メールでカウンセリングを受けてみた。
たまには自分語りをしようと、以前に利用したメールカウンセリングの文章を載せます。知っている人が読んでたら確実に身バレする内容です(^-^;
フリーランスなんで、まあいっかと思っています(笑)
文章を書くが好きなのでメールカウンセリング楽しみです。
まとまりがない文章になるかと思いますがよろしくお願いいたします。
自分の気持ちを文章にする習慣化したのは、現在通っているメンタルクリニックのカウンセラーさんからのアドバイスです。
昨年の2月に73歳の母と共に自宅介護をしていた要介護3の認知症だった父を77歳で見送りました。
また同じく昨年の10月に新しい仕事に挑戦しようと8年半契約社員を続けていた会社を退職しました。
18歳で就職して以来初めての長期休暇でしたが、昨年の12月ぐらいから急激に体調がおかしくなりました。
元々外出が好きで、初の海外旅行でも1人でツアーに参加する行動力を持ち合わせておりましたが、屋外の喧騒に耐えれらなくなり数時間の外出もままならなくなりました。
精神状態も安定せず同居している母に八つ当たりをしたり、同県内に住んでいる姉妹たちが電話を寄こさない事に腹を立て呼びつけたりするようになりました。
以前からも怒ることはあったのですが、あまり恨みなど負の感情を引きずらない性格でした。
通常だと長くても30分ほどで鎮火するのですが、姉妹を呼びつけたときは5日連続で怒りが持続しました。
長い付き合いの家族からも生まれてから最長ではと言われました。
また、過去の悲しかったことがフラッシュバックで甦るようになり突然泣き出したり、自分は酷い運命の元に生まれたのだと、まるで悲劇の主人公のような気持ちになりました。
それまで就活を行っておりましたが、とても続けられる状態でなくなりました。周囲からのススメもあり失業保険が切れるまで仕事の再開を延期することにしました。
自分がおかしい自覚があったのでメンタルクリニックの受診もすることにしました。今年の2月です。
初めてメンタルクリニックを受診したのは22歳の時です。新卒で入社した会社で意に沿わない事務職への配置転換となり、精神状態がおかしくなりました。
見かねた当時の総務課の上司が精神科を紹介してくださり、受診しました。
診断名は特に知らされませんでしたが、休職と入院を強く勧められました。
数年後母から聞いたところ、自殺する可能性が高いので絶対に目を離さないようにと主治医から指示が出ていたそうです。
しかし、私本人が自分がそれほど酷い状態にいると気づかず、双方の提案を拒否しました。
とりあえず服薬と時短勤務の対応となりましたが、仕事が出来ない自分に納得できず休日などにこっそり会社に忍び込んだり、上司が出勤する前の早朝に出社してなんとか終わらせようとしていました。
当然、上司からは見つかるたびに厳しく叱責されていました。また、たびたび休職の提案を受けておりました。
結局1年半後仕事が出来ない自分に嫌気がさし退職をしました。
退職後も家で療養するという発想に至らず半月で次の会社へ転職しました。
2社目は勤務体制はブラックでしたが、1社目に比べ格段に仕事に対する責任が軽くなり長時間労働もあまり苦にならず勤務を続けることが出来ました。
精神科への通院は続けておりました。
32歳の時に父が脳梗塞で緊急入院をしました。それから緩やかに認知症が始まりました。 それまで父は自営業をしておりましたが、仕事も畳むことになりました。この時点で父の 会社に借金が600万円ほどあったので、私の貯金で補填をしました。
ちなみに数年後になりますが、600万円のうち300万円は父の保険の解約や田舎にあった土地の売却なので返金してもらってます。
以上の理由で貯金が急激に減り残金100万円ほどになったので、金銭的不安から仕事をしないという選択が思いつかず、通院及び精神安定剤の服薬を続けながら仕事を続けておりました。
34歳の時に再び転職をしました。契約社員でしたが前職に比べ専門性がある仕事だったため、給与が上がり残業もなくなりました。
