支配人の告白
「……最初は、ちょっとしたお節介だったんです」
舞台に膝をついたフェアディナントは、うめくように言った。
「あるとき、ホテルの庭で泣いているご令嬢がいると、スタッフから耳打ちされて──」
秋の夕暮れ──
慰める者もいないまま令嬢を放置しては他の客への印象もよくない。
フェアディナントは、静かに庭の東屋に歩み寄った。
《ああ……なるほど》
泣き伏している令嬢を見て、フェアディナントは溜め息を吐いた。
その黒髪の伯爵令嬢は、皇都の社交界から辺境まで漏れ伝わっていたスキャンダルの渦中の人だった。
婚約者を腹違いの妹に奪われ、パーティーの席で一方的に婚約破棄された伯爵家の長女……客観的に見れば、彼女には何の罪もない。
それなのに、なぜか彼女のほうが爪弾きにされ、心ない中傷を受けているようだった。
《まあ、社交界に味方が少なかった理由は、わからなくもないが……》
フェアディナントは少し挨拶を交わした程度だったが、言葉の端々から聡明さがにじみ出る令嬢だった。ハッキリとした遠慮のない物言いは騎士のようで、かえって小気味のいいほどだ。
ただ、そんな性格を気に入らない人もいるのだろう……悪い噂の内容は、出しゃばりだ、高慢だ、冷淡で他人を見下している、だから婚約者に逃げられたのだと、彼女に手厳しいものばかりだった。
「……ご一緒してもよろしいですか?」
フェアディナントが言うと、令嬢はハッとしたように顔を背けた。
「ごめんなさい……ホテルにまで、ご迷惑をおかけして」
「とんでもない。むしろ、わたしこそあなたに謝らなければ」
「なぜ……?」
「涙にくれるご令嬢の、心のスキにつけ込もうと寄ってきた悪い虫だからですよ」
フェアディナントが笑顔でハンカチを差し出すと、令嬢は少しためらってから、それを手に取った。
「つまならい冗談ね……」
「癒しの温泉と、眠らないカジノの街。それが、このオーレリア・アクエンシスです。あなたの心が軽くなるなら、わたしにできるおもてなしは、何でもさせていただきます」
「行き過ぎたお気遣いは結構よ。うわべだけの同情も、かりそめの恋人役もいらないの……今、わたくしに必要なのは、価値ある結婚よ」
「価値ある結婚……ですか?」
意外な言葉に、フェアディナントはそのまま聞き返す。
「破棄された婚約だって、もともと、家門同士の都合で決まったものだった……愛だの恋だのは関係ないわ。お父さまもお義母さまも、相手が義妹に乗り換えたからって顔色ひとつ変えなかったのよ」
「それは──」
「他人がどう言おうと関係ないの。でもこのままじゃ、わたくしは一生、伯爵家の汚点として生きていくしかない……これほどの悪評を流されては、家門の利益になる結婚は望めないもの。親子の愛などない冷え切った家庭で育ってきて、せめて政略結婚するときには父や義母を見返してやろうと、家柄に恥じぬ教養や作法を一生懸命、身につけてきたのに……くやしくて──」
「なるほど……つまり、お嬢さまは伯爵家のみなさまをアッと言わせられる結婚ができれば、それでいい。相手がどんな男性でも関係ない、と?」
フェアディナントが顎をさすると、令嬢は不審そうな顔をした。
「何がおっしゃりたいの?」
「いえ、誠に偶然なのですが……その件、お力になれるかもしれません──」
そして、現在──
劇場の中には、犯罪者たちを引っ立てる兵士たちの荒々しい声が響いている。
舞台の床板を見つめながら、フェアディナントは告白をつづけた。
「……そのご令嬢にわたしがお引き合わせしたのが、イスペン王国のルーロー将軍です。ご存じでしょう」
「ルーロー将軍……なるほど、あのクルミアの獅子が、帝国の令嬢と縁を結んだのは、あなたの功績だったのか」
ミゲルが感心したようにつぶやいた。
んー? と顎に指を当てて少し考えてから、ミトはハタと手を打つ。
「クルミアの獅子……イスペン陸軍随一の戦略家と謳われたお方ですわね」
「帝国との軍事同盟が結ばれる際に、その締結交渉をイスペン側で主導した切れ者だよ。たしか、半島の戦争で脚を悪くしたと聞いているが──」
