海と、イモと、お嬢さま
天国まで突き抜けるような、晴天──
田舎道を歩いてきた商店主のアルトゥールは、帽子をおさえながら顔をあげた。
入り江の向こうに、おだやかな波がきらめいている。
救貧院の建物は、はげかかった土壁のスキマから基礎のレンガがのぞいて、いかにも古びていた。
それでも、よく手入れされた敷地には清潔感があって、不思議と明るい雰囲気がただよっている。
コロコロと笑う子供たちの声に誘われて、アルトゥールは建物の裏手に歩みを進めた。
「これは……」
低い木の柵が取り払われて、子供たちが隣の草地と救貧院の敷地とを、せわしなく駆け回っている。
草地に広がっているのは、幾重にも連なる畦。
子供たちは、その畑の土をいじっては、小さな植物の茎を器用に植えていた。
「おじさん、だれぇ?」
小さな男の子に問いかけられて、アルトゥールは愛想笑いを浮かべながら訊く。
「やあ。ここに、ミトさんという女の人がいると聞いてきたんだが……」
「おいものおねえちゃん、あっこ!」
「そうかい、ありがとう──」
男の子が指差す先に目を向けて、アルトゥールは息を飲んだ。
黄ばんだスカーフをかぶった少女が、子供たちに囲まれて笑っている。
おだやかに光る海を背景にしたその姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
《おいもの……聖女の間違いじゃないか──》
少女は、泥だらけになった少年を呼び止めると、ふいにスカーフの結び目を解く。
ゆるく結えた銀髪がこぼれて、銀細工のように陽の光にきらめいた。
ふくれつらで身をよじる少年の顔を、少女は容赦なくスカーフで拭く。
彫像のようにスッと通った自分の鼻にも、ひと筋の泥がついていることには、いっこう気づいていないらしい──。
「あの、何か?」
草地の端で男の子たちと切り株を掘り起こしていたカクタスが、立ち尽くすアルトゥールに声をかける。
「……いや、失礼しました。わたしはアルトゥール。隣町で、みなと亭というレストランを経営している者です」
「オ・ポルト!? 銀海岸いちの、最高級レストランじゃないですかっ!」
苗を手にしたシスターが、すっとんきょうな声を出す。
銀髪の少女は、こちらに気づいて立ち上がると、やわらかく微笑んだ。
しばらくして──
救貧院のテラスでガーデンチェアに腰を下ろしたアルトゥールは、ティーカップを置いて訊いた。
「まさか、子供たちと一緒に作付けまでされているとは……ここの畑で、どれくらいの収穫を見込んでいらっしゃるのですか」
「そうですね……今年は、ゼロでもいいと思っています」
ミトが言うと、アルトゥールは怪訝そうな顔をした。
「ゼロ……? ですが、それでは──」
「サツマイモは、初夏に植え付け、秋に収穫するのが基本です。強い植物ですから、子供たちが植えたツルも定着するでしょうけれど、今からお芋を大きく育てるのは難しいと思います」
「では、なんのために畑を……?」
「練習……それから、希望」
「希望──?」
銀髪の少女は、目を細めて畑を走り回る子供たちを見つめた。
「みな明るく振る舞っているけれど……あらがうこともできずに、大人の事情でここに来て、さみしく、ひもじい思いをしてきた子ばかりです。だから……自分たちにも、何か特別なものを生み出す力があるのだと、早く感じてほしくて」
孤児たちが心の奥底に抱える、無力感。それを自信に変えたい、か……。
まったく、たいしたことを考えるお嬢さんだ。
アルトゥールが小さく息を吐くと、ミトがニコリと笑って手を打った。
「それに、お芋ができなくても、サツマイモはツルまで食べられますのよっ。ちゃんとアク抜きをすれば、炒め物の具材にもなりますし、甘辛く煮つけることができたら大人向けにも──」
「ハハハ、お嬢さまは、本当に料理がお好きなようだ……いや、実は今日うかがったのは、そんなあなたを見込んで、ご相談したいことがあったからなのです」
「相談……わたしに?」
アルトゥールは、ズイッと身を乗り出した。
「お嬢さまは、帝国海軍の新造艦マリア・アントーニアをご存知ですか……」
「えっ──」
ミトこと、ギュアスタラ大公令嬢マリア・アントーニアそのひとは、目を丸くした。
「艦船を設計させたら大陸で右に出る者はいないという、海軍の鬼才エンリケ提督が心血を注いで造りあげた、最新鋭の軍艦という触れ込みですが──」
「もうっ……エンリケおじさまったら……!」
「なんですって?」
「いえ、なんでもありませんわ……」
「まあ、軍人さんのご事情はこの際、おきましょう。ともかく、その新造艦が先日、処女航海に出ましてな。今は銀海岸の南の、城塞都市オビドスに寄港しているのです」
「それが……わたしと、どういう?」
銀髪の少女は、ぎこちない笑顔で訊ねた。
「予定では2日後、オビドスで領主さまが新造艦に試乗されて、ペデルネイラの港までの記念航海が行われます。到着後、領主さま主催の晩餐会が開かれるのですが……わたくしどもの店オ・ポルトが、その会場としてご指名をいただきまして」
「まあ、それはすばらしいことだわ。おめでとうございます」
「ええ、大変名誉なお話なのですが……」
「なにか、問題が?」
「実は、領主さまから、なかなか難しいオーダーをいただいたのです。『客人はみな、海軍省のお偉方である。皇都や津々浦々で、美酒美食をたしなんでこられた面々だ。よって、ありふれたメニューを一切排し、銀海岸の特産品のみでおもてなしせよ』、と……」
「それは……」
「西海岸地方には、魚介を使った伝統料理はいろいろあります。ただ……個性的なデザートというものがない。どうしても、ありふれたケーキやプディングになってしまう。それで頭を悩ませていたのですが、地方官さまが、あなたの菓子を教えてくださって──」
「地方官……オラビーデさまが?」
無鉄砲なひとだ……そう言って苦笑した黒髪のオラビーデの顔を思い出すと、なぜかミトの心臓がトクンと鳴った。
アルトゥールは、興奮気味に続ける。
「あのやさしい口当たり……やみつきになる感覚。新大陸から持ち込まれた、銀海岸にしかない新名物という点も、インパクト十分です。お嬢さまにはぜひ、あの芋を晩餐会にふさわしい、大人のスイーツに仕立てるためにご協力いただきたい──」
「いえ、あの……少しお待ちになって」
「なんでしょう?」
「そこまでサツマイモに賭けてくださることは、とてもうれしいのです。けれども、すぐに手に入るお芋の量には、限りがあります。大規模な晩餐会で使ってしまっては、子供たちの食べる分が……」
「むう、それは……」
アルトゥールはうなった。
どう説得したものか。この女神のような少女にしてみれば、新種の芋を見出したのは子供たちのため……領主さまに献上する名誉など説いても響きはしまい。まして、カネなど積んだところで心を動かされることはないはず──。
そんな商店主に、ミトはニッコリと微笑みかけた。
「ですから、ここはおカネで解決いたしましょう」
「ええ、それはもう……はいっ!? なんですって──!?」