仕事は病院の建物の設備管理の仕事です。工業高校の電気科を卒業し、新卒の会社では高圧の電気設備のメンテナンスの仕事をしていました。幸いなことに経験者ということと資格を保有していたということで転職は非常にスムーズでした。
資格取得は趣味なので総数15個、うち国家資格を10個持ってます。
うち3つは国立大学の理工系レベルだそうです。
ほぼ参考書のみの独学で取得しました。
市で一番大きな総合病院の電気設備の管理責任者をしておりました。
24時間のシフト勤務ということもあり、平日昼間の自由時間があったので父の介護も両立できました。
最多では月に6回通院の付き添いをしておりました。
終わりの頃には徘徊も始まり、私も一緒に介護をしていた母も息をつく暇もありませんでしたが、なんとか最期まで笑顔で見送れました。
父の介護も終わり以前からの懸念だった検査を受けてみることにしました。発達障害の検査です。昔から尋常でなくうっかりミスが多く、また思い付きで行動することが多かったので。
通院していた精神科の主治医は検査に消極的だったので転院しました。
検査結果はADHD(多動衝動優勢)でした。言語理解VC116、作動記憶WM83、処理速度PS86とかなり凸凹が酷くグレーの範疇ではないと診断されました。むしろこの状態でよく仕事が続けられたと感心されました。
診断時では通院の必要はないと判断されましたが、今年2月から冒頭に書いた理由で再び通院を始めました。
カウンセリングで指摘されたのはネガティブな自己評価と過剰な責任感です。先ほど父の作った借金を数百万円負担したと書きましたが、他の姉妹に請求することはしませんでした。姉に至っては私が借金を返済したという事実すら最近まで知りませんでした。
また、他の3姉妹は進学しましたが私だけは高卒で就職しました。姉妹の中では私が成績が一番よく、担任から自宅から通える国立大学の推薦を進められました。しかし家にお金がないことを知っており、妹たちの進学資金を用意しなければと就職しました。
父の介護も母と2人で9割ほど行っておりました。カウンセラーさんに、なぜ他の姉妹に負担をお願いしなかったかと質問され言葉に詰まりました。
他の姉妹は遠方に住んでて仕事や子育てに忙しいからと説明しましたが、通常は恨み言ぐらい言いたくなるはずだと。
その後カウンセリングを続けて浮かび上がったのは、小学校や中学校で負ったトラウマです。
幼少期の私は落ち着きがなく忘れ物や遅刻が多い子どもでした。おそらく発達障害から来ているものだと思われます。
また母も同様に発達障害でADHD(注意欠如)だと思われます。そのため持ち物や時間管理といったサポートを受けられませんでした。
ちょうど父も事業を始めたばかりで忙しく、子どもの問題まで気づかなかったようです。
以上の理由で私は小学生のころ非常な問題児となりました。そのため日常的に担任の教師から体罰を受けておりました。
1~3年までの担任は20代の男性教師でした。遅刻や忘れ物をするたびに平手打ちを受けました。時に鼻血が出るほどです。
4年生に進学にする時に父の仕事の関係で一家で引越ししましたが、状況は変わりませんでした。
また、転校生ということも重なりイジメの標的になりました。女子全員から無視をされましたが、それよりも男子たちから受ける暴力のほうが辛かったです。
日常的に殴られたり蹴られたりしておりました。足は痣だらけになりました。休み時間の雪合戦では石の入った雪玉をぶつけられたり、集団で押さえつけられて洋服の中に雪を入れられたりしました。
教室で5~6人の男子生徒に囲まれ殴られたり蹴られたこともあります。教室には他の生徒もおりましたが、止める人はいませんでした。
また、持ち物も頻繁に隠されました。
もちろん担任もイジメには気づいておりました。40代の女性の教師でしたが、止めるようなことはせず、むしろ私にイジメられる原因がある、改めるように言われておりました。 当時は成績もクラスの底辺を這いずっており、忘れ物などの問題行動も続いていたので。
