姫君の旅立ち
「いやあ、毎度のことながら、痛快痛快」
荷馬車の前で、手綱を握った太鼓腹の男がカラカラと笑った。
「姫さま考案の、あのセリフ回し。ありゃあ、腐敗した領主や役人の化けの皮を剥がすには、効果テキメンですね」
荷馬車の前を守るように馬を進めている黒衣の剣士が言った。
「もはや、注意するのも疲れたが……ハッサン、姫さまではない。お嬢さまとお呼びしろ」
「おっと、いけねえ。こりゃ、うっかり」
異国風のベストを羽織った商人が、頭をかく。
荷馬車の幌幌の中から顔を出した、銀髪の少女は苦笑いして言った。
「いいのよ、カクタス。ハッサンの商隊に無理矢理、同行させてもらっているのは、こちらなのだから」
「しかし──」
荷馬車のうしろから、ペースを上げて馬を駆ってきた赤髪の女騎士が、フンと鼻を鳴らす。
「カクタス、貴様は頭が硬すぎる。商人の娘であっても、ミトさまほど愛らしい乙女であれば、家中の者に『姫』と呼ばれていても、おかしくはないだろう」
「それはそうだが……」
「むしろ、貴様のその堅苦しい態度のほうが、商隊の用心棒には不釣り合いだと思うがな」
「……そういうお前こそ、少しは自重しろ」
「自重、だと? 何を?」
「そっ、それは……ゆうべも、商隊の男どもと酒盛りなどして……」
「フン。勝利を祝って、仲間と酒を飲んで何が悪い」
「それは構わん。だが、その……お前は男どもとの距離が……近すぎる」
「そんなことは、わたしの勝手だ。なぜ貴様がとやかく言うのだ」
「おっ、俺は一向に気になどせん。だが、姫君のお目汚しになるとは思わないのか」
赤髪をポニーテールにまとめたスキュラは、馬を寄せてカクタスの横顔をニタニタと眺めた。
「ふうん」
「……なんだ」
「貴様も、とんだうっかり野郎だ、ヘタレのカクタス。他人を注意したその口で、『姫君』と漏らすとはな」
「くっ──」
ハッサンは、ミトを振り返って、肩をすくめてみせた。
《相変わらず、仲良しね……お城にいたら、ふたりは今ごろ、夫婦になっていたのかしら》
山道の向こうに広がる真っ青な空を眺めながら、ミトは、ぼんやりと考える。
旅から旅へ、辺境の地を行き来する生活は、とても楽しい。でも、カクタスやスキュラのように、自分を守るために人生を狂わされた人たちもいる。
《やっぱり、全部わたしのワガママね……》
ミトは目を細めて、山並みの向こうにあるはずの皇都の方角をじっと見つめた。
あのとき──自分は、大公の姫君として、もっと頑張るべきだったのだろうか。
「マリア・アントーニア! 君との婚約は、今このときをもって破棄するっ! 皇都からも追放だっ! 身をもって、己の罪の深さを思い知れっ!」
皇宮の広間で皇太子のヨハンに申し渡されたとき、ミトの口からはごく、たんたんとした言葉がこぼれた。
「そうですか……ありがとうございます」
「なっ、なんだとっ!?」
「ふつつかな婚約者ではございましたが、長年のご厚情に御礼申し上げます。それでは、失礼いたします」
「まっ、待てっ、まだ理由も何も──」
わめきちらす皇太子を無視して、ミトは広間を出る。
理由など、たいして関心もなかった。さしずめ、ヨハンの背後に隠れていた男爵令嬢のマリアンヌ──学院で出会った身分違いの想い人から、ミトに嫌がらせを受けているとでも聞いたのだろう。
《ああ、ようやく──ばあばは、解放されたわよ、みずきちゃん》