天使たちのポキポキゲーム
潮風の強い日だ──。
男は手にした書類カバンを気にしながら、眼下に広がる銀海岸に目を向けた。
どこまでも続く、白い砂浜。
その海岸線沿いの街道には、物置小屋を積んだような不恰好な馬車が、ズラリと並んでいる。
海水浴……か。
男は少し眉をしかめて、溜め息を吐いた。
帝国貴族の間で、海水浴が流行しはじめたのは、ここ十数年のことだと聞いている。
男にしてみれば滑稽に思える、あの奇妙な形の馬車の群れは、貴族や裕福な商人たちが着替えのために利用する、いわば「移動衣装室」だ。
健康増進にかこつけた、持てる者たちの娯楽……。
それは次第に中産階級にも広がって、地域の一大産業に成長していた。
漁業だけで成り立っていた銀海岸周辺の村々が、にわかににぎやかになったのは、この海水浴という新しい習慣のおかげだった。
だが……と黒髪の男は歩みを止めて、丘の下の雑然とした街並みを見つめる。
「あれは、いただけないな──」
西方諸国有数のビーチ・リゾート、地方都市ペデルネイラ。
この街は、城壁に囲まれた高台の旧市街と海岸沿いの歓楽街という、ふたつのエリアから成り立っている。
かつて、この地をひらいた先人たちは、大海原を渡ってくる海賊の襲撃を避けるため、地主の館や教会を守りの堅牢な高台に作った。
その旧市街は今でも整然としていて、貴族向けの高級ホテルやレストランがひしめいている。
一方、ビーチに近い低湿地が開発されるようになったのは、最近のことだ。
観光が盛んになるにつれ、漁師たちの住んでいた土地を安く買い叩く者があらわれて、旅行者を当てこんだ酒場や娼館が無秩序に増殖していった。
道は細く曲がりくねって、路面はいつも湿り気を帯びている。すえたような臭気の漂う裏通りでは、海風の吹き込む、宿とは名ばかりの小屋のまわりで、死んだ魚のような目をした女たちが安タバコを吸っていた。
どうにも……頭が痛い──。
男は再び溜め息を吐いて、スッと海岸から目をそらす。
予定より、だいぶん遅くなっている……石畳の歩道を急いでいると、吹き寄せた海からの風が、またゴウッと男の頬を打った。
思わず、顔を背けて目を閉じる。
「まったく……この季節のかぜ……は──」
毒づきながら瞼を開いた男は、そこで言葉を失った。
天上からふりそそぐ陽の光を、何倍にも輝かせるように──。
きらめく銀色の髪が、強い風になびいていた。
突然の海風に身をすくめて、片手で横髪を抑える少女。
そのまわりでは、真っ白な衣装を身にまとった天使のような子供たちが、キャッキャと声をあげて駆け回っている。
銀髪の少女は、足を止めた男に気づくと、にっこりと微笑んだ。
「銀海岸の思い出に、〈永遠の恋人〉印の、あまーいお菓子はいかがですか?」
「永遠の──」
クイと袖を引かれて、男は視線を落とす。
小さな女の子が、粗末な麻の袋を手に、はにかんだように言った。
「おいしー、おかしは、いかがでふ……でしゅか?」
「おかし……君たちは、ここで菓子を売っているのかい?」
「ん……うんっ」
見回すと、教会前の広場に停まった荷車のまわりに人だかりができていた。
売り子をしているのは、修道女や修道士、それに天使のように、白くてゆったりとした服を着た子供たち。
よくよく見ると、その衣装は祝祭の日に少年聖歌隊が身につけるスモックだった。
ラバがのんびりと寝そべる脇に、いかにも素人が手作りしたらしい立て看板が立っている。
”アルコア修道院名物
〈永遠の恋人〉
甘いひとときを、いつまでも──”
そんなうたい文句の下には、幼いタッチのイラストがそえられていた。
王冠をかぶった天使がふたり、口づけをするように、向かい合って唇を寄せあう。
けれども、それは口づけではなく……ふたりは何やら細長い棒のようなものの両端にかじりついているらしい。
男は、銀髪の少女に訊いた。
「それで、その菓子というのは……?」
待ちかねていたように、少女はアメ色のスティックを取り出す。
男は受け取った菓子をしげしげ眺めてから、ひと口、ポリッとかじった。
「これは──」