ミゲルが言うと、フェアディナントがうなずいた。
「ええ、車椅子生活になられて、この街に湯治にいらっしゃっていたんです。前線での難しい撤退戦を指揮された末の名誉の負傷……軍人としては一層の尊敬を集めたようですが、婿入りするはずだった侯爵家からは話を白紙に戻されたとうかがっていました。イスペンでは将軍ともなれば伯爵以上の待遇を受けますが、侯爵家の縁者から見れば成り上がりの軍人です。初めから、すべての人に祝福された婚約でもなかったのでしょうね……」
フェアディナントは、そこまで言うと両手で頭を抱えた。
「令嬢と将軍はすぐに意気投合して、縁談はあっという間にまとまりました……誰もがよろこんでくれたんです。あなたには感謝している、これはお前の功績だ、と。ずっとわたしを役立たずだ、穀潰しだと見下していた父からも珍しく手紙が来ましたよ。『たまには、祖国の役に立つことをするではないか』、と……でも、そんな言葉がうれしくて、わたしは調子に乗ってしまったのです……ビギナーズラックに浮かれて賭け事にのめり込んだギャンブル中毒者のように──」
さまざまな事情を抱えて、温泉の街にやってくる貴族の男女。
フェアディナントがその縁を結んでいくうちに、グラン・パレは「お見合いホテル」などと呼ばれるようになっていった。
そんなある夏の夜──
「ううむ……どうすれば……」
執務室で、フェアディナントはうなっていた。
引き合わせた男爵令嬢が、先妻との間に5人の子供がいる子爵のことが気に入らず、それとなく断ってほしいと頼んできたのだった。
フェアディナントが紹介できるのは、あくまでもたまたま、同じ時期にオーレリア・アクエンシスに滞在している家門同士でしかない。このとき、他に縁を結べそうな滞在客はいなかった。
これはこれで、仕方のないことだ。別に、あきらめたってかまわなかった。
お見合いのお膳立ては、あくまで支配人個人からのオプション・サービス……名門ホテルであるグラン・パレの経営は、「縁を結ぶホテル」という評判が失われたからといって、揺らぐことなどない。
それでも、フェアディナントは焦っていた。
敬愛する辺境伯が建設したホテルの歴史に、自分が残しかけていた小さな爪痕。それが、波に削られる砂の城のように、はかなく消えてしまうのではないか、と。
考えあぐねたフェアディナントが眉間を揉んだとき、扉をノックする音がした。
「入りたまえ」
「失礼しやす。旦那、来月の出し物の件で……なんだぃ、ひどい顔をしていなさるじゃねぇですか」
無遠慮にソファに座ったのは、カジノに併設された劇場で催される演劇やショーの手配を任せていた興行師だった。
「なんぞ、悩みごとがありなさるなら、聞きやすぜ」
「ああ……実はな──」
ただの愚痴のつもりだった。
ところが、男はふうんと鼻を鳴らすと、任せてくだせぇと言ってニヤリと笑った。
任せると言ったって、どうするのだ……歯牙にもかけずに捨て置いて、3日後。
驚いたことに、男爵令嬢の側から縁談を進めることにしたという連絡が入った。
どうやって説得したのかと問うフェアディナントに、興行師は笑って答えた。
「なに、大したことじゃありやせん。旦那は、押しが弱くていけねぇ。こういうことは、それなりに押してみせねぇと──」
告白をつづけるフェアディナントが、栗色の髪をグシャグシャとかき乱す。
「あいつが、お客さまの弱みを探って恐喝していたなんて、思いもしなかったんです……知ったときには、もう遅かった。『お前さんも、いい思いをしたんじゃねぇか。立派な共犯者だぜ』と言われて……良縁を結ぶはずが、脅迫で望んでもいない縁談を押しつけたなんて知られたら、ホテルの評判は地に落ちます。やがて、あいつは、ホテル内で自分たちが何をしても目をつぶれと要求しだした……カネで手を切ろうとしても、厳しい会計監査が入るホテルやカジノの資金になど興味はない、と……」
「……その挙句が、貴族や金持ち相手の人身売買ショーだった、ということか」