当時の私の救いは家族と本でした。
幸いなことに父と母の夫婦仲は大変よくお互い支えあってました。友達が1人もいない私に姉もすぐ下の妹も一緒に遊んでくれました。歳の離れた末の妹の世話をすることで自分の存在価値を感じることが出来ました。
大好きな読書も生きる上で助けになりました。私は本を読む速度が昔から異様に速いです。1分間に読める平均的な語数は400~600だとネットにありました。サイトの計測を利用したところ私は2000~3000語数が平均でした。
漫画だと1巻につき読み終えるのに15分かからない事があります。
出来れば毎日違う本を読みたくなりますが、当然親に買ってもらうにも限度があります。
自営業でガスの配管工をしていた父から休日に仕事を手伝えば一日1000円お小遣いをくれると提案してくれました。本を少しでも買いたかった私は飛びつきました。
小学6年生から建築現場に出入りすることになりましたが、とても良い経験になりました。学校ではどこにも居場所がありませんでしたが、父の仕事では役立てます。建築現場ではさまざまな大人たちから、父を手伝ってることを褒めてもらえます。
おかげで仕事が大好きになりました。仕事ではお給料を貰いながら技術を教えて貰える。かたや学校では一銭も貰えないのに役に立つかもわからない知識を覚えなくてはいけない。
私が家族や仕事に異様に執着し、これらを守るために過剰な努力をするようになった経緯です。
父の介護と仕事の重圧から解放されたことにより、過去の問題とようやく向き合う準備が出来たそうです。
しかし余裕が出来たことにより、蓋をしていた感情があふれだしているそうです。そのため頻繁にフラッシュバックが起きているそうです。
現在、私は過去に出来なかったことを行っています。
創作活動を勧められたので、幼少期好きだった折り紙やビーズ細工を始めました。お金にならないからと切り捨ててきたものでした。
また、文章を書く一環として無料投稿サイトに小説の投稿も始めました。先日、私の書いた小説を読んで、思わず泣いてしまったと嬉しい感想ももらいました。
英語学習も始めました。単価が高いからと子どもの頃は敬遠していた絵本も英語のleadingのためと称してコレクションを増やしています。
最近ではようやくメンタルも落ち着きました。今までは会社員になることに固執していましたが、フリーランスとして自分のペースで仕事をすることにしました。
先週1件目のお客様のお話を頂きました。
カウンセラーさんに聞かれました。
「かつて迫害してきた同級生や教師に復讐したいとは思わないのですか?」
もちろん復讐をしようと思っています。しかし相手は個人ではありません。私は学校という制度を憎んでいます。
エンジニアの仕事では事故がおこった場合はヒューマンエラーのせいにはしません。それだと再発するからです。システムの改善を試みます。
私は同級生も担任教師も徹底した管理体制を強いてきた学校教育の弊害だと思っています。復讐のために一番良いことは、小学校で劣等生だった私が幸せになることだと思っています。
カウンセリングの効果により、乖離していた私もだいぶ統合が進んでいるそうです。もちろんまだ不安定な状態が続くそうですが。
それでも近い未来に寛解するときが来るそうです。
本来の自分を思う存分出せるようになり、とても生きやすくなると励ましてもらってます。
今から楽しみで仕方ありません。
いま、不登校の子ども達が沢山います。私はその子たちに言いたいです。
「無理して学校になんか行かなくて良いよ。世界は広いんだから。あなたが過ごしやすい場所がきっとあるから」
私はこれから幸せになります。そして過去の自分にも言ってあげたいです。
「小さな身体で頑張ってくれてありがとう。もう大丈夫だよ。あとは大人の私があなたを幸せにするから」
長文を読んでくださりありがとうございます。
YouTubeで聞ける曲で、城戸胎生様の『魅了』という曲で自分語りについての歌詞があります。背中を押してもらえました。
とてもカッコよい曲なのでおススメです。(*^▽^*)