4.ヴィオヘルム様のやさしさ(後編)
どきんどきんと鼓動が高鳴ってゆくのをヴィオヘルム様に悟られぬよう、そっと呼吸を整えながら歩いた。
そしてたどりついた部屋にアンリが食事を運びいれ、隣接された侍女の部屋へとひきさがる。
迎賓室と負けず劣らずの立派な室内に輿入れの道具がきちんと収められていた。グリスウォルドでみじめな思いをせぬようにと両親が奮発してくれた家具だ。ところどころにハイエルンをしのぶための意匠が施されている。
しかしそんな中でも、わたくしの心はおちつかなかった。
部屋にはヴィオヘルム様とわたくしのみ。
ヴィオヘルム様が食事の置かれたテーブルについたため、わたくしもその向かいの席に座る。
そしてまた沈黙。
ややあって、ヴィオヘルム様が口を開く。
「あらためて謝罪させてほしい。六年もの間、不安にさせてすまなかった」
「いえ……」
「私はどうも人の気持ちのわからぬところがあるようだ。……と、この期に及んで推測としてしか自覚できていないというのも致命的だと弟にも言われた」
それはニクラウス様だろうか。
ローエン家の方々は皆様、ヴィオヘルム様に当たりが厳しい。
「言い訳をさせてもらうならば、あなたを迎えるための段取りに没頭してしまっていたのだ。……己の頭の中ではあなたのことばかり考えていたので、本物のあなたをないがしろにしている意識がなかった」
「段取り……」
なんだか熱烈な告白を受けているような気がしてふわふわとした心持ちになる。いえ、実際そうなのだ。ただ理解が追いつかないだけで。
思わず聞き慣れぬ言葉を鸚鵡のようにくりかえしてしまったわたくしに、ヴィオヘルム様はさらなる説明を求められていると受けとったらしい。
「王家に二心ある者やあなたを外交の道具として使おうとしている者たちを排除していた」
さらっととんでもないことを言われたがやはりわたくしの思考にまでは届かなかった。
どきん、どきんと、先ほどよりも大きく、強く、心臓は壊れてしまうのではないかと怖くなるほどの脈を打っている。
だって、今夜は――。
「……やはり疲れているのか。こんなことを言うのは私の自己満足だったな。すまない」
「え……」
動悸が最高潮に達したその瞬間。
ヴィオヘルム様は立ちあがると、わたくしとは真逆の――出入り口の扉に向かって歩きだす。
「食べられるだけ食べて、あとはゆっくり休んでくれ」
「――……」
「……どうした? 具合が悪いのか?」
「ち、ちが、」
眉を寄せたヴィオヘルム様が踵を返した。心配ないと伝える前に隣へ立たれ、顔をのぞきこまれる。
そして、ヴィオヘルム様は見てしまった。
真っ赤になったわたくしの顔を。
「……」
息を詰めたヴィオヘルム様の頬が、わたくしの熱が移ったかのようにほんのりと染まった。
数秒の沈黙ののち、ヴィオヘルム様は小さく息をはき、首をふった。頬の色はもう元へと戻っている。
わたくしはといえば、あまりの恥ずかしさにうつむき、泣いてしまいそうになるのを必死にこらえていた。
「式を挙げるまで、いやその後も、寝室を同じくするつもりはない。あなたがよいというまで待とう」
「は、はい……」
人の気持ちがわからないと言われつづけたヴィオヘルム様は、こんなときだけ敏かった。
わたくしが何に緊張して上の空になっていたのかを見抜かれてしまった。
「この部屋はあなた個人の部屋だ」
それも他の方々からの助言なのだろうか。
でも助言に従い、わたくしのことを懸命に考えてくれているのはやはりヴィオヘルム様だ。
ぼうっと考えていたらヴィオヘルム様はすでにまた扉へと戻り、出ていかれるところだった。
「あ、あの、」
声をかければふりむいてくださる。
わたくしは顔をあげてヴィオヘルム様を見た。怜悧な印象のお顔は相かわらず無表情だったけれど、少しだけ赤らんで、その色になぜか心の奥底がきゅうっと締めつけられた。
「……おやすみなさい……」
ようやくその一言だけを絞りだせば、ヴィオヘルム様はうなずいた。
「おやすみ。また明日」
音を立てぬように気を使って閉められるドア。わたくしには侍女のアンリがいたのに、ヴィオヘルム様には従者がいなかった。それもおそらくはわたくしたちを気遣ってのこと。
……わたくしはいったい、ヴィオヘルム様をどう思っているのだろう――。
テーブルの上の見慣れた料理を眺めながら、わたくしは千々に乱れる我が心をもてあましていた。
こうして、グリスウォルド国での一日目は終わった。