発信
少しばかり後ろ髪を引かれながら、シニャンカがそれまでずっと見つめていたアルクース島から船の上へと視線を戻すと、グレヒルは見張り台の上の変わらない位置にいた。何か見つけたのなら、さすがに何か言って来ると思うので、恐らく何も見つけていないのだとは思うのだが、さすがに少し気になったので、シニャンカも見張り台に登ってみる事にした。
船は順調に航路を進み、いつの間にかもうアルクース島とシュララク島の中程くらいにまで進んでいる。とはいえシュララク島に到着するにはまだもう少し時間がかかる上、追い風のおかげでまさに順風満帆だという事もあり、今、見張り台の上にはグレヒル以外には誰もいない。
シニャンカが見張り台の上に登るのは、今回が初めての事ではない。しかし見張り台の上は、見晴らしが良くて気持ちがいいのは事実なのだが、落ちそうで怖い為、あまり長い間居たい場所という訳でもなかった。
特に、今日は風が穏やかな割には結構揺れる事が有る日なので、注意して掴まっていないと落ちてしまいそうになる事が有る。
慎重に木の枠を乗り越えて見張り台の枠の中に入ったシニャンカは、まだ海を見つめたままでいるグレヒルに後ろから声をかけた。
「いつまでここにいるつもりなのですか。こんな所に長くいると、体が冷えてしまいますよ」
すると、グレヒルはシニャンカの方を振り返ろうとして、しかしちらと見ただけですぐにまた海の方へと向き直って、
「大丈夫っすよ。これでもそれなりに体は鍛えてあるつもりなんで」
グレヒルがややおざなりな口調でそう言った、その時だった。
シニャンカの身体がぐらりと揺れた。
一瞬、突風でも吹いたのかと思ったが、そうではない。この軽く脳内を揺らされる様な感覚には覚えがある。一番最近では、行方不明になっていたベリーク島の島民を探している時にも似たような経験をした事が有った。あの時と比べればレベルはだいぶ小さいが、間違いない。
幻術だ。
何者かがこの船に幻術をかけているのだ。
シニャンカは慌てて見張り台から身を乗り出す様にして下を覗き見た。しかし、甲板の上を始めとして、船の航行にも特に異常は見られない。水夫の姿もちらほら見えるが、皆、普通に作業をしている。あの時の様に、仲間同士で戦りあう者など誰もいない。
ふと横を見ると、グレヒルも変わらず海を眺めている。もちろんシニャンカに向かって襲い掛かってくる様な事はない。ただひたすらに海を眺めているだけだ。
シニャンカはポケットの中のものを取りだそうと胸の前まで持って来ていた右手をその場で止めた。一瞬、あの時トキトがやったのと同じように、グレヒルを正気に戻す為に黒念石を使おうと思った訳なのだが、良く考えればグレヒルは黒念石を持っていないので、意味がないし、何よりグレヒルは同じ見張り台の中にいるので、身体を揺すった方がよっぽど早くて効果的だと考え直したのだ。
グレヒルの様子には特に変化は見られない。後ろのシニャンカには注意を払う様子もなく、だだ海面を覗き見ている。一見して、幻術に掛った様子はないようだ。
もしかしたら、先程の感覚は、自分の勘違いだったのではないのか。そんな風に思い始めていたシニャンカの視線の端に、なにか大きな黒い塊が通り過ぎて行くのが見えたような気がした。慌ててそちらの方向を見てみると、黒ではなく深い紺色の大きな蛇の胴体の様なものが、海面近くに見え隠れしている。
いや、蛇ではない。蛇のように見えたのは何かの尻尾。あれだけ大きな、しかも青い鱗の尾を持つ生物となると、シニャンカには一つしか心当たりがなかった。
海竜だ。
海竜というのは、竜という名はついているものの、竜のような翼は無く蛇に近い見かけの獣だ。しかし、海上ではほぼ無敵なこともあり、そんな風に呼ばれている。十年ほど前に、とある島で竜将フォミンデが仕留めた事は、この国では有名な話だ。それ以降、ラドオークの領内では見かけたという報告は上がっていなかったのだが、その海竜がこの海域に現れたのだとしたら、これは一大事だ。
すぐにグレヒルに言って、確認する事にする。
「グレヒル、ちょっとあそこを見て。あれって、もしかして海竜じゃない?」
慌てて早口になってしまったシニャンカに対し、グレヒルの反応は随分と鈍いものだった。
「なぁーに言っちゃってるんすかぁ。そんなでかいモノがいたら、俺っちが見逃す訳がないっしょ」
「ほら、あそこよ、あそこ」
シニャンカの指差した先では、青く輝く巨大な蛇の背中の一部が海面に姿を表している。しかし、それでもグレヒルは反応しない。
「隊長、やっぱり疲れちゃってるんじゃないっすかぁ、そんな訳のわからない事を言うなんて…」
「訳がわからないのはあなたでしょ。あんなにはっきり見えるじゃない」
海竜は背中の一部を海面に出したまま、船の斜め前方を泳いでいる。金属光沢の深い青の鱗が、日に当たって輝いてみえる。海上には一部分しか見えていないが、全長はこの船よりも長そうだ。不測の事態の備えて通常の船よりも頑丈に造られているこの船でも、アレに襲われたら、無事でいられる保証はない。此処からシュララク島まではまだ距離がかなりあるので、ここで船がやられたら、乗員の命はそれまでだ。
焦るシニャンカ落ち着かせようという意図でもあるのか、シニャンカとは対照的にグレヒルは随分と冷静に見える。
