異変の感触
シニャンカはベリーク島からシュララク島へと向かう船の上にいた。
一時閉鎖されていた事のあるこの航路も、もう既に定期的に船の出る状態に戻っている。ラドオークのほぼ南の端に当たるこの海域は、波が比較的穏やかで、かといって凪ぐような事も無く常に穏やかな風が吹いている為、島と島との間を行き来する船にとっては比較的航行しやすい場所だといっていい。
ここから少し南に行くと一年中風の吹かない、「凪の海域」と呼ばれる船乗りに恐れられる海域があるのだが、ここではその兆しさえ感じられない。定期的に風向きは変わるものの、風が無くなる事はない。今、吹いているのは少し湿った南風だ。
その風に紫色の髪を靡かせて、シニャンカは沖合に見えるアルクース島を眺めていた。
シニャンカがこの船の目的地でもあるシュララク島の役場に官吏として赴任してきたのは、もう三か月ほど前の事になる。シニャンカの仕事は、シュララク島を起点に、周辺の島々の情報を集め、その情報をそれぞれの島にフィードバックして、沢山ある島同志で情報の共有化を図るとともに、大事が起こった時にはいち早く対応ができるようその情報を遠く離れた本国へも伝える事だ。これはベリーク島で起こった全島民失踪事件の後設けられた仕事なのだが、シニャンカはその仕事の二代目のリーダーとして赴任して来たのだ。
といっても、シニャンカの部下はたったの三人だけしかいない。シニャンカは、自分を含めても四人しかいないその人員を、通常は二つに割って二人一組で行動させている。なので、普段から一緒にいる部下という事になると一人だけという事になる。その唯一の部下であるグレヒルは、上司であるシニャンカに対して、普段からかなりラフな口調で話しかけてくる。その所為でたまに自分が上司である事を忘れてしまいそうになるくらいだ。
とはいえ、シニャンカはこの仕事が嫌いではなかった。本土で机に向かって仕事をするよりも、こうして船であちこち回る仕事の方が性に合っていると思っている。子どもの頃から海風に当たっていた所為か、海の上にいる方が落ち着くようなのだ。
それに、ある意味因縁の場所でもあるこの辺りの海を見回る事は、あの時の事を忘れずに教訓にする為にも重要だと思っている。異変の目は小さいうちに見つけて取り除くようにしなければならない。何もない平和な時こそ、決して油断をしてはいけないのだ。
そんな事を考え、甲板で一人物思いにふけっていたシニャンカの元へ、若い男が近づいて来る。
「こんな所にいたんすか、隊長。船の上にいる時くらい休んでおいた方がいいっすよ。どうせシュララクに戻ったら、会議三昧になるんすから」
この男が問題の部下のグレヒルだ。
グレヒルはシニャンカよりもだいぶ薄い紫色のさらさら髪を、風で乱されない様手で押さえながら、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。シニャンカは一度グレヒルの方を振り返り、しかしまたすぐに海の向こうに視線を戻した。
「構いません。これも仕事ですから」
「つっても、異変なんてそうそう起こりやしませんって。海も島もいつも通り、異常は全くありまっせん」
グレヒルは少しおどけた態度でそう言うと、わざとらしくシニャンカに向かって敬礼した。そんな事をする決まりはないので、これはグレヒルがただ格好をつけたくてやったものだ。
官吏になってまだ一年にもならないグレヒルはやたらと格好をつけたがる。黙っていればそこそこイケメンのグレヒルだが、その態度や言動が随分と心証を悪くしている。シニャンカも始めはそれを注意したのだが、グレヒルは、前任の時からずっとこうしてきているので問題はないはずだと言って直さない。結局、シニャンカが先に折れる事となり、最近はいちいち注意しなくなった。一緒に働く事で、グレヒルが与えられた仕事はきちんとこなす男だとわかったという事もあるのだが…。
「確かに、今の所は何処にも異常はないようですが、異変は何処に潜んでいるのかわかりませんよ。だから、常に警戒しておくに越した事はないのです」
「そんな事を言っていたら、身体を壊しちゃいますよ。隊長が抜けると俺っちの仕事が増えちゃうし、そうなったら困るんだけどなぁ」
「そんな心配はしなくていいです。これくらいの事では私は倒れませんから。それより、その隊長という呼び方はやめてくださいって、何度言ったらわかるんですか。私は隊長ではありません」
「なら何と呼ぶんです? ラドオーク南方諸諸島情報統括担当長、なんて長い呼び方じゃ、俺、嫌っすよ」
「無理やりそんな役職で呼ばなくても、シニャンカさん、とかでいいじゃないですか」
実際、グレヒル以外の部下の二人はそう呼んでくれている。グレヒルだけが何故だか、隊長、と呼んでくるのだ。
「うーん。シニャンカさん、かぁ。いまいち格好良くないんだよなぁ」
「人の名前をそんな風に言うのは失礼だと思いますよ」
それまでずっと海から視線を外す事の無かったシニャンカだったが、さすがにここは怒るべき所だろうと思い、きちんとグレヒルの方へと向き直った。が、グレヒルはシニャンカが見ていた方向とは別の方向の海を見つめていて、シニャンカの視線は空を切る事となる。きつく睨みつけてみても、グレヒルは何の反応も示さない。さすがにおかしいと思ったシニャンカは、グレヒルの視線の先を窺ってみた。
