう。宗教画のようですが」
タイルに焼きつけられた絵には、海岸沿いの崖下で波が荒々しく砕ける様子が描かれていた。
断崖の上には、バランスを崩してあやうげに馬を走らせる騎士の姿。
海上の空には、女神のような女性が浮かんでいて、やさしい表情で騎士を見守っている。
女神が放つ神々しい光は、騎士に追いすがる悪霊にも似た影を祓っているらしい──。
地方官のパウロ・デ・オラビーデが、壁画を見上げながら答えた。
「銀海岸に伝わる逸話でしょう。その昔、鹿狩りに興じていた騎士が、深い霧の中にとらわれた。進路を見失い、崖から転落しそうになったとき、海上に奇跡の聖女が現れ、闇を照らして騎士を救った……と、そんなふうに言い伝えられているのです」
「道を見失った騎士に、光を……ですか」
まるで、あの子だな。
エンリケが低くつぶやくと、領主はなんですって? と聞き返した。
「いえ、なんでもありません」
金髪の貴公子は、静かに微笑む。
その笑顔を見て、斜め前の席に座ったアフォンソの娘セシリアが顔を赤らめた。
それもそのはず──
エスカローナ侯爵エンリケ・レオンといえば、皇都の社交界でもレディーたちの憧れの的だ。
プラチナに近い金髪に、紫がかった瞳。古代の彫像を思わせるスッと通った鼻筋。
史上最年少で帝国海軍の提督に任じられた鬼才。皇族に次ぐ権威を持つギュアスタラ大公の義弟。
そのうえ……独身で、どういうわけか婚約者もいないという。
領主のアフォンソは、娘にチラリと視線を送る。
まさか、帝国中の名家が縁を結ぼうと血道を上げているエンリケ提督が、都合よく自分の娘と恋に落ちてくれるとは思わないが……ま、まぐれということもあるからな。
がんばれ、娘よ……父が意味深長な顔でうなづくと、セシリアはゆでダコのようになってうつむく──。
そんな主賓のテーブルの様子を、セザル・ダヴァロスはどんよりした目で末席から見つめていた。
《修道会の連中め……いつになったら、話を切り出すのだ……》
6コース、24皿からなる豪華な饗宴は終盤を迎えて、残すは最後のデザートだけになっていた。
普通なら甘味などさっさと済ませて、食後の酒宴になだれ込むところを、地元の特産品をアピールしたい領主がもったいをつけさせたために、かろうじて歓談の時間が続いている。
最前列のテーブルには、セザルの読み通り、この港町の教会の司祭と並んで、アルコア修道院の院長も席を連ねていた。
すぐ近くには、修道会の幹部や近隣の教会関係者が集まるテーブルもある。
それなのに、修道士たちが領主に寄付金についての不平を訴え出る様子は、一向に見えない。
《やつらが口火を切らないなら……》
セザルは、商業ギルドの面々に混じって談笑している大柄な男に目配せする。
裏社会では「パパ・ペドロ」として恐れられている実業家は、浮かべた微笑みを絶やさずに、ゆっくりと首を横に振った。
《焦るな、とでも……? クソッ、ガキ扱いしよって──》
奥歯を噛んだとき、領主の言葉がセザルの耳に飛び込んできた。
「デザートまでは、まだ時間がありますな……提督、いかがかな。セシリアは我が娘ながら、この地方の美術をよく勉強しておるのです。娘に案内させますので、しばし館の壁画を見て回られては」
「それは、うれしいお申し出ですね。ではセシリア嬢、お願いしても?」
「はっ、はいっ……もちろんですわ──」
セシリアは頭から湯気を吹きそうになりながら、エンリケにエスコートされてテーブルを離れる。
領主は、わざとらしく溜め息を吐いてみせた。
「はてさて……これでセシリアが、他の家には嫁がぬなどと言い出したら、一大事だな」
「まあ、あなたったら……ご自分で焚きつけておいて」
領主夫人が苦笑して話題が途切れると、ふいにアルコア修道院の院長が口を開いた。
「ときに、領主さま……この機会に、ぜひおうかがいしたい議がございます」
「ほう、何かな」
「不躾ながら、このところ修道院へのご寄進を減額されておられるようですが……なにゆえにございましょうか」
