第五回 接触
「はぁ、はぁ……」
教会のほうから大きな鐘の音が鳴り響いた頃、俺の疲れもピークに達して、走るのを止めて歩き始めた。まだほんのりと薄暗いものの空は大分明るくなってきたし、おそらくあれは朝の六時を示すものだろうな……。
勢いでセリアたちの家を飛び出してしまったが、俺はこれからどこへ行けばいいのやら……。アトリが心配して追いかけてくるかもしれないということであれからかなりの距離を走ったから、もう後には引けない。
ただ、異世界とはいえ言葉は普通に通じてるみたいだからそんなに心配はしてない。勇者召喚が盛んに行われているというだけあって、向こうの言葉もこっちに相当浸透しているんだろう。
六時になったことが影響してか、周囲には目に見えて人が増えてきた。しかも、それまで人間だけだったのが、猫耳を生やした亜人や馬の顔をした獣人、ハーフエルフっぽい耳の長い端正な顔立ちの男女なんかもいて緊張する。しかもみんな剣や斧を堂々と腰や背中に携帯してるからな。これは元の世界じゃありえないことだ……。
「……ふう」
どうにも落ち着かないので路地裏に入った。ここから奥にはアーチ状の小さな石のトンネルも見える。その向こう側も薄暗くて、さらに高い壁沿いの道がそこでカーブしていて先が見えないようになっていた。こっちに行ってみるか。人気のない暗い場所でゆっくり歩きながらこれからのことを考えたい……。
「――……んー、とりあえず、どこかの店にでも入り込んで働かせてもらおうかな……あっ」
「きゃっ」
独り言を吐いている最中、トンネルを過ぎたあたりで前から来た誰かにぶつかってしまった。
「……いたたっ……」
しかも相手は子供っぽい。黒いローブを着た、耳元まである濃い緑色の髪の少女だった。今の衝突で尻餅をついて痛がっていた。背が低いアトリよりもさらに小さくて幼女に近い印象だ。
「お嬢ちゃん、大丈夫? 悪かったね、俺ちょっと考え事してて……」
女の子に手を差し伸べるも、彼女は無表情で俺のほうを見るだけだった。もしかして怒ってるのかな……。
「……いえ。私のほうこそ……余所見しちゃって……」
「……」
なんだ、この子から伝わってくる妙に大人びた空気は……。よく見ると耳が横に長いな。あー、異世界だし、もしかしたらハーフエルフなのかもな。見た目と年齢が乖離してるタイプっぽい。
「……帽子、帽子……」
「ん?」
幼女が四つん這いになって片手を彷徨わせている。俺とぶつかったことで落ちたんだろうな。一緒に探してやろうと思ったら、俺の足元に大きな黒いとんがり帽子があった。こんなに近くにあるのに見つけられないってことは、相当視力が悪いっぽいな……。
「はいどうぞ」
「……ありがとう……」
「……う、あ……?」
帽子を受け取った彼女が小さく笑った途端、ぞわっとした感覚が体中を襲う。……体が、動かない……?
「私のこと、見たわね」
「……え?」
「……普通なら喋ることさえもできないはずなんだけど……あなた、まだ何も知らないっぽいわね。勇者?」
「……あ、ああ……」
「……そう。どうやら最近新しく召喚された子みたいね。殺してやろうかと思ったけど、まあいいわ。今はそんな気分じゃないし」
「……」
この子は何者なんだ……。でもそれを決して聞いてはいけない、そんな予感があった。触れられてもいないのに体中を撫でられているかのような感覚とともに……。
「フフ……じゃあね。勇者ちゃん……」
微笑む彼女の顔が迫ると、俺の頬に何かが当たる感触がした。唇か。視力、悪いんじゃなかったのか? ぶつかっただけなのに殺してやろうかとか、今のキスとか……なんか偉く物騒で不思議な子だったな。異世界、恐るべし……。
「――コーゾー様!」
「あっ……」
振り返ると、魔女が立ち去った方向からアトリが走ってくるのがわかった。本当に追いかけてきたのかよ。ま、まずい……。
「待ってください!」
逃げようとしたが、ダメだ。足が縺れて転んでしまった……。彼女の足音が迫るのがわかる。
「……アトリ、もう俺のことは忘れてくれ」
「……どうして……」
「外れ勇者と一緒にいれば君が傷つくだけだ。そうでなくても見た目で誤解されてしまう」
「……嘘つき」
「……アトリ?」
見上げると彼女は泣いていた。あのときのような無表情じゃなく、怒りやら悲しみやらが混じったような複雑な顔で。
「私と一緒にいれば癒されるって言ってくれたじゃないですかぁ!」
「……」
「私は他人の痛みに敏感だって……。だから、わかるんです。あなたが周りに心配させないように平気そうな顔をしていても、心の中ではどれだけ傷ついているかが……」
「……この先、辛いかもしれないぞ? いばらの道だろうな」
「構いません。ともに生きましょう。どうか、私をコーゾー様のお側にいさせてください……」
「……そんなこと言われて、断れる男はいないよ。俺のほうからお願いしたいくらいだ……」
「ひっく……えぐっ……すみません……嬉しいのに涙が止まらなくて……」
「思いっ切り泣いたらいいよ」
「嫌です。みっともないので早く止めたい……ぐすっ……」
「あはは……」
俺は笑うしかできなかったが、彼女は泣くばかりだった。俺のせいで泣き虫になっちゃったみたいで、なんか悪いな……。