「どうしたのです?」
しかし、そこには海があるだけで、特におかしな点など見あたらない。少しして、グレヒルはシニャンカの方へと視線を戻した。
「何でしたっけ。そうそう、俺っちは隊長にはそんなに気張らずにやって欲しい、なんて思っていたりなんかしていたんだけど…」
「ん?」
シニャンカは、グレヒルの話がおかしくなっている、というか、グレヒルの頭の中で、話題が少し戻ってしまっているような気がしたのだが、グレヒルの真剣な表情を見て、それを指摘するのを止めた。
と、グレヒルは踵を返し、
「でもまあ、なんだか嫌な予感がする事も確かみたいなんで、俺っちも少しばかり警戒レベルを上げてみますわ」
と言うと、返事は聞かずに、今も後ろからの風を受け大きく膨らむ帆布を支えるメインマストへと駆け寄って、その太い柱を勢いよく登り始めた。そして、あっという間にマストの上の見張り台の上まで登りきると、身を乗り出す様にして周囲の様子を探り始める。
普段はおちゃらけている事が多いグレヒルだが、あれで運動神経は意外に良かったりする。本気になれば持久力も無い方ではないので、シニャンカよりも遥かに実務向きだ。グレヒル自身もそれはわかっているのだが、常に気を張っているといざという時に力が出せないというのがグレヒルのモットーのようで、だから普段は気張らない様にしている…らしい。
シニャンカは、グレヒルとはシニャンカがここに赴任して以降のまだ三か月くらいの付き合いでしかないのだが、それでもグレヒルが今、本気モードに突入した事くらいはわかった。グレヒルのそんな様子を見てしまっては、シニャンカも監視のレベルを上げざるを得ない。先程までよりもより入念に海の様子を窺ってみる事にする。
すると、沖合に見えるアルクース島の台形に見える山の頂上付近で、小さな影が二つ、じゃれあうように絡みあいながら飛び回っている姿を確認する事ができた。といっても、これは緊張するべき事態ではない。周辺の島々では神として崇められている鳥、魔鳥アルクースに二羽の雛が生まれ事はこの辺りに住む者にとってはもうとっくに周知の事実になっている。
かの鳥は人に害をなす事が無い事は皆がよく知っているので、子供が生まれたからといってその状況に変化が生じるとは誰も思っていない。ただ、子供がしっかり育つまでは、下手に刺激を与えるとさすがに怒りを買いかねないという事で、しばらくはあの島にはなるべく近づかない、という取り決めにはなっている。船の航路が以前よりもだいぶ島から遠くなっているのも、そんな理由があるからだ。
ある程度成長したとはいえ、若鳥たちはまだ上手に飛べないのか、時折墜落して山の斜面に激突したりもしているように見える。もしかしたら、そんな若鳥の行動にも問題はあるような気がしないでもないのだが、それは見守るより方法がないので、放っておくしかない。グレヒルも当然、若鳥たちがじゃれ合っているのは視界に入っているはずなのだが、やはり反応する様子は見られない。
二匹の若鳥は時折絡み合いながら、飛んだり落ちたりを繰り返している。近くに親鳥の姿は見当たらない。恐らく、今はあの島の奥にあるという巣穴の中にでもいるのだろう。もしかしたら、獲物を獲りにどこかへ出かけているのかもしれない。いずれにしても、少なくともこの船からは姿を見つける事は出来ないようだ。
ふと見上げると、見張り台の上のグレヒルが、いつの間にか位置を変えていて、アルクース島とは反対側の何もない海の上を身を乗り出す様にして見つめている。その様子は何かを見つけたようにも見えなくはない。
「何か見つけたのですかぁー」
シェルギが大きな声で聞いてみると、グレヒルもそれに大きな声で返してくる。
「うーん、今の所は、何もないっすねー」
そうは言っているものの、視線は海から離していない。ならば、なぜそんな格好をしているのか、シェルギはそう思ったがそれは聞かずに、何となくもう一度島の方を振り返って見た。二匹の若鳥は相変わらず空を飛ぶ練習をしているのか、山の山頂と同じ位の高さでじゃれ合っている。
と、突然一羽の若鳥が、きりもみ状態でくるくる回りながら急降下をし始めた。じゃれ合っているうちに、羽を傷めてしまったのかもしれない。思わず身を乗り出すが、もちろんシェルギにはどうする事も出来ない。
幸い、落ちた先は島の上空から僅かに外れた海の上だったらしく、若鳥は海面に激しくぶつかって小さな波しぶきをあげて見えなくなった。航路が変わって以前より島から離れた場所を船が行っている所為もあり、シェルギの位置からだと遠くて若鳥がその後どうなったのかは良くわからない。振り返ってグレヒルを見るが、グレヒルは依然反対側に身体を伸ばしていて、その事には気付いていないようだ。
シェルギが何をする事もできずに、ただおろおろしながら様子を見ていると、少しして若鳥は海から飛び立って、上空で待っていたもう一羽と合流し、すぐに島の上空へと戻り、山麓の森の中へと消えていった。さすがに怖い思いをした為か、しばらく見ていても若鳥はもう戻って来なかった。島までは普通に飛んでいるように見えたので、怪我などはしていないと思うのだが、少し心配になる。
結局、その後アルクース島が見えなくなるまで、若鳥達は再び島の上空に戻って来る事は無かった。