「なんだと……?」
「のみならず……ここ1年ほど、地方官さまの使いを名乗る者が、ご寄進の使い道にしきりに注文をつけるのです……罪の子が集まる救貧院などに、領主さまのご寄進を配分するとはけしからぬ、ほどほどにせよ、と。これは、まこと領主さまのご意向と考えてよろしいものでしょうか」
「まあっ!」
領主のアフォンソが何か言う前に、領主夫人が怒りに満ちた声をあげた。
「いったい、どういうことですの? あなた、まさかそのような──」
「なっ、何を言う。寄進を減らせと命じた覚えなどない。まして、救貧院の幼な子たちを見捨てよなどとは……オラビーデ卿っ、これはどういうことか説明したまえっ」
「は、それは……」
パウロが押し黙ると、嘲笑う男の声がした。
「どうした、パウロ・デ・オラビーデ。おのれの悪事が明るみに出て、ぐうの音も出ないか」
姿を現した男を見て、領主は眉をひそめる。
「お前は……ダヴァロス家のセザルだったな」
「ははっ」
セザルはいきなり大理石の床に膝をつくと、興奮気味に言った。
「我が父……ダヴァロス家の先代は、このオラビーデに不正を告発され、地方官の職を追われました。領主さまが我が家門へのご不信を解いてくださらないのも、致し方なきこと。しかし、そのオラビーデもまた、不正をはたらいていたとしたら、いかがなさいますっ」
「なにぃ?」
「この男は、領主さまのなさる多額のご寄進から上前をはねていたのですっ。帳簿の上では、全額を修道会に納めたように見せかけ、書類を改竄し、一部をおのれの懐に──」
黒髪のパウロは、フンと鼻を鳴らした。
「何を証拠に……では聞くが、そのカネとやらはどこにある。言っておくが、わたしの屋敷を家捜ししても、何も出ないぞ」
「ああ、そうだろうとも。貴様は、実に巧妙な手で横領したカネを隠したのだからな」
「巧妙な手、だと?」
セザルが合図を送ると、晩餐会の雰囲気には場違いな男たちが現れた。
強面の男がふたり、オドオドした様子の痩せた男を引きずるように連れてくる。
異様な空気に、ホールに集まった地元名士や海軍関係者の視線が、主賓のテーブルに集まった。
そんな会場の様子を見て、セザルはいっそう声を張り上げる。
「領主さま、彼は南海岸で長年、漁を営んできた者です。しかし、最近になって住み慣れた土地を奪われた……さあ、何があったか、領主さまに申し上げてみろ」
「へ、へえ……領主さまが海岸で新しい事業をおはじめになるからと、地方官さまのお使いが、あっしらに立ち退きの命令を……」
「待て……南海岸での事業とは何のことだ。わしは知らんぞ」
領主が戸惑った表情を浮かべると、セザルは勝ち誇ったように言う。
「架空の事業です。これこそ、オラビーデの不正の手口っ。ありもしない事業をでっちあげ、横領したカネで土地を買い占める……海岸沿いの土地は、観光業で今後、莫大な富を生み出します。時機を見て公職を退き、実業家でも気取るつもりだったのでしょうが……そうは問屋がおろさんぞ、オラビーデ!」
「なるほど……」
「ククッ、まともに申し開きもできないかっ。その沈黙、罪を認めたも同然だっ。領主さまっ、そもそもこやつが我が父を告発したのも、清廉な正義感からなどではない疑いさえございます。銀海岸の利権を貪ろうと、邪魔者を排除したにすぎないとすれば……とんでもない大悪党ではありませんかっ!」
「なんと……」
領主は、衝撃を受けた様子でつぶやいた。
「もちろん、我が父にも落ち度はございました。しかし今やダヴァロス家は、過去と決別しております。領主さまのご厚意を食い物にして私腹を肥やす新参者を地方官にすえるくらいなら、代々、当地をお預かりしてきた我が家門に、どうか再び、この銀海岸をお任せいただけませんでしょうかっ」
ホールの空気がピンと張り詰める。人々は、固唾を飲んで様子を見守っていた。
静まり返った会場に、ぽつりと黒髪の地方官の声が響いた。
「言いたいことは、それだけかね──?」