ミゲルが言うと、フェアディナントは頭を抱えて舞台に突っ伏した。
「何を言っても言い訳にしかなりません。すべては、虚栄心につけ込まれたわたしの罪です……結局、悪行を止める勇気もないまま今日に至って……ミト嬢にまで魔の手が……」
フェアディナントは、すがるような目でミトを見上げた。
「あなたは、わたしの暗い日々に、ふいに差し込んだ光だった。あなたがいてくだされば、この苦しみを忘れられる、そう思っていたのに……結局は巻き込んでしまった。どうか……どうか、許してください」
「フェアディさま……」
「嘘でもいいのです、わたしを哀れに思うなら、せめて許すという、その一言だけでも──」
「……いいえ、許しません」
厳しい声音に、周囲の人々がハッとミトを見る。
「フェアディさまのご事情はわかりました。けれども、あなたが一歩を踏み出すことをためらっている間に、どれだけの涙が流されたか。そのことに対する責任を果たさないうちに、わたしがあなたを許すことはない……まして、甘い嘘をついて差し上げることなどありません」
「ミト嬢……」
「歌手のシャルロッテ・ダーエはどうなりました。ミンコフスキー・バレエ団のダンサーは? フェアディさまが本心から罪をあがなうとおっしゃるなら、一生をかけても、そうした人々を救い出し、ひとりひとりときちんと向き合うべきではないでしょうか。もちろん、しかるべき法の裁きを受けられたうえで、ですが」
「それは……返す言葉も、ありませんね……」
舞台に両手をついたフェアディナントは、深くうなだれた。
ふわり……
栗色の髪を、そっと、細い手が撫でる。
しゃがみこんだミトが、小さな子供でも慰めるかのように、ポンポンと青年の頭に手を置いた。
フェアディナントは目を伏せたまま、声を絞り出す。
「こんな許されざる罪人に……どうして、情けを……?」
「フェアディさまを許しはしません。でも、あなたのちょっとした善意で、良いご縁に巡り合った方がいるのも事実でしょう。ですから、今はその分だけ……よしよし、です」
「……っ」
舞台の床板に、ぽつり、ぽつりと、涙のしずくが落ちた。
ミゲルが無言で合図をすると、兵士たちがフェアディナントを立たせて連行していく。
やれやれ、と溜め息を吐いたミゲルはその背を見送りながら言った。
「気に入らないな。あの男が、これからもミトとの思い出を心の拠り所にすると思うと」
「まあ、お兄さまったら」
「正直、これから彼が歩むのは、いばらの道だ。あの繊細さで耐えられるかどうか」
「きっと、大丈夫よ。なんといっても、フェアディさまは、まだまだお若いのだし」
「まだまだ若い……か」
ミゲルは、あきれたように肩をすくめた。
「ミトはときどき、自分の年齢を忘れるようだね」
「あ……えへへ……」
誤魔化し笑いをしてから、ミトはふと思い出したように兄の顔をのぞきこんだ。
「ところで……キーンさんは女性にもずいぶん情熱的でいらっしゃるようでしたけれど、あれはどういうことなのかしら、お兄さま?」
「なっ、なんの話かな」
「あら、覚えていらっしゃらないの? カードに勝ったとき、アマンダさんを抱き寄せて──」
「おえっほん。それはだな、ミトがわたしを見て不用意な反応をすれば、潜入が台無しになるからであって、まさに職務上の必要ともいうべき──」
「ふーん?」
「なんだい、その目は。だいたい、アマンダというのは……ええい、めんどくさい。本人に説明させるよ。アマンダ! アマンダ……あいつめ、どこへ行った? まったく、肝心なときに姿を消すとは、わざとだな?」
「もういいですわ。宿に戻って、お母さまへのお手紙を書かなくちゃ。ミゲルお兄さまは、潜入中もたいそうお元気そうです、って」
ミトがそう言ってプイと歩き出すと、ミゲルは待て待て、早まるな! と妹のあとについて舞台を降りた。
説明するよ、ミトぉ! 敏腕侯爵の情けない声に、兵士たちが顔を見合わせる。
スキュラとカクタスは肩をすくめあって、小走りに主人のあとを追いかけるのだった──