若いって、いいわね
深夜──丘の上のナザリオ家。
母屋と、ダイニングホールや厨房のある別棟をつなぐ渡り廊下からは、丸い水平線が星あかりに照らされて、ぼんやりと薄青く光って見えた。
そんな回廊の石組みに腰を下ろして、料理人のダヴィは、ボンヤリとグラスを傾ける。
潮風が巻き上げた蒸留酒の香りが、鼻の奥をくすぐった。
「はあ……」
溜め息を吐いたとき、ダヴィの頭上から女の声がした。
「ここが、あんたの特等席?」
首をそらせて見上げると、しなやかな腰つきの女が、手すりにヒジをついて海を眺めていた。
あのお嬢さんとよくつるんでいる客……たしか、名前はアマンダだっけ。
「……ま、そんなとこだな」
「ミトちゃんは?」
「まだ、厨房……ほんと、よくやるよな」
投げやりに言うダヴィを、アマンダは目を細めて見つめる。
「なぁに、たそがれちゃって」
「別に……」
「悩みがあるなら、おねえさんが聞いてあげちゃうぞ?」
「ほっとけよ」
そんな言葉を無視して、アマンダはダヴィの横に並んで腰を下ろした。
ダヴィはあきらめたように、小さく溜め息を吐く。
「ただ……オレはさ、ずっとここで暮らしてきて、毎日あの厨房仕切って、なるだけ豪華なメシ作って……それでいっちょまえなつもりでいんだ。救貧院のガキどもが困ってるのは知ってたけど、世の中、そういうもんだと思ってた。自分にも何かできることがあるかもしれないなんて、考えもしなかった。でも、アイツは──」
そう、あの奇妙なお嬢さまは、そうじゃない──。
夕刻、屋敷に戻ってきたミトの話を聞いて、ダヴィは腰を抜かすほど驚いたのだった。
「はぁっ!? オ・ポルトで出すデザートをまかされたぁ!?」
銀海岸で働く料理人なら、誰もがその厨房に立ってみたいと憧れる最高級レストラン、オ・ポルト。
そこで開かれる晩餐会のデザートを、こんなワケのわからないお嬢さまが……?
けれども、ミトが上機嫌だった理由は、そこではなかった。
「それより、ダヴィさん、すばらしいのよ。アルトゥールさんが、むこう3年、サツマイモの栽培に出資してくださることになったの!」
「それより、ってお前……」
ミトいわく、〈王家の花園〉の温室で、ウーゴ爺とオ・ポルトの経営者アルトゥールを引き合わせたという。
ふたりはすぐに意気投合し、アルトゥールは栽培に必要な人手を商業ギルドを通じて手配すると約束したらしい。
「来年の秋には、もっともっとお芋が穫れるはず。だから、海岸沿いの畑は計画よりも広げようと思って」
「ま、待て待て──」
「あら、心配しないで。サツマイモは砂地でも元気に育つのよ。それに万が一、栽培がうまくいかなくても、3年間は収量に関係なく毎月、ご寄付をいただけることになったの」
「そぉなんですっ!」と、ミトと一緒にサツマイモを運んできたシスター・イリスが声をあげた。
「アルトゥールさん、修道会の財務部にまでついてきてくれて、堅物のブラザー・マテウスに啖呵を切ったんですよ。『わたしの寄付が全額、救貧院に届かないのなら、このお話はなかったことになります。そうなったら、ご要望通りの晩餐会が開けないことの説明は、修道会から領主さまににしていただきますからね』って」
「へ、へえ……」
「最後にはブラザー・マテウスも渋々、認めてくれました。これでようやく、子供たちの食費を心配しなくてすみますよぉ」
「いや、けど、そもそもだな──」
ダヴィが言いかけると、ミトがハッとしたように振り返る。
「ええ、そうね! そもそも、晩餐会でサツマイモの評判を落としてしまったら元も子もないわ。ここで成功して、しっかりアピールしておかないと……ありがとう、ダヴィさん、大事なことを思い出させてくれて!」
キラキラした瞳で見つめられて、ダヴィは言葉を飲み込んだ。
《そうじゃねぇって……そもそも、なんでお前なんかが、オ・ポルトに──》
