第百三回 金縛り
「……」
長い階段を上りきり、女王の間に足を踏み入れた途端、俺の体は動かなくなってしまった。全身の感覚が麻痺して、宙に浮いているかのようだった。
広々とした空間の端に並ぶミイラたちもそうなのか、まるで周囲に見えない壁でもあるかのように一歩も動けずにいる様子だった。その中央には、魔女がうつ伏せに倒れていた。
あれはリュカだが、リュカではない。すぐにそれがわかった。俺の足元に水溜まりが出来ていて、何かと思ったら自分から滴り落ちる汗だった。暑いわけじゃないのに、むしろ寒ささえ感じるのに汗が止まらないんだ。直感で分かった。早く、一秒でも早く慣れないとまずい。この空気に……。
金縛りにあったような状況の中、俺は必死に詠唱しようと試みるが、それすらもできずにいた。頼む……詠唱させてくれ……。
うつ伏せになっている幼女を前に俺はひたすら恐怖していて、寒気が止まらなかった。みんなついてきているはずなのに孤立してる感覚さえあるのも、誰も俺と同じように固まってて、声すら出せない状況だからだろう。このままじゃみんなやられてしまうのは間違いない……。
――畜生、お願いだから俺の口よ、機能してくれ、頼む……。
「……《マジックキャンセル》……」
よし、小声だがちゃんと出せた。
「《エル・ブラストエッジ》」
「ぐうっ……!」
大きな緑色の風に包まれ、体が仰け反って両手が後ろに流れそうになるが、輝く杖だけは手放さなかった。これを放せば全て終わってしまうのはわかっていたから。
いつの間にか起き上がっていた幼女は、とても残酷な笑みを浮かべていた。そこには寂しさのようなものは微塵も見えない。壁に押し付けられて動けない状況でも、それははっきりとわかった。あれは目の前にいる弱った虫を踏み潰そうとしている顔だ。
「……リュカ……!」
「……」
俺の声にも一切反応しない。もうそこにリュカの姿はないが、俺はまだ諦めきれない……。昔から俺は諦めが悪かったんだ。どんなときでも。それだけがお前の唯一の長所だと親に言われたこともある。それなら、それをここで生かすだけだ……。
「……《カウンターボール》……」
俺が最初にこれをしなかったのは、《マジックキャンセル》であの猛烈な勢いを少しでも削がなければ、詠唱すらできずに終わると思ったからだ。
「……《エレメンタルチェンジ》……」
さらに風の魔法を地の魔法に変えて押し戻す。これでも五分五分だが、そこに自身の渾身の地魔法を加えてやると、一気にリュカのほうへ勢いよく逆流していった。
「――きゃああぁぁっ!」
リュカの小さな体が、悲鳴とともに壁に叩きつけられる。
「リュカ……!」
風の素魔法で自分をそこまで飛ばし、落ちてきた彼女を受け止めた。本当にギリギリだった。勝負がもうちょっとでも長引いていれば、持ってる魔力の差から考えても俺が負けていただろう。
「――……う……」
「起きたか? リュカ……」
「……うん。また迷惑かけちゃったわね、旦那様……」
「……まったくだ。とんだお転婆だよ、リュカは……」
「……私、呪いで狂いそうになると、こうして洞窟とか神殿に籠もるの……。魔女は恐ろしい存在じゃなきゃいけない。じゃないと、もっと多くの人を殺してしまうでしょ……」
「……そうだったんだな。だから必要以上に自分の存在をアピールして、人を遠ざけてたのか……」
「うん。でも、今回は本当に元に戻らないかもって思った。《狂人の刻印》は、どんどん悪くなっていくものだから……」
「リュカ……じゃあもし次に狂ってしまったら……」
「……もう元には戻れないと思う。ここの薬草があれば少しは抑えることはできるけど、一時的なものだから……」
「……俺はどうすればいいんだ?」
「だから、次に私が狂ったら、旦那様が私を殺して……」
「そんなことできるわけがないだろ……。例の勇者を探し出して、殺すしかない。そいつを俺が殺してやる……」
……俺は自分でも信じられないことを口走っていた。俺が殺すだと……?
「……コーゾー様……」
「……あ……」
アトリが信じられないといった顔で俺を見ていた。
「旦那様……大好き……」
「……リュカ……」
リュカの唇が俺の唇に合わさってくるが、不思議と嫌な気がまったくしなかった。アトリが近くで見てるっていうのに、どうして……。
「……嫌……」
どうしたんだ、俺。動けない。体に全然力が入らない……。
「嫌ああぁぁっ……!」
アトリの痛々しい悲鳴が響き渡った……。




