赤い狼煙
翌日、宿の用意した朝食を済ませると、ヨンフリーは早々に宿を出た。
結局、魔法は彼等の目の前では使わずに、結果だけを残すという形にした。少し早起きをして、裏の畑を整備する事にしたのだ。つい先日まで、ウルオスの郊外で荒れた畑を修復する際に行っていた作業を基本に、この場所用に少しアレンジをした、という格好だ。
此処の畑は、大きな木と木の間を縫うように造られている。長年の経験と試行錯誤の末に徐々に面積を増やしていったのだろう。それ故、畑として見れば邪魔な場所に木が生えていたりする。その邪魔な木を、ヨンフリーは魔法を使って取り除き、畑を広くするとともに取り除いたその木を使って柵を作って整備したという訳だ。
ただ、この森の場合、単に木を取り除くだけでは、降り続く雨の所為で畑が水浸しになってしまう可能性がある。その為、魔法で取り除かなかった周囲の木の成長を促し、その部分を埋め合わせるようにケアしておいた。もちろん、もともとあった結界も新しい畑の形に合わせて移動させてある。
魔法自体を見せない事にしたのは、ウルオスの市民でさえ、同等の事をする際には、かなり驚いていた事を思い出したからだ。使用する魔力量の割に、結果がかなり派手で目立つ所為だろう。ここが誰もいない森の中だからこそ、やってみようと思った事でもある。
とはいえ、その瞬間は見ていなくても、普通なら一夜でこれだけの事をするのは無理な事は明らかなので、魔法を使った事は明らかだし、結果、彼等の為にもなっている。
ティクトンが魔法見たいと言った本来の目的とは少々ずれてしまったかもしれないが、この結果を二人は喜んでくれたので、これはこれで良かったと考えてもいいだろう。
そしてその後ヨンフリーは、早々に二人に別れを告げて宿を出て森の街道へと戻った。
その街道を半日程下って行くと、唐突に森は終わっていた。ふと、振り返って見上げてみると、森は少し先からぶ厚い雲に覆われている。これから向かうラドオークの街は陸側を高い山に囲まれたすり鉢状の地形の底に当たる場所に設けられた街なので、ヨンフリーが下って来た街道の森も、反対側のユルへと続く街道の森も、海からの湿った風がもたらす雲の所為でほとんど見えなくなっている。対して、ラドオークの街の上空は快晴だ。更に先の広大な海原も遠くまで見通す事ができる。遥か沖合を海鳥が飛んでいく姿も見える。
ヨンフリーは道端に見晴らしの良い草地を見つけ、そこで馬を止めた。ちょうどお昼なので、センテが畑の御礼にと作ってくれた弁当を頂こうと考えたのだ。馬も久々に新鮮な草を食める為、喜んでいる。馬を休ませるのにも丁度いい頃合いだったという事だろう。
センテの作った弁当はとても美味しいものだった。
ヨンフリーとしてはそんなに早く食べたつもりはなかったのだが、美味しかった所為か、あっという間に食べてしまったようで、食べ終えた時、馬はまだ忙しなく草を食んでいた。とはいえもう充分な量を食べているように思うので、無理やりやめさせても良かったのかもしれないが、急ぐ旅でもないので、ヨンフリーはこれまでの行軍を労わる意味も込めて、馬をもう少し放っておく事にした。
そしてその間、ウルオスからは見る事の出来ない海の景色を眺める事にする。
天気が良い事もあり、海上は遥か遠くまで見通す事が出来た。遮る物がないのでウルオスの様な山間の国では考えられない位遠くまで視界がある。といっても、その海の上には目標物となるようなモノは、はるか遠くに幾つか島が見えるくらいで、その他には、遥か沖合を飛ぶ鳥くらいしか見えるものはない。
という事もあり、何気なくたまたま目についた一羽の鳥を目で追っていたヨンフリーは、その鳥にちょっとした違和感がある事に気が付いた。かなり遠くにいるはずなのに、海岸を飛ぶ海鳥と大きさがあまり変わらないように見えたのだ。そんな事は別にどうでもいい事だといえばそう言えない事もないのだが、何故か妙に気になってしまったヨンフリーは、遠見の魔法を使ってその鳥を拡大して見てみる事にした。
今日はもう既に早朝から宿で魔法を使ってしまっているが、魔力の残量は、まだまだ充分残っている。ヨンフリーはふと右手の腕輪に視線を落とした。この腕輪には、表面に一列に並ぶ八つの花の模様がついている。一つ一つが八つの花びらを持つ美しい花だ。それらの花の内、端の二つだけ赤く色づいている。正確に言えば、その二つの花の内、一つは八枚ある花弁の内の半分からは色が消えているのだが…。
ヨンフリーは肉眼で大雑把に狙いを付けると、遠見の魔法を発動させた。魔法を使って見てみると、その鳥は確かに少し大きいものの只の白い渡り鳥だという事がわかった。その鳥は、あまり羽を羽ばたかせず、大空を滑るように飛んでいる。ウルオスでは見かけない大きな鳥だ。
とはいえ、人を乗せられる程の大きさはない。ましてや、トキトの乗っていた竜などとは大きさも形も全然違っている。
「こんな所にいる訳なんてないわよね」
思わず声に出して言ってしまい、頭を振って遠くを見るのを止めようとした…その瞬間、ヨンフリーは遠見の視界のその端に、何やら赤いものが見えたような気がした。
遠方とはいえ、鳥が飛ぶほどの高さにある赤といえば、トキトの竜レンドローブが思い浮かぶ。同じ赤でも鮮やかさがだいぶ異なっているような気はするが、気になったので、ヨンフリーはもう少し魔力を込めて探ってみる事にした。
しかし、それはただの赤い色の煙のようだった。
「狼煙…かしらね」
狼煙はウルオスではほとんど使わないモノではあるが、全く使わない訳でもない。伝達系や転移系の魔法が使えない場合に備えて準備もしてある。だが、訓練ではなく実際に使っているを見たのはヨンフリーは初めてだった。
「あの距離だと、普通の人には見えないでしょうから、きっと何本かを経由して伝えてくるのでしょうね」
何が有ったのかはわからないが、こう言う場合、魔法を使えないのは不便なものだ。恐らく最終的には、ラドオークの街まで伝えられてくるのだろうが、それにはまだまだ時間がかかりそうだ。
「まあ、私には関係ないけどね」
ヨンフリーはそう1人語ちると、今度こそ遠見の魔法を止めた。
そして、まだ草を食んでいる馬の背中を軽く叩き、体を浮かせて馬の背に跨ると、それを合図に馬は草を食むのを止め、歩く準備を整えた。眼下には、ゆったりと回る数基の風車と海岸沿いに赤茶けた石造りの城壁に囲まれた街が見えている。
ヨンフリーは快晴の空の下、遥か眼下に見える街、ラドオークに向かって、ゆっくりと坂を下って行き始めた。