海辺の街にやってきました
傾きかけた午後の陽射し。
打ち寄せる波の音。
桟橋に腰を下ろして、ほつれかけた曳網を直していた漁師は、ふと顔をあげた。
パシャパシャと軽やかに波打ち際を駆ける足音。
両手に靴をぶらさげた、細身の女がはしゃぎながら振り返る。
「ミトちゃんもおいでよー、きもちいぃよぉ」
砂浜を、水色のパラソルを差した少女がゆっくりと歩いてくる。
少女がフワリと日傘をおろすと、漁師の口がポカンと開いた。
ありゃ、海の精霊さまか──?
海風にそよぐ、銀色の髪。
クルリと回してたたんだパラソルを草の上にそっと置くと、少女は靴を脱いで、砂浜の感触をたしかめるように一歩一歩、波の打ち寄せる水際に近づく。
澄み切った海水が、少女のつま先を濡らした。
しゃがみ込んだ銀髪の少女は、長い髪を耳にかきあげながら、何かを拾いあげる。
オレンジ色の大きな巻き貝。
少女が珍しそうに、顔の高さまで貝殻を持ち上げたとき、中からニュッと赤いものが顔を出す。
驚いた銀髪の少女は、波打ち際の砂に尻もちをついた。
水際ではしゃいでいた女が、ケラケラと笑う。
取り落としたヤドカリを膝の上にのせた少女は、ふくれつらで女を睨む。
銀海岸──
このどこまでもつづく白い砂浜を、人々はそう呼んでいる。
城塞都市オビドスの北方、アルコアは街の中心を流れるアルコ川が大海に注ぐ海辺の街だ。
名高い保養地が点在する銀海岸の一帯にあって、アルコアの静かな街並みは、一風変わっている。
500年前に領主が建てた修道院を中心に、巡礼地として発展してきた街だからだ。
「砂浜を満喫されましたか」
丘の上の屋敷。
干し草を積んだ荷車のうしろに乗せてもらって、ぶらぶらと足先を乾かしながら坂道を登ってきたミトと踊り子のアマンダに、大柄な男が声をかけた。
つるりと剃り上げた頭に、太い眉。
ガッチリとした胸板は、剣をも弾きそうだった。
ミトは、大男ににっこりと微笑みかける。
「ええ、ナザリオさま。水平線の向こうに吸い込まれそうでした」
「そいつぁ、よかった。けどお嬢さま、ナザリオさまなんてのは、柄じゃありません。エンゾで十分ですよ」
アルコアの漁師たちを束ねるナザリオ家の主人、エンゾはガハハと豪快に笑うと、干し草を運んできた農家の老人に声をかける。
あとから馬を引いてきたカクタスが下男に手綱を預けたのをたしかめて、ミトは屋敷の玄関ホールに足を踏み入れた。
海を見おろす丘に建つ、この重厚な屋敷は、古くから巡礼者たちを受け入れる巡礼宿でもあったという。
何度も塗り直されてきたのであろう、深いアメ色のニスが光る階段を登ると、2階にはズラリと客室が並んでいる。客室は離れにもあって、百人近い巡礼者を受け入れることもできるそうだ。
回廊を渡った別棟には、ダイニングホールが大中小と3つあって、巡礼者の多い時期にはそれでも満席になるときがあるらしい。
ただ、祝祭のシーズンをはずれた今、屋敷に泊まっているのはミトたちハッサンの商隊一行と、なぜか温泉の街オーレリア・アクエンシスからついてきた踊り子のアマンダの他には、2、3組の巡礼者だけだった。
「おっ、姫さま、お戻りですな。もうすぐ夕食の時間だそうですよ」
廊下ですれちがったハッサンは、太鼓腹をゆすりながら満面の笑みを浮かべて言った。
食事は、主人一家も旅人も区別なく、同じものをいただく。それが、この屋敷の流儀だと聞いていた。
「わかりました。すぐに降りていくわ──」
シックな深緑のワンピースに着替えたミトは、夕陽の沈む海を横目に別棟に急いだ。
ダイニングホールの長いテーブルには、すでに色とりどりの果物や野菜が並べられている。その空間に入った瞬間、ふわりと潮の香りを含んだ温かい湯気が鼻をくすぐった。
エンゾの妻のマヌエラが、大皿を抱えて厨房のほうから姿を見せた。
ミトは談笑している商隊の人々の間を縫って、そっとマヌエラに近づく。
「奥さま、わたしも何か、お手伝いを──」
「とんでもない! お嬢さまは、お先に座っていらしてください」
