牙をむいた人喰いホテル
「う……うーん……」
ズキズキする頭をおさえながら、ミトは身体を起こした。
少しカビ臭い、湿った空気。
薄暗い部屋の中を見回す。天井は低いのに、奥行きだけは広い。
窓がどこにもないところをみると、地下室なのだろうか。
きしむベッドのへりに腰かけると、素足が冷たい石の床に触れた。
粗末なベッドが規則的に並べられていて、まるで戦場の病院のようだった。
ミトの他にも、幾人かの人影があって、ベッドの上で膝をかかえてうずくまったり、薄いシーツにくるまって身を縮めている人もいる。ほとんどは女性だったけれど、中には男性もいるようだった。
「頭、痛いんじゃない?」
背後から声をかけられて、ミトは振り返る。
ボディラインを見せつけるような、派手なドレス。切れ長の艶やかな目をした女性が、金属のカップを差し出していた。
「水、飲んどいたほうがいいよ。この水は大丈夫」
「ありがとうございます……」
カップを受け取ってから、ミトははたと気がついて言った。
「あなた、あのときの……」
「あのとき?」
「ポーカーの台で、キーンさんという方と、その……親しく、なさっていた……」
「ああ、親しく、ね。あれは、そういうことだったか」
女性はニヤッと笑みを浮かべてから、優雅にお辞儀をした。
「ローラン歌劇団の踊り子、アマンダと申します。お嬢さまのお名前をおうかがいしても?」
「……北部の織物問屋の娘、ミトです」
「そっか。じゃあ、ここにいる間は、ミトちゃんでもいい?」
「はい、かまいません。あの、アマンダさん……ここは、いったい?」
「あたいもさらわれてきたクチだから、推測だけど……これが、グラン・パレの裏側。人喰いホテルの正体ってとこじゃないかな」
「人喰いホテルの……?」
「ミトちゃんは、ここに連れてこられる前のこと覚えてる?」
まだシクシクと痛む頭で、ミトは考える。
フェアディナントとVIPルームに入って……シャンパンを飲んだ。すぐに扉がノックされて、フェアディナントは外へ……そのときにはもう、強い眠気に襲われていた。
シャンパンを飲み込んだのは自分だけで、フェアディナントはグラスに軽く口をつけただけだったのかもしれない。
意識を失いかけたとき、フェアディナントが泣きそうな顔で駆け寄ってきたのは見えていた……あのとき、彼はなんと言っていただろう?
『話がちがう』? 『彼女はダメだ』?
そんな言葉が聞こえたような気がするけれど、ハッキリとは思い出せない。そういえば、部屋にはフェアディナントの他にも、誰かが入ってきたような──。
「……なるほど、支配人が、ね」
ミトの話を聞いて、アマンダは切れ長の目を細めて考え込んだ。
「あのね、ミトちゃん。もうすぐ、何かが起こると思うけど、なるべくあたいのそばにいな。怖くても、叫んだり、パニックになったりしちゃダメだからね。あいつらは、あたいたちに傷をつけるのを避けてるけど、どうせロクな連中じゃないんだ。何をされるかわからない」
「何か……アマンダさん、あいつらとは何者なのか、ご存知のことを教えて──」
そう言いかけたとき、アマンダがシッとミトの口をふさいだ。
ガチャガチャ……重い錠前を開ける音が、地下室に響く。
ずんぐりとした大男を先頭に、盗賊のようにスカーフで顔を半分隠した男たちが入ってきた。
男たちが掲げるカンテラの灯りが、暗がりに慣れた目には太陽のようにまぶしい。
仮面舞踏会に使うような羽根つきのマスクをした男が、妙に芝居がかった調子で言った。
「ボンソワール、今宵のメイン・ディッシュ諸君……眉目秀麗なみなさんには、これから華やかなる大舞台に立っていただきます。それに際して、ご注意を──」
「ふざけるなっ、これはいったい、どういうことなんだっ」
金髪の若者が、男の話を遮って叫んだ。
若者は線が細く、人形のように整った顔をしている。マスクの男は、フウッとわざとらしく溜め息をつくと、背後の男たちに向かってうなずいた。
「説明の手間が、ひとつ省けましたね。今から実演してみせましょう。大声を出したり、余計な騒ぎを起こした方は、こうなります……」
手下の男が槍のように棒を突き出した。棒の先には、音叉のような二又の金属がついている。
「なっ、何を……」
美しい青年の腹部に金属が押し当てられると、バチバチバチッ……と電撃の走る音がした。
若者は、うめき声をあげて床に崩れ落ちる。誘拐されてきた人々の間から悲鳴があがった。
「はいはい、うるさいですよ!」
マスク姿の男がパンパンと手を打ち鳴らす。室内は水を打ったように静まりかえった。
「いいですねぇ、みなさん、飲み込みが早いっ! これから旅立つ、新しい世界にも、きっとすぐに慣れるでしょう……では早速ですが、一列に並んで部屋から出てください。まずは、お化粧を直さないとね!」
人々はすっかりおびえた表情で、言われるがままに部屋を出る。
アマンダは無言でミトの手を握ると、暗い地下通路を歩く間、ずっと手をつないでいてくれた。
用意された鏡台の前でぞんざいにおしろいをはたかれたあと、羊飼いに急かされる子羊のように詰め込まれた場所は、どうみても劇場の舞台の袖だった。
「さあさあっ! 本日もやってまいりましたっ、今や知る人ぞ知る、当ホテル名物っ! 特別オークションのお時間ですっ!」
司会者のやかましい声が、ミトたちの耳にも届く。
「ご承知の通り、当オークションは金額がモノを言う、弱肉強食の勝負の世界っ! 集められたのは、参加者のみなさんが目をつけた美男美女……けれども、ご自分がお目当ての獲物を手に入れられるかは、このオークションにかかっていますっ。どんなに恋焦がれている相手でも、競り負ければ他人の手に渡ってしまいますよぉ〜? さあ、みなさん、心の準備はよろしいでしょうかっ!」
ここで何が行われているのかは、さすがのミトにも、もうわかっていた。
《人身売買……》
参加者が目をつけた、と司会者は言った。
それなら、誘拐されてきた人々はみな、オークションの会場にいる参加者の誰かが、あらかじめこの怪しい組織に依頼して誘拐させたということだ。
そうやって集めた手駒を、互いにオークションで競り落として勝敗を競う……こんな非道を、フェアディナントが許しているのだろうか。
アマンダは、シクシクと涙を流す女の子の頭を撫でながら、周囲の人々に小声で言った。
「……大丈夫。必ず助けがくるから……今だけは、あいつらの言う通りにして、乗り切ろう……」