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「もう行くね。」
彼女はそう言ったっきり黙り込み、さようなら、とでも言わんばかりに透き通った手を小さく振ると一人で空のもっと先に繋がっていそうな白い雪が降り積もった道を歩いていった。さようなら、と言う暇もなく、私はただ黙って彼女の後ろ姿を見つめていた。そうして彼女を見送って、しばらくして気がついたことがある。彼女には足跡がないのだ。靴は確かに履いていたはずなのに。彼女の歩いた後の道は、彼女が歩く前と変わらず真っ新で、光の中で融ける白くきらめく雪が積もったままだった。
私がどこか懐かしい彼女の後ろ姿を見つめている間もチェロ弾きの彼は、背中に黒のチェロケースを背負ったまま黙って墓石の前に立ち、時折嗚咽をもらしていた。彼は下を向いていて、彼の表情を此処からは伺うことができない。ただ、彼の顔の下の雪が、彼の涙が溶けた後を残している。私は何となく、そこから離れる事もできずに少し離れた木立から、黙って彼を見つめていた。自分が思っていたよりも、そして彼が思っていたよりも時間は過ぎていたのであろう、少し陽が傾いたことに気がついた。そうして、彼はようやく動きだした。目尻を真っ赤にして、時々しゃくりあげながら、パッと顔をあげて、また伏せてを繰り返しながら雪に覆われた、もはや道とも思えない道を一人黙って歩きだした。私は彼が立ち去って行くのを、まるで他人事のように眺めていた。
いまなら何となく私に何が起こったのかがわかる。彼の顔をよく見たくてじっと覗き込んでも、彼のその瞳に映るのはきらめく雪だけ。彼の目と鼻の先にいる私の姿はその瞳には映らない。私が彼の元まで歩いて行くときにたどった雪でできた道にも私の足跡は残らない。その道にあるのは、彼が踏みしめて出来た、行きだけの足跡。私はきっと透明になり過ぎたのだ。この地上に降ってきてから何日か経った雪のように、汚いものをたくさん含んでいればよかったのに。同じ場所からやって来たはずなのに、なぜこんなにも違うのか。汚れていないふりをして、さも透明で美しいものであるかのように彼の瞳を奪う処女のような雪に八つ当たりしたくなっても、私は涙を流すことしかできない。ああ、本当に彼が行ってしまう。
すぐそばの広い道を走る自動車、彼の車だろうか、滑り止めのチェーンが巻かれた車が走る大きな音が遠のいて行く。透き通った涙は止まってくれない。もっと一生懸命彼のチェロを聞いていればよかった。私が色々なことに気がつけたのも、そして私の幸せな思い出もあそこにあるはずだったのに。後悔はとどまることを知らないまま、私の透き通った氷のような心の中で暴れまわる。それは、ともすれば彼のチェロの音色をかき消してしまいそうなほどだった。
氷のように透き通った心を一人、抱えながら彼が涙を流していた墓の前に向かう。私は誰の墓なのかを確かめようと思って、ツルリと夕日を反射する石の表面に近づいた。すると、その墓石に掘られた名前を読む前に、その手前にあった、長い間放っておいても錆びないようにするためだろう、銀色の花瓶が目に入った。何か違和感を感じてよく見ると、本来なら花が差し込まれるはずの場所に、一枚の楽譜が差し込まれていた。手に取れる訳もないのに、思わず私は手を伸ばす。ほら、やっぱり掴めない。私が黙って墓の前に一人佇んでいると、雪解け水すら凍らせるような冷たく冷え切った風が、一息に銀色の花瓶に差し込まれた楽譜をさらっていった。
待って。
不思議と焦りはない。私はゆっくりと歩き、近くの地面に落ちた楽譜を覗き込んだ。そこには、全部で30小節くらいの短い曲が消えないように油性のボールペンで書き込まれていた。Dear、そんなにも短い言葉が私の氷のように透き通った心を静める。少し勢いのおとろえていた涙が、ぽたぽたとまた目尻から溢れ出す。今の私の涙は、きっと彼のように雪をも融かすに違いない。
「さあ、行こう。」
私もチェロ弾きの彼のように、真っ直ぐに顔を上げて楽譜のそばから立ち上がる。顔を上げた先に輝く、この地球の全てを照らす太陽はこんなに透明で透き通った私すらも照らすらしい。その証拠に、ほら、こんなにも夕日は眩しい。私が彼のように思わず目を逸らしてしまうほどに。彼がまたここにチェロを弾きに来てくれるかは分からない。けれど、その日がくるのならばきっと、雪の日だろう。雪が積もった今日のような日なら、雪が彼の弾くチェロの音色をすっかり吸い取って、その中で朽ちる私は、もしかしたらその音を独り占めできるかもしれない。そんな幸せな想像をすると、急に母に会いたくなった。早く母に会って今日あったことを洗いざらい話したい。
私は私とよく似た女性が歩いて行った道と同じ道を今度も一人で歩きだした。私の足跡は彼女と同じで何も後に残さない。彼は私がここにいたことも知らずに彼自身の境界を越え、私は私の境界を越える。それでいいのだ。墓地とはそういう場所なのだから。彼は真っ直ぐ前を向いて歩き出せるようになっていた。
ならば、私も。
私も彼のように前を向いて歩きたい。真っ直ぐに前を向く私の限りなく透明になって、空気に溶けてしまいそうなくらい透き通った目の端に、彼のあの楽譜がまた風にさらわれて、今度はもっと遠くへ飛んで行くのがほんの少しだけ映っていた。