黒髪のマヌエラは、目を丸くした。
「巡礼の地では、どんな人も助け合って日々を過ごすのだと聞きました。それに……」
「それに?」
「海辺のお屋敷の厨房をのぞいてみたいのです。いけないでしょうか?」
「厨房を、ですか? ええ、まあ、ご覧いただくのは構いませんけれど……」
「ありがとう!」
面食らった顔の屋敷の女主人を残して、ミトは足早に奥へと向かう。
「ああ、やっぱり!」
そのキッチンの石の床は薄く濡れていて、磯の香りが漂っていた。
料理人が大ぶりなフライパンから、バシャリと皿に移したのは、アサリのような貝と香草の炒め物。
あわただしくメイドが運んでいるのは、きれいに背の殻を割った大ぶりなエビのソテー。
海の幸──
その厨房の空気を、ミトは胸いっぱいに吸い込む。
大公領や皇都は内陸にあったし、そもそも中央貴族のメインディッシュは肉が主で、魚介類を口にする機会は驚くほど少なかった。
まれに、夏の別荘を訪れたときには湖で獲れたマスのムニエルが出たりもしたけれど、ミトはずっと物足りなく思っていたのだ。12歳で前世の記憶を取り戻してから、ずっと。
「おい、あんた! 何、勝手に入ってきてんだ。客が来るとこじゃねぇぞ」
若い料理人が、ミトを見て声を荒げた。
「許可なら、奥さまにいただきました。あの、何かお手伝いできることはありませんか?」
「手伝いって……あんた、いいとこのお嬢さまだろ。できることなんかねぇよ」
鼻っ柱の強そうな青年は、ケッと言いながら、ひしゃくで鍋の中身をかき混ぜる。
ミトは好奇心をおさえられないように、ひょっこりと青年の横から鍋をのぞき込んだ。
「これは、なんですか?」
「おっ、おいっ、なんだお前っ……」
青年はドギマギしながら、あぁ、もうっ、とうめく。
「わーった、見せてやる。陸のお嬢さまが腰抜かすなよ──?」
しばらくして──
腕まくりをしたミトが満足そうな顔でダイニングホールに現れると、先に席についていたカクタスが飛び上がった。ワインを注ごうと手を伸ばしたまま、赤髪のスキュラが固まっている。
両手に鍋つかみのミトンをはめた銀髪の令嬢は、大ぶりな土鍋を抱えていた。
そのうしろから、ズカズカと歩いてきた料理人の青年が、マヌエラに食ってかかるように言う。
「なんなんですか、このひとはっ。まさか、俺に無断で新しい料理人を雇ったんじゃないでしょうねっ!?」
「何を言ってるの、ダヴィ。こちらは──」
土鍋を持ったまま、ミトがスッとお辞儀をする。
「申し遅れました。北部の織物問屋の娘で、ミトと申します」
「はあっ?」
ダヴィと呼ばれた青年は、目を白黒させた。
ナイフとフォークを両手に持ったハッサンが、愉快そうに訊く。
「ということは、その土鍋の中身は、ミトさまのお手製で?」
「はいっ、ダヴィさんに教えていただきました」
「いや……俺はただ、手順を言っただけで……ほとんど、このひとが勝手に──」
ダヴィは仏頂面でブツクサ言う。
テーブルの中ほどの空いた場所にミトがよいしょと土鍋を置くと、緊張した面持ちのカクタスやスキュラが身を乗り出した。クンクンと鼻をひくつかせながら、ハッサンが問いかける。
「これはいい香りだ。いったい、何をお作りになられました?」
「ふっふっふ」
ミトは土鍋のフタに手をかけて、不敵な笑みを浮かべた。
「銀海岸伝統の味……タコの炊き込みご飯ですっ」
パッとフタを取ると、玉ねぎの甘い香りが広がる。タコの茹で汁で色づいた赤いご飯の上に、クルリと巻いたタコの足先が散っていた。
「タ、タコッ!? タコって、あの海の魔物の?」
スキュラが言うと、エンゾがガハハと笑った。
「内陸の方はご存知ないでしょう。うまいんですよ、その海の魔物は」
「……ミ、ミトさまの、お手とあらば……平らげてみせる……」
顔色が真っ青になったカクタスは、念じるようにボソボソつぶやいた。
料理人のダヴィは、いたずらな笑みを浮かべているミトを見つめて、チェッと小さく舌打ちした。
「普通は、ああいう反応だろうが……へんな女──」