でも、ちがうのだ。この少女が成し遂げようとしているのは、もっとずっと大きなことで、晩餐会の件はその過程で転がり込んできたオマケに過ぎない。いや……子供たちのために、大きなことを成し遂げようとしていたからこそ、たくさんの人が彼女を信じて、彼女に賭けようとするんじゃないのか。
クソッ、どうしてオレの器は、こんなに小せぇんだよっ……ダヴィが早々に厨房から逃げ出して酒蔵に駆け込んだのは、そんなモヤモヤを無理にでもかき消したかったからだった。
夜風に吹かれるダヴィの手に、ふいに温かいものが触れた。
アマンダの指が、かすめとるようにグラスを奪う。
「ん……これ、キツいけどイケるわね」
「ジンジャーニャ……さくらんぼを漬け込んだ蒸留酒な。このへんじゃ、祭りのときに出すんだが──」
「たそがれてるボクには、これくらい強いお酒が必要だった、と」
「……ふざけんな。グラス返せ」
「ケチなこと言わないの。愚痴ならいくらでも聞いたげるから」
「おまえっ、いい加減に──」
勢いよく手を伸ばした瞬間、ダヴィの視界がグラリと揺れた。
「く……っ」
「ちょっと……大丈夫?」
気づくと、すぐ目の前に濡れた唇があって、ダヴィの顔はカッと火照った。
酒の匂いにしびれた脳髄に、やわらかいアマンダの髪の香りが甘く染みる──。
「の・み・す・ぎ」
「……面目ない……」
「でも……ミトちゃんにかなわないのは、みんな一緒だよ。大丈夫、あんたは、あんたさ」
ふいにささやかれて、ダヴィの心臓がドクンと跳ねた。
アマンダはケロリと軽い口調に戻って、ダヴィの背中をバンッと叩く。
「だから、ほら。シャンとして。胸張って生きろ、わかものっ」
「あっ、あのさ……オレ──」
ダヴィが何か言いかけたとき、
「……まっ!」
と、かすかな叫び声が、耳に飛び込んできた。
「あらあら……まあまあ……!」
抑えきれないようにそう繰り返しながら、白っぽい人影が小走りに回廊を通り過ぎようとする。
アマンダは、溜め息を吐いて声をかけた。
「ちょっと、ミトちゃん?」
「にゃっ……」
回廊の柱の陰から、銀髪の少女がソワソワしながら顔を出す。
「ごめんなさいね……いやだわ、わたしったら、若いひとたちの邪魔をしてしまって──」
頬を真っ赤に染めたミトは、「うふふっ、若いっていいわね」などと、しきりに意味不明のセリフを口にしている。
「ミ・ト・ちゃーん……?」
グラスを置いて立ち上がったアマンダは、眉をぴくつかせながらミトを物陰からひっぱり出した。
「若い若いってね。あんた、あたいよりずっと若いじゃないのさっ。イヤミかっ、イヤミなのか、この子はっ……!?」
アマンダにこめかみをゲンコツでグリグリされて、ミトは「ふみゅぅぅ……」と悲鳴をあげる。
照れ隠しにそっぽを向いたダヴィは、ぶっきらぼうに訊いた。
「んで、できたのかよ……晩餐会のデザートに出す菓子のレシピは」
「それが、あと一歩のところで悩んでしまって」
「悩む?」
「ええ。家庭料理としては悪くないと思うのだけれど、もう少し、パーティーにふさわしい、大人の味にならないかなと……」
「ふうん……アンタでも、悩むこととかあんのな」
「え……?」
「なんでもねぇよ……プロの料理人の意見がほしいっていうんなら、明日オレがアドバイスしてやらなくもねぇけど? まあ、どうせアンタにはオレの助けなんか──」
「本当ですかっ!?」
銀髪の少女は、真っ直ぐな眼差しでズイッと身を乗り出した。
「うれしい……よろしくお願いしますっ」
「……っ!?」
「ダヴィさん……?」
「ああもうっ、調子狂うっ。オレだけ頭ん中ゴチャゴチャしてんの、バカみてぇ」
キョトンとするミトの横で、アマンダがニヤリと笑った。
「よしよし。吹っ切れたな、わかもの」
「やめろよ、その上から目線……ガキじゃねーっつーの」
「あら、それはごめんあそばせ。じゃーねっ、飲みすぎんじゃないわよ」
ペロリと舌を出したアマンダは、寝よっかミトちゃん……と銀髪の少女と連れ立って回廊を歩き出す。
そんなアマンダの後ろ姿に、ダヴィはボソリとつぶやいた。
「ちっとは……男扱い、してくれよな──」