「とにかく落ち着いてくださいよ、隊長。夢でも見ているんじゃないですか?」
「夢なんかじゃない…」
そこまで言った所で、シニャンカはいつの間にか左の手に握りしめていたものの存在に気が付いた。
握っていたのは首にかけていたペンダント。その銀色の鎖の先に付けられていたのは親指の指先程の大きさの赤く透明な石だ。
この石はシニャンカが大事にしている思い出の石、緋玉だ。ベリーク島で倒したクンバから取ったものを、そこにいた皆で分け合ったものの一つで、この緋玉を持つ者は幻術の影響を受けづらくなると言われている。その所為で、シニャンカは自分だけが幻覚を見ないですんでいるのかもしれないという事に思い至った。
幸いシニャンカは緋玉を二つ持っている。あの時倒したクンバは、緋玉を十個備えていた為、その場にいた五人で二つづつ分けあったからだ。シニャンカは、それを一つはネックレスに付け、もう一つは予備として持ち歩いていた。懐からそのもう一つの緋玉を取り出し、グレヒルの手に握らせる。
訳がわからないまま、赤い石を握らせられたグレヒルは、しかし握った瞬間、顔色を変えた。たった今まで何もなかったはずの海の上に、突然、海竜が現れたからだ。
「なっ、なんだ、これは。一体、どういうからくりなんっすか?」
「その説明は後、とにかくアレを何とかしないと…。下手をしたら私たちは全員あの世行きよ」
グレヒルは最初は少し慌てたものの、すぐに落ち着きを取り戻し、海竜の姿を目で追った。そしてそうしながらシニャンカに言い返す。
「あの世行きって…、なんだか古臭い言い方っすね」
「ど、どうでもいいでしょう? 今は、そんな事。それより…」
「もう少し落ち着いた方がいいっすよ、隊長」
グレヒルにとっては、視界に突然海竜が現れた事になる訳で、その海竜からいかにして逃げ切るのか、大問題のはずなのだが、その割に意外に落ち着いている。
グレヒルの視線を追って、シニャンカが視線を海に戻すと、海竜の姿は先程よりも随分と小さくなっていた。どうやら海竜はこの船から離れて行っている様だ。
「どういう事?」
「頭の悪い俺っちには、何が何だかわからないっすけど、けどまあ、一つ言えるのは、せっかく去って行こうとしている大きな脅威に、余計なちょっかいを出すような真似をして、呼び戻すような愚は犯したくないって事っすね」
それはまあそうだ。海竜がわざわざ幻術を使って、この船を惑わした意味は良くわからないが、去って行ってくれるのなら、こちらとしてはその方が都合が良い。なにしろこの船には海竜討伐の為の武装など全く施されていないのだ。
「…よかった」
「でもないっすよ。本国に連絡して、早いとこ討伐隊を組織しないと」
「確かに、早い所やっつけるか、この海域から追い出すかしなければ、この辺りに安心して船を出す事が出来ないものね。すぐに緊急の狼煙を上げましょう」
海竜の姿はもうかなり小さくなっている。海竜が向かっているのは島や航路から離れていく方向だ。それはそれで助かるものの、かと言って、このまま放っておいてよいような問題ではない。
「ところで隊長、この赤い石、綺麗っすね。俺っちが貰ってしまってもいいっすか?」
「ダメです。返してください」
シニャンカにとって緋玉は大切なものだ。それは、将来、然るべき人と出会った時、渡したいと思っているものだからだ。
「ちぇー」
グレヒルは不満げな表情をしながらも、緋玉をシニャンカに返した。グレヒルが言い出さなければ少なくとも今は気が付かなかったかもしれないので、律儀と言えば律儀な行為だ。
シニャンカがその緋玉を懐に戻す。その間に、グレヒルは何やらごそごそ腰の巾着袋をあさっていた。
「何してるの?」
「えっ? 決まってるじゃないっすか。これっすよ」
グレヒルが取りだしたのはゴルフボール大の小さな玉だった。その一部に円錐形のスカートのようなモノが付いている。これは携帯用の狼煙だ。
「ちょ、ちょっと。こんな所でそれを使うつもり?」
「ここから投げれば遠くからでも見えるじゃないっすか」
携帯用の狼煙はスカートの中に火をつけた後、思いっきり上に向かって投げるもので、上空で点火し、そこから更にロケットの様に上昇する。その噴煙が狼煙の役目をするのだ。噴煙の色の違いによって危険の度合いも知らせる事が出来る。
「…えーと。この場合、緊急度は高いから赤いヤツで…っと」
「え、何?今、なんて言った?」
シニャンカが聞くが、グレヒルは何やら作業をしていて聞いていない。
「いくっすよ」
グレヒルは作業を終えると、すぐに真上に向かってその球を投げた。グレヒルの投じた狼煙の玉は、見張り台の上からマストの頂上を超えて上昇し、そこから真っ赤な噴煙を上げて、更に勢いを増して昇り始める。
綺麗な赤い軌跡が晴天の空に延びていく。
うまく上がったので、グレヒルの思惑通り、遠くの島まで伝わるはずだ。もしかしたら少しオーバーに伝わってしまうのかもしれないが、それでもまあ逆よりはいいだろう。
「狼煙って意外に綺麗なモノなんすね」
グレヒルが呑気な事を言っている。でもまあ、確かに綺麗だ。しかし、この綺麗な狼煙が、まわり回って誰にどう伝わって行くのかなど、この時のシニャンカには知る由もなかった。