「とっても甘くて、栄養満点。恋のご利益もあるかもしれない、すてきなお菓子ですよっ」
「恋の……?」
「はいっ。このお菓子が作られたのは、隣街のアルコア修道院。亡き王妃さまに永遠の愛を誓った、〈涙の王〉が眠る修道院なんです」
「なるほど、それで……だが、アルコアの修道院に、あんな天使の伝承があったかな?」
銀髪の少女の横から、妙に艶っぽい女がひょっこりと顔を出す。
「あれは運命の恋人たちをつなぐ、愛の天使なんですよ。愛し合うふたりが、このお菓子を両側から食べていくと……」
女は濡れた唇をすぼめると、チュッ……と妖しく投げキッスをしてみせた。
「ご縁を結ぶ、誓いのキスになるんですっ──!」
ほわあぁ……と子供たちが見上げているのに気づいて、銀髪の少女があわてた様子で耳打ちする。
「ア、アマンダさん……子供たちには刺激が強すぎですっ」
アマンダと呼ばれた女は、ペロリと小さく舌を出した。
「殿方には、これくらいのスパイスが必要なのっ。だいたい、天使のポキポキゲームっていうアイデアを出したの、ミトちゃんじゃない」
「そっ、それは……そうだけれど──」
「プッ……ハハハッ」
男が笑うと、ミトとアマンダは顔を見合わせる。
「そうですか。その聞きなれない愛の天使の話は、あなたの創作なのですね」
「──っ!」
ミトは頬を桃色に染めて、アマンダに抗議の視線を送った。
両手を頭のうしろで組んだ踊り子は、どこ吹く風で白々しく鼻歌を歌う。
銀髪の少女は、髪を耳にかきあげながら言い訳した。
「その、これは……こういうほうが、若い方々の興味をひけるかなと……」
あなたも十分、若いと思うが……そんな言葉を飲み込んで、男は微笑んだ。
「いや、恥じいる必要はまったくない。あなたのおっしゃる通りですよ」
「え……」
「たしかに物珍しさはあるが、商品自体は素朴な菓子だ。それを人々に印象づけるなら、何かしら特別な物語が必要になる……〈涙の王〉の故事は悲劇だが、情熱的な恋物語のように言い換えたのも巧みです。あなたには商才がある……いや、ひょっとしたら、詐欺師の才能かな?」
「……褒め言葉と受け取って、よろしいのですよね」
「もちろんです。しかし、わからないな。あなたは修道女には見えないが、いったいどうして──」
男が言いかけたとき、広場から鋭い声が響いた。
「なにするんですかっ!」
声の主は、そばかすの残る顔のシスターだった。
見れば、ガラの悪そうな男たちが、男の子の腕を乱暴につかんでひねりあげている。
「よぉ、シスター。おたくら、隣街から来たんだってな。よそ者が、いったい誰の許しを得て、この街で商売してるんだ?」
「何を言ってるの。行商なんてそこいら中にいるじゃない。あんたたちの許可なんかいらないわ。その子を放してっ」
「ハッ……そうはいかねえぜ。なんせ、オレたちはこの街の商業ギルドの人間だからな」
「うそっ、だって、どう見てもゴロツ──」
「アァン?」
目つきの悪い男がすごむと、腕をにぎられた男の子が痛そうにウッとうめいた。
「ちょっと、やめてよっ」
「多少のことなら見逃してやるが、おたくらは派手にやりすぎだ……ショバ代と罰金、キッチリ払ってもらうぜ。とりあえず、今日の稼ぎを全部出しな」
「そんな──」
「わかってるよなぁ。商業ギルドが領主さまにかわって税を集めてるってこと。オレたちに逆らうのは、領主さまに逆らうのと同じことだぜ……そんな面倒、起こしていいのかい、シスター?」
「……っ」
シスターが押し黙ったとき、凛とした声が響いた。
「お待ちください」
ツカツカと男たちの前に歩み出たのは、銀髪の少女──。
少女はフワリとお辞儀をすると、リーダー格の男を真っ直ぐに見すえた。
「なんだぁ、おめぇは?」
「北部の織物問屋の娘で、ミトと申します。失礼ながら、みなさまは、何か誤解をなさっているようです」
「ごかい、だと?」
「領主さまの土地で商売をするには、商業ギルドに税を納め、許可をいただく必要がある。それは、おっしゃる通りです。けれども、ここは領主さまの土地ではありません──」